表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
79/82

慶長の役

よろしくお願いいたします。

 指月山の伏見城が損壊したので、太閤はその東北の木幡山に城を築き始めた。

 徳川家でも屋敷の修復を進めた。それがあらかた終わった八月二十日に徳川邸へ太閤の訪れがあり、九月に江戸へ一度帰ることが決まった。


「そんなには長く江戸にいられないようなのでございますよ」

 地震以来、体調不良が続く秀忠さまを見舞ったのち、阿茶は大姥局さまの部屋を訪れた。

「慌ただしいことでございますね」

「そうなのですけれど、上洛する際には、振姫さまとお竹の方さまをお連れするように殿に申し渡されております。婚礼がまだとはいえ、結婚されたら正室として京にいなければならぬ振姫さまを少しでも京の水に慣れさせたいとのこと。となれば、江戸の奥向きには女主人がおらぬことになります。ですから、見聞を広げるためにも、千代さまと結衣、五郎三郎を一緒に連れて来たいと存じますが、いかがでしょうか」

「なるほど。それはようございます。わたくしも千代と離れているのが長く、寂しゅうなりました。阿茶局さまがよいのでしたら、よろしゅうに」

 と、阿茶は千代たちの後見をしている大姥局さまの許可をもらったので、準備を始めた。八歳の千代と結衣、九歳の五郎三郎。江戸から京までの長旅は案じられたが、江戸に阿茶たちがいない状態で残しているのは、もっと心配だった。

(行儀見習いをしている姪たちも呼び寄せよう)

 佳穂かほ真奈まな奈緒なおの結衣の三人の姉は阿茶が不在の江戸城の奥向きで石津局の許、行儀作法を学び、幼い妹の守りをしていた。

(女の子たちは、わたくしのつぼねに住まわせるからよいのだけど)

 男子の五郎三郎は元服前だからつぼねの一角に部屋をあたえても許されるだろうが、学問をさせるために師匠につかせる必要がある。でも、奥の仕事で忙しい自分の目が届くことがあまりない。どうするか……と思案して、阿茶は岡田さまにも京へ来てもらうことを決めた。

「話の種に、五郎三郎の監督がてら京にいらしては」

 というふみを帰国の前に出しておいた。「諾」という返事ならば、義弟の松木五兵衛の伝手で岡田さまのための家を京で借りるつもりだ。



 帰国の準備に阿茶が追われている頃、九月一日に明の使節が大坂城を訪れ、太閤に謁見した。そのとき上機嫌だった太閤だが、翌日、自分の要求にほど遠い国書――講和を焦った交渉担当の小西行長が条件を骨抜きにして明に伝えたため、講和条件については何も書かれていなかった――を読んで激怒し、講和交渉は決裂して戦支度が始まった。

 それでも九月五日、家康は帰国のため、伏見を出発した。



 江戸に着いてから、まずお竹の方さまに帰国の挨拶に赴いてから、そこで上洛の話をした。

 お竹の方さまは驚くと同時に喜色で顔を輝かせた。

「殿は振のことも、ちゃんと考えてくださっているのですね」

 と、傍らにいたお仙さまと喜び合い、さっそく引っ越しの段取りを話し始めた。

 自分のつぼねに戻った阿茶は、側近たちを集め、江戸の留守を石津局と稲城局に任せることと、ほとんどの侍女を伏見の徳川屋敷に連れていくことを告げた。

「まだ公になっていませんが、また海を渡っての戦が始まります。太閤は何かと殿に相談を持ち掛けますから、殿は当分、上方を離れられぬでしょう。ということは側室さま方も京に在住されますので、当分は伏見が徳川家の奥向きの中心になると心得てください」

 阿茶の言葉に、「かしこまりました」と、女たちは平伏した。

 それから引っ越しでするべきことの指示をそれぞれに出したので、奥の女たちが動き出した。

 次に結衣を連れて、大姥局さまのつぼねに住んでいる千代の許へ行き、二人に京へ行くことを子どもにも分かるよう話した。

「みやこは、えどよりも大きいのかしら?」

「ええ。とっても。人も多くて賑やかところですよ」

 千代の疑問に阿茶が答える。

「五郎三郎と千代の父上も一緒に参ります」

「あにうえと、ちちうえも!」

 千代が喜びの声を上げた。城の奥にいて、めったに会えないのだ。

「結衣の姉たちも一緒です」

「ねえさまたちも?」

 と、結衣。

「たのしみねえ」

 千代が言うと、結衣もうなずいて笑った。

 子どもたちと一緒に春栄尼も連れて行くつもりだ。

「向こうでも手習いを教えてくださいませ。ご親戚の方々もおられましょうから、お会いになられては?」

「そうですね。京を離れて何十年になるでしょうか。ふみを細々と交わしている親族・知人もおります。お言葉に甘えて、ご一緒させていただきます」

 諾、と返事をもらった。

 表役人との打ち合わせなど奥での下準備をひと通り終えたあと、阿茶は宿下がりの許可を得、神尾家へ幸を伴って赴いた。

「お帰りなさいませ」

 と、駕籠から降りた阿茶を玄関で出迎えた志摩は、妻女としての落ち着きを見せていた。

 奥へ通され、留守宅のことを聞いたあと、白湯を飲んでいた阿茶へ、志摩がおずおずと切り出す。

「あの……お義母さま」

「何でしょう」

 嫁の志摩から〝母〟と呼ばれるのは、新鮮な響きだ。

「じつは……子ができたようなのです。旦那さまにはまだ、お報せしておりませんが」

 え? と白湯を飲む阿茶の手が止まった。そして志摩の傍らにいた萩野に目をやる。

「奥さまはもう、つわりが始まっておられます。お生まれになるのは、来年の春頃になるかと」

「まあ」

 阿茶は目を見張った。

「まあ、まああ。嬉しいこと! 志摩、ようやりました。実家のご両親には報せたのですか。ああ、産着を縫わねばなりませんね。乳母も探さねば。松木の早便で守世にも知らせなければ!」

 初孫ができたと聞いて、つい興奮してしまった。

「オカタさま、落ち着かれませ」

 と、小夜になだめられたが、頭の中は志摩の出産と孫のために何をするかの段取りが組み上がっている。

 茶碗の白湯を飲み干し、心を落ち着かせ、留守宅での注意をしてから、阿茶は「くれぐれも身体を大切にするのですよ」と言い置いて、神尾家を後にした。

 城へ戻ってから、幸に松木家の江戸での店の手代を呼び出してもらい、産着とおしめのための布地を注文し、孫が生まれることを記した松木五兵衛へのふみを託した。

 その後、岡田竹右衛門が五郎三郎を連れて、阿茶の許へやってきた。

「阿茶局さまのお言葉に甘え、上洛することにいたしました。お世話になります」

 と、岡田さまが頭を下げる。

「お世話なんて仰々しい。こちらとしては、岡田さまにして欲しいことがありますの。京での滞在費などはその対価と思ってくださいな」

「わしのような隠居にして欲しいこととは、何ですか?」

「萩野からの報告によれば、五郎三郎は大変優秀で、学問も同年代の子より進んでいるとか。この機会に、五郎三郎に世の中を見て欲しいのです。けれどもお役目があって、わたくしがついていることは出来ず、その役を父君の岡田さまにして欲しいのです」

「なーんだ。今までと同じですか」

「そうですね。できたら、茶の湯など一緒に体験していただきたいものです」

「茶の湯? 田舎者のわしが? 殿や豪商たちが京などでやっているアレですか?」

 ほっとした表情から、驚いた顔になった父親を見て、隣にいる五郎三郎が目をぱちぱちしている。

「何事も経験です」

 げんなりした顔の岡田さまから、阿茶は五郎三郎に視線を移した。

「京まで行く道中、そして京での暮らしは、五郎三郎にとって良い体験になりと思います」

「はい、義母上」

 阿茶は、にこりとした。岡田さまと相談の上、仮祝言から阿茶のことを「義母はは」と呼ぶようにさせており、それが嬉しいような、くすぐったいような感じだ。

「初めての長旅、身体には気を付けて」

 岡田父子との対面であとは準備のことを話し合った。



 十月に「慶長」と改元されたこの年、殿は十二月に入ってから江戸を発った。お竹の方さまを始めとする女子供を連れての旅なので、ゆっくりと進み、伏見に着いたのは十五日であった。

 京に入る前に太閤からの使いがあり、十七日に大坂城で拾君の元服を行うという。これより前の十一月十八日に二の丸さま(淀殿)と拾君は伏見から大坂に移っていた。

 殿は伏見屋敷に着いた二日後、その元服式のため、大坂城下にある徳川屋敷へ赴き、登城した。

 このとき、拾君は四歳で秀頼と名を改めた。


(太閤は生き急いでおるな)

 拾君の元服のことを聞いた阿茶は、そう感じた。

 一方、伏見屋敷にお竹の方さまと振姫さま、その侍女たちを迎え、奥はさらに賑やかになった。

阿茶のつぼねにも三人の姪と結衣が来て、娘たちが増えたからか、何とも華やかな雰囲気だ。徳川家の奥は、豊臣家のように厳密な男子禁制となっていないため、元服前の五郎三郎に部屋を与え、役人の許可があれば、親族の男性や用のある者が奥向きに入ることが出来た。

 江戸を発つとき、阿茶が折を見て殿に岡田さまを五郎三郎のために伴うことをお耳に入れたら、お召しがあり、「殿と昔話をしてきた」と岡田さまがその帰りに阿茶の部屋へ寄って話して行った。

 まだお目見えを済ませていない五郎三郎は、殿と秀忠さまに会うこともお声をかけていただくこともできない。しかしいずれ、元服して結衣と正式な祝言を挙げて神尾を名乗るようになれば、お目見えが許され、近習に取り立てられることが殿の心の内では決まっていることを、阿茶は知っていた。

 結衣はこれまでと同様に千代と共に城内で手習いをする。しかし五郎三郎は城下の寺で教育を受けるよう阿茶は師匠の手配など松木五兵衛を通じて行った。



あねさま、手習いについては良い師匠が見つかり、岡田さまが若さまを連れてご挨拶に行かれました。武芸については、うちが手配した家に岡田さまが住み、そこでお教えなさるようで。しかし、茶の湯とかはどうも。うちはそういうのをもっぱら嗜むお客を相手にしておりませんで。わしも客となって飲むだけならなんとかできますが、茶席を催すほどの知識はございません。教授については、誰かに頼むしかないでしょう。しかし、若さまは好奇心旺盛でございますね。商売について、いろいろ訊かれました」

 岡田父子の世話をした義弟が、阿茶の許へやってきて様子を知らせてくれる。

「武士だから、商いについて知らなくてもよい、ということでもないでしょう。殿は相場について、ようご存知です。五郎三郎が知りたいというのなら、詳しく教えてやってください。殿と秀忠さまにお仕えする際、何か役に立つこともあるでしょう。連歌は前々からですけど、最近は茶の湯が流行っておりますゆえ、供として来た者たちも茶の飲み方くらい知っておいてよいと思います。わたくしは本家のかかりうどで貧しかったため、読み書きと漢籍のさわりくらいしか息子に教えてやれず、五兵衛は若さまの近習となってからその他のことを学び、苦労したようです。今はお勤めをして、わたくしも多少の余裕がありますから、五郎三郎にはお目見えまでに出来る限りの経験をさせてやりたいのです」

「姉さまのお気持ちは、ようわかりました。では、亀屋栄任さまに一度、お伺いいたしましょう」

 お亀さまの一件で亀屋栄任と伝手のできた松木五兵衛は、さっそく連絡をとってくれ、亀屋は内輪で催す茶会へ岡田父子と松木五兵衛を呼んでくれることになった。

 それを聞きつけた茶屋四郎次郎家の手代が、「阿茶局さまは近頃、亀屋どのと懇意になさっておられるようですが、あちらにばかり贔屓をされては、我が主の面目が立ちません」と、ねじ込んできた。

「あら。依怙贔屓など、いたしておりませんよ。姫さま方の婚礼の際には、徳川家出入りの呉服商にはそれぞれ得意な方面での注文を出しております。ましてや、茶屋さまとは三河以来のお付き合い。軽んずることなどいたしません」

 そう答えながら、(商人同士の小競り合いは、なんて面倒な)と阿茶は思った。

 徳川家に奉公した頃より、現在の阿茶は各方面に影響力を持つようになっていた。それを改めて自覚したのだった。



 年末のことで、公私ともに忙しい日々を送っている阿茶の許へ、民部卿局がやってきた。

「ご報告いたします。御新造さま、ご懐妊のよしでございます」

「まあ、何と目出度い!」

 このことはさっそく殿へ言上し、殿は殊の外、喜ばれた。外孫は何人もいるが、今回は直系の初孫なのだ。



 徳川家の一同が喜びに包まれる中、年が明け、慶長二年(一五九七)一月十四日から、帰還した諸将の再上陸が始まり、二月二十一日、太閤は朝鮮半島における戦役の再開を命じる。慶長の役の始まりである。




 陣立は、一番隊を加藤清正・一万人、二番隊を小西行長・宗義智・有馬晴信ら一万四千七百人、三番隊は黒田長政ら一万人、四番隊が鍋島直茂、五番隊が島津義弘、六番隊が長曾我部元親、七番隊が蜂須賀家政、八番隊に宇喜多秀家が編成された。合計十二万余、五か所の在番衆二万余を合わせて総数十四万千五百人、文禄の役の出兵数に近い大規模な派兵であった。

 文禄の役では、朝鮮の地を併合し、そこを領地とすることを太閤秀吉から約束されていたので、士気も高かった。しかし明国の援軍が来ることによって戦線が膠着し、停戦となって各大名は留守部隊を残して帰国した。そこで見たのは、耕す者が徴集されて荒れ果てた領地と、困窮して一揆へと走りかねない領民たちだった。

 そして休戦から四年経って、再び戦が始まる。

 前回と違って日本勢の戦意は低く、禁止されていた乱捕りも許可され、朝鮮半島に上陸した諸将は争って物と人を略奪した。

 前の戦で徴発された農夫、課役を嫌って逃げた者たちによって領地の田畑は荒れていた。戦場いくさばに行かされた多くの人びとは死んだ。その耕作をさせるためや町家の下人として働かせるために朝鮮半島から医官や陶芸などの技術を持つ者をはじめ、多くの人びとが連れて来られ、長崎は奴隷の一大売買市場となった。

 生け捕られた男女・子どもが名護屋に送られ、戦功を示すための首を積んだ船も着岸した。首の代わりに鼻が戦功の証とされ、派遣された軍目付が大名たちから提出された鼻を数え、「鼻請取次」を出し、それは塩漬けにして樽に積め、船で太閤の許へ運ばれ、塚とした。京都・方広寺のそばの耳塚がそれである。

 初め日本軍は快進撃を続けるが、太閤秀吉の命で十一月十日頃から要衝の地・蔚山ウルサンで城を築き始めたことから戦況が逆転する。築城が完成しないうちに明の援軍が到着し、朝鮮・明の連合軍を相手にせざるを得なくなった加藤清正は苦戦する。

 十二月二十二日、明軍四万四千と対峙することとなった加藤清正は、千名を超える戦死者を出しながら城をなんとか守り、援軍を待った。

 年を越して慶長三年一月三日、毛利輝元・鍋島直茂らの援軍が到着すると、日本軍が優勢となり、退路を失うことを恐れた明軍は撤退した。

 このとき、城中は飢餓に陥っていた。窮地を脱したものの、日本軍には追撃する余力はなかった。

 このことから、宇喜多秀家ら十三人の大名は、石田三成ら四人の奉行に宛て、守備の困難な蔚山ウルサン城や順天スンチョン城などの放棄を願い出、一部を実行に移した。

 この行為を、帰国した三成配下の三人の軍目付から報告を受けた太閤秀吉は「救援の戦いが十分でなく、追撃もせず、しかも城を放棄するとは何事か」と激怒した。

 蜂須賀・黒田や早川長政・竹中隆重・毛利高政がけん責をこうむり、黒田を除く四人は帰国、謹慎を命じられ、早川らは豊後国内の知行を没収された。一方で、三人の軍目付は加増を受けた。



*****



この時代の世界的にも大戦であった朝鮮への出兵を見た儒学者の藤原惺窩は言う。

「罪なき朝鮮民衆の惨禍さんか、日本生民の憔悴しょうすいここにきわまる」と。













【引用文献】

『織豊政権と江戸幕府』池上裕子著、講談社、P326



読んでくださり、ありがとうございます。

身辺も落ち着いてきて書く時間が捻出できたので、更新を再開いたします。

それでもまだ以前のようには時間が取れないので、書き溜めた分を出して、書いてたまったら出す、という不定期な形となります。

これからもお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ