男は戦、女は婚礼 5
阿茶は曲直瀬玄朔どのの言葉を殿に伝え、許しを得てから水野忠重さまのお屋敷に使いを出して、『伝通院さまが姪のかな姫さまに会いたいとおっしゃっているので、おいで願えますでしょうか』ということを伝えた。
水野家は豊臣家の大名として伏見城下に屋敷を構えている。そのため、翌日の昼過ぎ、かな姫さまは伯母の伝通院さまのお見舞いに訪れた。
「初めて御目文字いたします。水野かなでございます」
と、挨拶した姫君は、小柄で愛らしい方だった。
「藤十郎(水野忠重)から文などで生まれてからのことを知っておりますから、初めて会った気がいたしませぬなあ」
伝通院さまが目を細めている。
互いに近況のことなど話したあと、伝通院さまが縁談のことを訊いた。
「はい、父から加藤主計頭さまとのお話があると聞きました」
「そのことなのですけれど……他に詳しいことを聞いておりませんか?」
「たいへん優れた武将であることと、朝鮮の役でも武功を挙げられたことしか、お聞きしておりませんが」
答えを聞いて眉尻を下げた伝通院さまが、傍らに控えていた阿茶を見る。
「卒爾ながら、わたくしからご報告させていただきます」
と、阿茶はこれまで加藤清正さまについて調べたことを語り始めた。
三歳のとき父と死に別れた虎之助こと加藤清正は、母が羽柴秀吉の生母と縁者であることから近江国長浜城主となったばかりのまた従兄の秀吉に小姓として仕えた。柴田勝家との戦では、武功を挙げ、「賤ケ岳の七本槍」の一人として名を知られ、所領を与えられた。
秀吉が関白になると、従五位下の主計頭に叙任され、肥後国領主の佐々成政が国人一揆などの失政で改易されると、肥後半国を与えられた。領国では、治水と農業の振興に力を尽くしたので、領民から慕われている。
朝鮮の役では、寒さと飢えに苦しみながらも数々の戦に勝利し、朝鮮の人びとから「鬼上官」、鬼神かと恐れられ、清正の紋である蛇の目の紋様を人びとは疫病よけとして家々の門に貼った。
身の丈・六尺三寸(約百九十センチ)、巨大な愛馬の帝釈栗毛に乗り、片鎌槍を振るった。熱心な法華経信者でもあるので、白地に朱色で南無妙法蓮華経と題目を書いた旗を戦場で立てた。
近江の名門・山崎片家の娘を正室として嫡男が生まれたが、正室と嫡男は文禄の役の頃亡くなり、今年慶長三年に側室との間に女子が生まれている。家族としては、伏見屋敷に生母が住んでいる。
そして、唐瘡に罹っているとの噂。
阿茶が語り終えると、かな姫は高らかに笑った。
「徳川家に在った頃から勇猛で知られた我が父、我が兄のいる水野家と縁続きとなり、わたくしの婿となるにふさわしい御方ではありませんか。素晴らしいわ」
「でも、かな姫。病のことは……」
伝通院さまが眉を寄せて言いかけると、姫君は笑いを収めた。
「医師の話では、『十人中三人の割合で罹る』のでしたかしら。では、罹らない七人の内に入ればよろしいのよ。わたくし、強運ですの」
と、にこにこしている。
「伯母さま、大丈夫です。武士の娘として生まれたからには、政略でいずれはどこぞの殿方に嫁がねばなりません。その覚悟は出来ております」
動じる様子はない。
(お可愛らしい容姿と違って、内面は剛気な御方ですなあ)
阿茶は感心した。
かな姫さまはいろいろと心配する伝通院さまを慰めて、帰って行った。
「なんとも……拍子抜けしました」
伝通院さまのお顔から、憂いがなくなっている。
(良いことです。かな姫さまのお覚悟が分かったからには、あとはわたくしたちの仕事ですね)
阿茶は本多正信さまを通じて殿から許可を取り、亀屋栄任どのと連絡をとって、その伝手で寺社経由によって、加藤家との接触を図った。五郎衛門からの報告では、徳川家の周辺で嗅ぎまわっている者たちがいるという。だから、殿や本多さまの伝手は使えないと判断したのだ。他家との縁組は、他の大老と奉行衆の手前、秘密にする必要があった。
亀屋を通じて加藤家に出入りする法華宗の僧侶と連絡が取れ、西郡の方さま にも協力を仰ぐことにした。
「加藤家昵懇の僧、日照さまの説法に加藤主計頭さまの母君も聴聞に訪れるとのこと。西郡の方さま、徳川家のため、かな姫さまのために、していただきたいことがございます」
と、阿茶が聴聞会で加藤さまのご母堂に接触し、医師の岡本重信の診察を息子の清正さまに勧めるよう促してほしい、との計画を打ち明けた。
「ご当人が本当に唐瘡なのか。また、そうであったら、どれほど病が進んでいるのか。医師でなければ、わからないことです。薬を飲むにしても、夫婦で療治する必要があるとのこと。一度、診察を受けていただきたいのですが、いきなり徳川家からの紹介といっても信用していただけないでしょう。また、徳川家を敵視する者たちが何を言い出すかわかりません。女同士の繋がり、という形でもっていきたいのです」
「まあ。面白いことを考えるのですね」
ほほほ、と西郡の方さまは上品に笑った。
五十歳を過ぎておられると思うのだが、十は若く見える。
「でも、役得です。お参りにおおっぴらに出かけられるのですもの」
法華宗にあまり好意的でない殿をはばかって、西郡の方さまは侍女を代わりに出し、帰ってきた侍女から教えを聞いていたのだった。
「殿からの許可もいただいておりますゆえ、御心置きなく。もし、加藤さまのご母堂とお言葉を交わすこともできなくても、お恨みは申し上げませぬ」
「わたくしに有利な条件ばかりですのね。いいですわ。同じ教えを信奉する同朋に会いに行って参ります」
阿茶は請け合った西郡の方さまに市島局を付け、僧侶には自費でお布施を施して、西郡の方さまと加藤家のご母堂を隣同士になるよう席を設けてもらうよう頼んだ。
その結果、首尾よく運び、加藤家のご母堂と親しくなった西郡の方さまは、息子の病を心配する母の心を動かし、岡本重信どのの診察を受けさせることを約束した。後日、伏見の加藤家の屋敷に呼ばれた岡本どのによれば、噂どおり唐瘡に罹っていたが、まだ初期なので、薬の服用によって症状の進みを遅らせることができる、という。
その診断から、水野家のかな姫さまにも予防的な薬が処方された。
「母君の物と一緒に、主計頭さまから文が届いたそうです。かな姫が、『猛々しい武将と聞いていましたが、お優しい心遣いをしてくださり、お嫁にいくのが楽しみになりました』と便りをくれました。娘心はよくわかりません」
と、伝通院さまが阿茶にぼやいた。恋する乙女の文面だったようだ。
(何はともあれ、お仲が良いのは佳きこと)
徳川家の養女という形だが、十二月に入って、水野家経由で加藤家と結納が交わされた。
師走は歳暮の品を持った使者が各家々、動き回るのだが、徳川家に来る品は多くあっても、阿茶個人に来る物は少ない。というか、旧知の八束局くらいだ。それが今年は藤堂家の正室さまのお付き女房から練絹を持った使者が来た。
「どなたかと、お間違えではありませんか?」
豊臣家大名の藤堂高虎さま、その正室さまとの接点など皆無だ。
「いえ、我が主は一色家の出でございます。江戸中納言さまの正室さまの乳母の民部卿局さまは我が一族。血族の者がお世話になっているゆえの贈り物でございます」
と、使者は口上を述べて去って行った。
幸を使いとして民部卿局に訊いてみれば、「確かに藤堂さまのご正室さまは一色家の出身でございますが、わたくしとは一面識もございません。面妖なことでございます」との返答があった。
これを本多正信さまに言うと、
「藤堂さまに、殿が懐かれましてな。黒田長政さまとお二人、豊臣方の情報をこちらが何も言わずとも教えてくださいます。時勢がこちらに来ておるのが、よう分かります。遠慮なく、もらっておきなされ」
と、笑っていた。
黒田家は父の如水さま――官兵衛孝高さまが姫路の小寺氏に仕えていたとき、織田右府さまに通じ、中国攻略のため播磨に入った太閤を姫路城に迎え、その天下取りまで〝軍師〟として仕えた。太閤が天下人になってからは警戒され、四十四歳で家督を息子に譲り、如水と名乗っている。隠居しても朝鮮の役では軍監として参加した。
その嫡男の長政さまも武将として優秀で朝鮮の役では数々の武功を挙げている。また、蜂須賀正勝さまの息女で太閤の養女、嫁入りのときは太閤自らが手を取った正室がいる。
この濃厚な豊臣家譜代の黒田家を徳川家の側につかせたのは、井伊直政さまであった。
一方、藤堂高虎さまは、自分から徳川家にすり寄ってきた、と本多さまは笑う。
「あれは若い頃、悪たれでしたな」
と、調べたことを見てきたように本多さまが言う。
何人も主を変え、喧嘩・刃傷沙汰は数知れず。太閤の弟・豊臣秀長さまに仕えてからはそれが落ち着き、武だけでなく、築城の才も見せ、慶長の役では水軍を指揮した。加藤主計頭さまと同じくらいの高身長、誠実そうな顔をしており、接待が上手く、豊臣家ではよく大名の接待役を任されていた。
(太閤が亡くなって、四か月ほどしか経っておらぬのに、それぞれが行く末を見て動いておるのか)
それでも、阿茶のすることは変わりない。藤堂さまのお付き女房には礼状を書いて使者を遣った。
やがて年が明けてから、かな姫さまは松が取れた頃、満天姫さまは一月の終わり頃に江戸から伏見に来て、輿入れまで徳川家の姫として過ごすことが決まっている。
殿は十一月二十六日に長曾我部元親さまの屋敷を訪問し、十二月六日には島津義久さま、長岡(細川)幽斎さまの許へ訪れ、その間にも多くの大名たちが徳川屋敷を訪れて、殿はにこやかに応対しておられる。
それぞれ穏やかな会話に中にも、互いの真意を探っているのだが、中に変わったお人がいた。
有馬則頼さまの次男の豊氏さまである。
父君の則頼さまは名族の摂津有馬氏で太閤が中国攻めのとき、案内役を務めて以後、太閤の直臣となり、茶人としても高名なことから御伽衆として仕えた。永禄の頃、太閤が殿を引き止めてなかなか江戸に帰れないとき、口添えをしてくれた御方だ。
豊氏さまは今年三十歳で、家は嫡男の則氏さまが継ぐからと、姉婿の渡瀬繁詮さまに家老として仕えていたが、渡瀬さまが関白秀次さまに連座して改易の上、切腹させられると、太閤の命により、その所領と家臣を引き継ぎ、遠江国横須賀三万石の大名となった。
この豊氏さまは『海道一の弓取り』と呼ばれる殿に憧れ、「御家人(直参)になりたい」と申し出た方で、おべっかというわけでなく、きらきらとした瞳で言われたときは、殿もまんざらでもない様子だった。
(それよりも、接待ばかりでお太りになった?)
このところ殿の胴回りが太くなり、下帯を自分でつけるのが困難で侍女たちに手伝ってもらっている。
阿茶には、このことが一番の気がかりだった。




