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伏見大地震

 文禄五年(一五九六)、殿と秀忠さまは京で正月を迎えた。年賀の儀は伏見屋敷にいる家臣たちのみの簡素なものだった。その後、奥へ渡った殿は、迎えた西郡の方さま、お久さま、お亀さま、お梶さま、お万さまという側室の方々へ新年の祝いを述べられ、挨拶を受け、二歳となった仙千代君、松姫さまをそれぞれ膝に乗せて、ご機嫌だった。

 この時期、明国との講和交渉がまとまり、明国と朝鮮の使節がこの年、来日することが決まって、やっと戦が終わりそうなのだった。それに加え、春から公家の山科言経卿から『吾妻鑑』の講義を受けることになっていた。これまで自己流で読んでいたものだが、正規の解釈を聞けるのを殿は楽しみにしておられた。


 一方、秀忠さまは太閤の許しを得て二月二十日に江戸へ下る予定だったのだが、眼病を患い、日延べした。幸い病は軽く済み、二十五日に京を発つ予定となった。大姥局さまを始めとする侍女たちもそれに同行する。近習である息子の守世も当然、お供をすることになっている。

 阿茶は江戸にいる者たちへの京土産を守世に託した。

 犬張子、紙人形、独楽などの玩具は八歳になった結衣へ、華やかな色合いと柄の布地は行儀見習いに来ている三人の姪と留守をまもっている石津局たち側近と湯の乳母へ、また嫁の志摩、萩野と小夜にも。義息子となる五郎三郎には書物を、岡田さまには酒を。

「結衣宛てにふみを出しているのですけれど、側にいてやれない不甲斐ない母で、伯母ですね」

 品々を渡し、それぞれに宛てたふみをそえた阿茶は、守世の前で溜め息をついた。

「母上がお忙しいのは皆、分かっております。結衣も幼くとも、母上のご奉公のことは周囲の者が話して聞かせておりますから、知っているので大丈夫ですよ」

 守世が慰めてくれる。これではどちらが親か分からない。

 母と子が会話している間にも、伊助と与一が一つ一つ品物とふみ行李こうりに入れ、小者に指示して運び出している。手慣れていた。

 立派に主従としている彼らに、「神尾の家も大丈夫そうね」と阿茶は安心した。

「道中恙なく行ってらっしゃい」

 と、阿茶は息子たちを送り出した。



 伏見屋敷にいても阿茶の日常は江戸にいるときと変わりない。

 夜明け前に起き、雨が降っていなければ、袴姿となって庭で富士の御山の方角を拝み、立禅りつぜんをして呼吸と精神こころを整え、小太刀か薙刀の型を修練したあと、汗を拭い、着替えて朝餉を摂る。朝は雑炊である。関東の大名となった徳川家だが、普請役や名護屋滞陣などで出費が多く、さほど余裕はない。殿の膳も以前と変わらず質素なものだ。奥でもそれに習っていた。食事を終えて身支度を整えてから、馬場で朝の鍛錬を終えた殿の許へ赴き、ご挨拶を申し上げ、側に侍って侍女たちに指示を出す。

 奥向きを統括する者として、季節の贈答の用意、他家の正室の側近女房への挨拶状を出すこと、殿の閨に侍る側室の選定・連絡、奥の女たちへの目配りなど、こまごまとすることがあるが、今はお梶さまを補助につけて行っている。いずれこの仕事を引き継いでもらえるように。



 殿は五月八日、太閤の推挙によって、内大臣に任ぜられた。それまで権大納言従二位だったが、内大臣正二位となったことで、以後、「内府」と呼ばれるようになった。

 五月十三日、太閤が四歳の拾君を伴って参内したので、殿もそれに従った。


(四歳という幼い子を連れて宮中へ赴くなんて)

 阿茶は非常識な、と思ったが、同時に、太閤は焦っているのか、とも感じた。太閤秀吉も六十歳、還暦なのだ。しかし、後継はあまりにも幼い。



 太閤から翌月の三月には上洛するように、と命じられていた秀忠さまだが、三か月の江戸滞在の後、六月六日に伏見へ戻ってきた。

 翌日、大姥局さまが笹尾局を伴って阿茶の部屋を訪れた。

「江戸では、お竹の方さま、振姫さま共々、奥の者たちも皆変わりありませんでした。帰京が遅れたのは、殿と若殿がお二人とも京暮らしで、国許の家臣たちだけでは決裁できないこまごまとしたことがあったゆえと、秀忠さまには京の水がお合いにならないのか、気が進まれなかったからですの」

 大姥局さまが小さな溜め息をついた。

「まあ、そうでしたの。でも、太閤からお咎めがなく、よろしゅうございました」

「ほんに」

 と、二人で笑みを浮かべた。

 拾君が生まれ、甥の秀次とその妻子を斬殺してからの太閤は以前と人が変わったように思われる。先日も、お気に入りだった女房が男と通じて子を産むと、その赤子を両親の目の前で煮殺し、父親と母親を首元まで土に埋めて放置し、殺した、との噂が流れてきた。阿茶が手元で使っている伊賀者が、大坂で晒されている二人を実際に見ている。

 陽気で度量の広い天下人という今までの印象とは大違いな残忍さだった。

 今や絶対的な権力者となった太閤の殺意の矛先が徳川家に、秀忠さまに向けられなかったことを、阿茶は大姥局さまと共に安堵したのだった。

 この翌日には守世も来訪し、江戸での神尾家の人びとが恙なく過ごしていることを知らされ、こちらもほっとした阿茶だった。



 閏七月十一日になって、太閤が秀忠さまを訪ねてきた。若夫婦の様子を見に来たという。

 殿が同席するというのでいいかと思うのだが、それでも心配だった阿茶は、物陰から太閤が邸内に入るのを見ていた。

 小姫さまとの仮祝言の際に見かけたときより、太閤は痩せていた。皮膚も青黒く、声に張りがない。

(病か?)

 何事もなく太閤が帰ったあと、阿茶は本多さまへ宛てて、ふみで太閤の健康状態について問い合わせた。すぐに返事が来、それには、「どうやら今年に入って体調が良くないようです」と書かれてあった。

(六十では、いつ何があってもおかしくないな)

 何があろうとも、阿茶は殿の方針どおり動くだけであったが。


 そして翌々日、閏七月十三日のの刻[午前零時頃]、地震が起こった。

 どん、と突き上げるような衝撃で、阿茶は目覚めた。箪笥が倒れ、女たちの悲鳴、子どもの泣き声がする。

 ガラガラと、瓦が落ちて割れる。

(天正の地震より、大きい)

 ゆらゆらとした揺れが収まったとき、阿茶は床から起き、枕元の乱れ箱にあった小袖を手探りでつかみ、暗闇の中、羽織った。

つぼねさま!」

 隣室にいたさちが、がたついた襖を開けた。明かりを灯した手蜀を持っている。

 そのわずかな光で身支度をし、阿茶は殿の寝室へ向かった。

 また揺れがくる。立っていることができず、廊下に座り込んでそれをやり過ごした。前にいた幸が手蜀を落とし、明かりが消えた。

(真っ暗で何も見えない。どうしたものか)

 今夜はお亀さまが殿と同衾しているはずだった。しかし殿は閨事が終わると、女を返し、独りで寝るのを習慣としていた。

(ここで誰かが見つけてくれるまで待つか?)

 揺れが収まり、そう考えていたとき、庭の方から明かりを差し向けられた。

「そこにいるのは誰か?」

 ここまで来るということは、殿の近習の一人のようだ。

「阿茶局と申します。殿のご無事を確かめに行こうとしましたら、動けなくなりました」

「ああ、それは……ご無事でようございました。わたくしがお連れいたしましょう。最上太郎四郎家親と申します。秀忠さまから父君の様子を見て来るよう仰せつかりました。しかし実は、わたくしも奥向きでの殿の居場所を存じ上げず、教えていただければ幸いに存じます」

 草履を脱いできざはしを上り、阿茶の前に片膝をついた少年が言った。従者は庭に控えている。

「同道してくださるとは、心強いこと」

 立ち上がった阿茶が微笑んだ。

(最上さまのご子息か。確か十五歳。礼儀正しく機転が利き、素直。よき武将になられよう)

 と、かなり好感を持った。

 それから阿茶は家親どのを伴い、殿の寝所へ向かった。

 殿は怪我もなく無事で、傍らには本多正信さまがすでにいた。

「阿茶か」

「はい。殿、まずは衣服を整えましょう」

 夜着のままだった殿に阿茶は隣室へ行って衣を探し、近習たちがさしかける明かりを頼りに小袖を着せ掛け、袴を着つけ、髪を整えた。

「最上どのがここにいるのはどうしてか」

 その間、本多さまが問うている。

 家親どのは秀忠さまの使いで来たことを述べた。

「そうか。秀忠は無事であったか。何よりである」

 殿が家親どのへ声をかけると、家親どのは平伏し、復命のため去った。

 その後も何度か揺れがあり、空が明るくなってくると、次々と被害の報告が挙がってきた。

 殿は表の書院へ場所を移し、家臣たちからの報告を受けた。

 長倉ながくらが倒壊し、近習の加賀爪政尚が死んだという。こちらの屋敷では小者が十余人、秀忠さまの屋敷では六、七十人の死者が出た。

 阿茶が受けた奥向きの被害では、使用人の女たちに怪我人は出たものの、側室さま方と若さま、姫さまは無事だということだった。

 地震の揺れは、昼になっても続いた。

 徳川家に真っ先に見舞いに訪れたのは、最上義光さまで、妻子の死に遺恨があるため、太閤の許へは行かなかったようだ。

 他の大名家は指月の伏見城へぞくぞくと見舞いにでかけ、謹慎中だった加藤清正さまは北政所さまの口添えもあって、謹慎が解かれたという。



*****



 文禄五年(一五九六)閏七月十三日の真夜中に起こった地震は、震源が京の伏見だったので、伏見大地震と呼ばれる。この四日前に伊予(愛媛)で、前日には豊後(大分)でも大きな地震があった。

 京中では、三条から下伏見まで家が損壊し、上京はさほど被害がなかったものの、指月の伏見城中では上臈七十三人、中居から下女まで五百人が死亡し、一の門と三の門の番衆は門が崩れて全員が死亡した。

 太閤秀吉は中の丸にいて無事だったが、伏見城天守の石垣は残らず崩れ、城下にある諸大名の家もことごとく潰れた。大坂・堺も同様で死者は千人以上とも言われている。

 また、東寺・天龍寺・二尊院・大覚寺・方広寺大仏なども損壊した。

 この地震によって、十月二十七日に、文禄から慶長へと改元される。









読んでくださり、ありがとうございます。

環境が激変する事態がありまして、資料読みと執筆する時間が今までのようには取れなくなりました。細々と何とか週一更新をしてきましたが、これから不定期となります。でも、絶対完結までいきたいので、がんばります。お暇なときに、覗いていただければ幸いです。

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