男は戦、女は婚礼 6
慶長四年(一五九九)正月。
元日に、伏見城において加賀大納言前田利家は、七歳の豊臣秀頼を抱き、諸大名から年賀の挨拶を受けた。利家は後見、傅役は「賤ヶ岳の七本槍」の一人、片桐且元である。
(かつて清州での会議で、羽柴秀吉と名乗っていた頃の太閤が、織田右府さまの孫の三法師さまを抱いて重臣たちの前に出たことを思い出している大名もおろう。その後の織田家がどうなったかも)
阿茶は伏見城のことを聞いて、皮肉に思った。
殿もこの年賀のため登城し、帰って来てから家臣たちの挨拶を受け、お亀さまとの間にできた八男の仙千代君を平岩親吉さまの養子にすることを正式に通達した。
平岩さまは殿と同年の五十八歳。殿の人質時代を共に過ごし、「竹馬の友」ともいう間柄で、長男の信康さまが元服すると傅役となり、忙しい殿に代わって父親のようにお側にいた。信康さまが敵対していた武田氏と通じたとのことで切腹と決まったとき、「代わりに自分が腹を切るので若殿はどうかお許しを」と殿に申し出、許されず信康さまが亡くなると、蟄居した。謹慎が解けたあとは甲斐の統治に尽力し、徳川家が関東に移封されたあとは上野国厩橋城主・三万三千石を賜った。
ただ子に恵まれず、気の毒に思った殿が仙千代君を養子としたのだった。
五歳の仙千代君は、快活で賢く、奥の侍女たちにも人気の御子であった。殿も可愛がっておられる。ときおり訪れる平岩さまと妻女にもなついて、夫妻は平岩家に迎え入れる日を楽しみにしているようだった。
一月五日に太閤秀吉の死が公表された。
その二日前の一月三日、徳川家康と頻繁に往来していることを島津家の当主・義久が奉行衆の一人、石田三成に詰問され、弟と甥の義弘・忠恒に誓書を送って異心のないことを述べ、同じ日、家康は義弘・忠恒父子を伏見の屋敷に訪問し、朝鮮・泗川での戦勝を祝い、刀と馬を贈った。
互いの陣営に引き込むための駆け引きが激しくなった。
一月十日、秀頼とその生母・西の丸殿は伏見城から大坂城に移った。
これ以後、西の丸殿は大坂殿と呼ばれるようになる。また、秀頼は太閤秀吉の遺言で、十五歳になるまで大坂城から出ることなく育つ予定だ。
後見役の前田利家はこれに従い、家康も秀頼を供奉して大坂へ赴いた。
このときの宿として片桐且元の弟・貞隆の屋敷に泊まったが、翌十一日夜、危険を感じ、守口から舟で枚方に出た。
主の危機を知った井伊直政が大勢を引きつれ、鉄砲に火縄をかけ、お迎えにあがったので、襲撃者たちも手が出せなかった。
「殿が襲われた?」
朝の鍛錬を終え、空が白み始めた頃、庭にいた阿茶は殿付きの小姓からその報を受け取った。
「本多佐渡守(正信)さまがおっしゃるのには、井伊さまが手勢を連れてお迎えに上がり、ご無事とのこと。昼前には伏見にご到着になられるそうです」
「わかりました。お帰りになったら、いつ奥にお渡りになっても良いように準備しておきます。本多さまには、よろしくお伝えください。……ああ、それと。本多さまなら、もう考えておられるでしょうが、井伊さまを始めとしたお迎えの方々のための朝餉の用意、台所で手が足りなさそうであれば、こちらからも出しますが、いかが。とお伝えください」
「かしこまりました」
返事をして小姓は去った。
「幸、白須局と市島局をわたくしの局に呼んでください。民部卿局さまに使いを出して、なるべく早く会いたいのですが、と面会を申し出てください」
「すぐにいたします」
傍らにいた幸も姿を消した。
「五郎衛門」
呼ぶと、たっつけ袴姿の男が阿茶の前で片膝をついている。
「そなたは殿がわたくしにつけた警固の者ですが」
と、言いかけてから阿茶は廊下へとつながる階を上り、自分の部屋へ入ると箪笥の引き出しから銭の入った布袋を取り出した。
「個人的にお頼みします。これで足りる範囲で良いですから、数日、奥に侵入しようとする者を排除してください。生死は問いません」
廊下でひざまずいた阿茶の申し出に、目を見張った五郎衛門だが、差し出された銭の袋を受け取り、開いて中身を確認した。そして、にやりと笑う。
「透波稼ぎをしていた頃を思い出しますな。ようございます」
と、答えてこちらも姿を消した。
その後、阿茶は部屋に戻って着替え、側近たちを待った。
四半時もしないうちに白須局と市島局がやってきた。
阿茶は、殿が曲者にお命を狙われて逃れ、井伊さまらによって迎えられてじきに戻られること、徳川家が狙われていることを幼い仙千代君に覚られぬよう侍女たちに過ごすよう言いつけること、一方で伝通院さまと側室方には常に誰かがついて油断せぬよう、また奥でも武芸のできる侍女たち数人が交代で不寝番をするように、など指示した。
殿を迎える準備と側室方への説明は側近たちに任せ、阿茶は伝通院さまと西郡の方さまの許を順に訪れ、ことの次第を説明した。
そんなことをしているうちに、表門の方が騒がしくなった。
「殿のお戻りでございます!」
表との連絡係を務めている侍女が注進した。
「重臣の方々とのお話が終わったら、こちらにおいでになるでしょう」
阿茶は侍女たちに告げた。
やがて一刻半ほどしたとき、先触れがあった。
阿茶はお亀さま、お梶さま、お万さまと共に侍女たちを引き連れてお出迎えした。
「殿、無事にお戻りになったこと、一同安堵し、また神仏に感謝いたしております」
かわらぬ姿を目にしたとたん、ぐっと胸にくるものがあったが、「殿……」と阿茶の後ろで泣きながら絶句したお梶さまの姿を認めると、それも霧散して冷静になれた。
「聞いたか。腹が減ったな。湯漬けでもないか」
そうだった、この方はもっと大変なことをこれまでにも経験してきたのだ、と改めて感じながら、阿茶は膳の用意をおもの(食事)係の侍女へ命じた。
殿を襲ったのは、石田治部少輔と小西摂津守の手の者だったと、翌日、本多正信さまから教えられた。
「よほど殿のことが邪魔なのですね」
「さよう。豊臣の世に徳川はいらぬ、ということでしょう。こちらも黙ってやられるわけにいきませぬ」
本多さまは、にやにやしている。
「やられる」のではなく、それを逆手にとる気、満々のようだ。
「阿茶局さまは、五郎衛門に奥の警護を命じられたようですが、殿から『あの一族に任せる』と一言いただきましたゆえ、以後は御心配なきよう」
「まあ。奥向きの警固に禄が出ますの?」
「この騒ぎが落ち着くまでですが、そういうことです」
このとき、阿茶が殿の暗殺を企てた石田三成と小西行長について訊いた。
石田三成は近江出身で、寺小姓をしていたとき羽柴秀吉と名乗っていた頃の太閤に見い出され、家臣となった。賤ヶ岳の戦いの際、軍功があり、秀吉が関白になったとき、選ばれて従五位下の治部少輔に叙任された。武将ではあるが、吏務に長じ、検地では中心となって行い、九州征伐では兵站のことを引き受け、朝鮮の役においては、その実務の才をいかんなく発揮して、本営の設置・兵站・交通路の確保などを行った。朝鮮の役で日本軍が大きな混乱なく引くことができたのは、石田三成の手腕であるという。しかし、人に対する好悪が激しく、自分が正しいと思ったことを押し通すので、渡海した諸将との軋轢が相当なものだった。
「横柄者との評判でございますな」
本多さまは、くすくす笑っている。そんなことでは、総大将になれぬ、ということか。
しかし一方で、石田三成の家臣たちは、主を慕うこと他とは違うとか。
小西行長は堺の商人・隆佐の次男で、切支丹だった。こちらも羽柴秀吉に見い出され、水軍の将として紀州征伐、また九州征伐に参戦した。佐々成政が領国経営に失敗し、自害に追い込まれたあと、肥後国の南半分に封じられ、あとの半国の領主となった加藤清正と何かと競うことになる。商人として朝鮮に攻め込むことは反対だったが、太閤に命じられると第一軍の将として朝鮮半島に渡る。明国を征服するのは不可能と考え、明国と交渉して講和に持ち込もうとするが出来なかった。
「二人とも〝忠義者〟でございます。幼君を奉じて、豊臣家の天下を狙う者を除こうというのでしょうな」
おどけた調子で、本多さまが言った。
「あら。では殿は悪人」
「これから、そのように演じられることでしょう。乱世の中、親・子・家臣らの死を乗り越え、耐え忍び、数多くの戦を生き延びて家を保ってきた者と、人の引き立てで将となり、数度の戦しか経験していない者と、どちらが勝つか、勝負です。〝正義〟や〝大義名分〟など、人によって見方は違いますゆえ」
こんな会話を交わした翌日、江戸から早馬が訃報を持ってやってきた。
長沢松平家に養子に行った七男の松千代君が疱瘡のため、一月十二日に亡くなったという。八歳だった。
長沢松平家は、長沢城(三河国宝飯郡)を本拠地とした松平家の庶流で、この家と安祥松平家、のちの徳川家は二重に縁を結んでいる。
一度目は家康の叔母であり、華陽院の娘でもある女性が長沢松平家の政忠に嫁ぎ、嫡男・康忠を産むのだが、政忠は桶狭間の戦いで弟と共に討死し、十五歳の康忠が隠居していた祖父・親広を後見として家督を継いだ。
このとき家康の叔母は離縁され、次に重臣の酒井忠次に嫁ぎ、その城・吉田城(豊田市)に住んだことから、「吉田御前」と呼ばれた。そして嫡男の家次を産む。
家康の従弟で長沢松平家の康忠は義父・酒井忠次の隊に属して姉川の戦、長篠の戦に参陣し、軍功を挙げた。家康の長男・信康に仕えたが、その自刃によって蟄居。許されてのちには本能寺の変の際の伊賀越えにも従った。小牧・長久手の戦に参加した後、天正十六年(一五八八)に家督を嫡男の康直に家督を譲って京に隠棲した。
この康忠の正室が家康の異母妹の矢田姫で、いとこ婚である。二人の間に生まれた嫡男の康直は徳川家重臣の本多広孝の娘を正室に迎え、娘の蓮(連)姫が生まれた。
ところが、徳川家の関東移封後、小田原合戦の軍功で武蔵国深谷城主となった康直は文禄二年(一五九三)に二十五歳で病没し、家康の七男・松千代をもって深谷城一万石を継がせたのだが、その松千代も亡くなってしまった。
訃報は大姥局さまから阿茶の許へも届いた。
『かわいがって育てていただけに、矢田姫さまは憔悴しておられます。お孫さまの蓮姫さまも弟のように思っていらしたようで、お悲しみです。長沢松平家の老臣たちも先行きを不安がっております』
とのことだ。
すぐに阿茶は殿の許へ呼ばれた。いつも内々の話をするときのように、本多正信さまがおり、人払いがされた。
「このたびは誠に残念なことで……」
「ご冥福をお祈りするばかりでございます」
本多さまと阿茶のお悔やみの言葉に対し、殿は表情を変えなかった。
養子に出した子に対し、情が薄くなっているのか、と思ったが、殿の言葉を聞いて、そうでないことをすぐに覚る。
「先日の十日の夜半、妙な胸騒ぎがしたのは、松千代が襲撃を知らせてくれたのかもしれぬな……」
他の武将がしないこと、女を戦場に連れて行くのを平気でしたり、医術を自ら学んで実行したりと、伝統を重んじる一方で、殿は合理的な思考をする。その殿が、こんなことを言うとは。
殿にとって、昨年の松姫に続く松千代君の死は、こたえたようだ。
「差し迫った問題として、長沢松平家をどうされるおつもりでございますか。殿の御従弟の康忠さまは隠居。正室で殿の妹君は御歳を召され、もはや子を産むことはかないませぬ。それゆえ、子息の康直さまが亡くなったのち、松千代君を養子に出されたのですが、このようになり」
「……松千代の兄の辰千代を当主にしようと思う」
本多さまの疑問に、殿がゆるゆると答えた。
「なるほど。伊達さまの息女と婚約する辰千代君に地位を与えるのですな。順当なことです」
本多さまがうなずいている。
「では殿、蓮姫さまはどうなるのですか?」
そのとき、阿茶が声を上げた。
「いかに康直さまの娘でも、女子は後継になれぬ決まりですぞ」
「分かっております」
と、本多さまに答えたものの、阿茶は蓮姫さまに長沢松平家の血を引く有能な婿をとらせるのも、ありえる案だと思ったのだが。
「蓮姫は、今年いくつになる」
「御年、十八歳になられます」
「そうか……」
一考した殿は、阿茶の思惑とは違うことを言い出した。
「確か、横須賀城主の有馬のせがれは、独り身であったな」
と、本多さまに問う。
「さようでございます」
と答えた本多さまが、はっとする。
「横須賀城は、我が徳川の領地であったときから遠州灘の重要な湊を擁しております。そこの城主、それも豊臣の大名でありながら、殿の〝信奉者〟、蓮姫さまにとって、良き婿がねでありますな」
「弥八郎、有馬家との婚姻も進めよ。阿茶もそのように心得よ」
「かしこまりました」
「御意」
殿の御前を退出したとき、本多さまは浮き浮きとしていたが、阿茶は責任の重さを嚙み締めた。
(輿入れが、もう一つ増えてしまった……)
下手をすると、三件の婚礼の時期が重なるかもしれなかった。




