つかのまの平穏
「名護屋におるとき、儒者の藤原惺窩から『貞観政要』の講義を受けたが、なかなか面白かった。今度招くとき、阿茶も聞くがよい」
『貞観政要』とは、唐の太宗の政治論などを集成したものである。
「まあ、それは興味深いこと」
理解できるかどうか分からないけれど、と思った阿茶は名護屋から戻った殿からそう言われたとき、にっこりして受け流した。
そんなやり取りを覚えていたのか、殿は秀忠さまの婚礼が終わった翌月、文禄四年十一月一日に伏見の徳川屋敷で『伊勢物語』の講義を催した際、阿茶にも聞けるよう工夫してくれた。
講師は権中納言の水無瀬兼成さまで、殿の他には若君の秀忠さま、ご次男の結城秀康さま、親しくしている公家の山科言経さま、同じく公家の冷泉為満さま、そして伊達政宗さまが聴講した。
どうしてここに伊達さまが? と阿茶は思ったが、同席していた笹尾局によると、ご自身は漢詩を作るほど教養があり、ご正室さまも和歌に堪能で古典の教養深い御方であるとか。
(京から遠いみちのくで、ご夫婦そろって教養がおありとは素晴らしいこと。いえ、京から遠いゆえ、憧れがあるのか)
荒武者であるとばかり思っていた伊達さまの印象を、阿茶は改めた。
殿は「女たちも聞けるように」と、後方に御簾を下ろした席を用意してくれたが、御新造さまは遠慮され、代わりに民部卿局が来て、阿茶の他は笹尾局と白須局と市島局と幸という、多くは阿茶の側近たちだった。
「こういう場は、馴染めない者が多いかと思います」
笹尾局が苦笑する。その本人も、瞽女の語りと琵琶法師の語る『平家物語』しか知らないという。
民部卿局が言うには、織田家で育てられた御新造さまも読み書きと縫い物、行儀作法は身についていても、古典の書籍は読んだこともなく、和歌はなんとか詠める程度であるので、この場のことは後から民部卿局から教えてもらうおつもりなのだとか。
(織田家は中心となる右府さまが亡くなられて混乱したからな。織田本家の血筋ではなく、姪とはいえ、他家の浅井の血を引く姫さまたちの教育まで手が回らなかったのだろう)
と、阿茶は察した。
(それに、好みもあるし)
後ろから見ていると、若い結城秀康さまと秀忠さまは姿勢を崩さなかったけれど、講師の水無瀬さまの話にあまり身が入ってないように見受けられた。
すでにご存知の冷泉さまと山科さまは悠然とされ、殿と伊達さまは熱心に聞き入っておられた。
阿茶自身は、はるか昔、女童としてお裏様こと三条夫人に仕えていたとき、上役の淡路局さまから、『小間使いの童であっても、主さまたちの会話が理解できなくてはご奉公がかないません。わたくしが教えますゆえ、そなたらも教養を身に付けなさい』と、さまざまな物語を教えていただいたことを、懐かしく思い出していた。
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このあと、文禄五年七月(十月二十七日に慶長と改元)に、家康は山科言経から『吾妻鑑』の講義を受け、翌年には足利学校の第九代校主で禅僧の三要(閑室)元佶から『毛詩』(毛亨が伝えた『詩経』)を教わり、慶長五年には元佶に兵法書の『六韜』『三略』を出版させている。他の機会には『源氏物語』などの講義も受け、国内の旧記・稀覯本を収集し、隠居した駿府城の御文庫には国書・漢籍合わせて約千部七千八百冊が収められた。
家康の死後、これらの書籍は将軍家と御三家に相続され、このうち尾張徳川家に収められた分は「蓬左文庫」として今に伝わっている。
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穏やかに終わるかと思っていた文禄四年だが、十一月三十日に殿が寝込んでしまった。これまでの疲れが出たと思われる。
(殿も五十四歳になられたか)
下士の家だったら、隠居して嫡男の後見をしながら悠悠自適の暮らしをする頃だ。しかし、大名家の当主である殿は、そういうわけにはいかない。後継の秀忠さまはまだ十七歳。妻を迎えたばかりで子もいない状況では。
殿が病と聞きつけて、今は入道の常真と名乗り、太閤の相伴衆となっている織田信雄さまと前田利家さまらがお見舞いに訪れた。
床についていながら、見舞客へにこやかに応対していた殿だが、薬については自前の薬箱の引き出しの番号を言って侍医に薬研で薬を作らせ、診察も投薬もさせない。
(医師にとっては、いやな患者であろうな)
本職以上に医薬の知識がある殿だから出来ることだ。
やがて自ら調合した薬を飲んで、殿は回復した。
しかし元気になればなったで、「はきと言われぬ殿」にしては珍しく息子に対して五月蠅い。
秀忠さまが殿の過去の戦について家臣たちから聞き回っていると知れば、
「そんなことは小平太(榊原康政)からにだけ聞けばよい」
と言うし、柳生さまから剣術の稽古を熱心に受けていると、
「家臣が周囲にいる者には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を斬る剣術は不要」
「大将は戦場で直接、戦うものではない」
とか言って、当の本人は武芸の名人であるのに、何かと口うるさい。
(殿としては、後継教育のつもりであろうけれど)
その小姑のようにうるさい父親に対して、注意を受けると秀忠さまは居住まいを正し、「はい、父上」「承りました」と素直に受け入れている。
(秀忠さまのこういうところを殿は気に入っておられるのだろうな)
と、阿茶は自分を納得させている。
婚儀のときから殿と秀忠さまは京に滞在した。父子がこれほど長く同じ敷地内にいるのは初めてのことだ。戦と領地のことで御子たちと過ごす時間がさほどなかった殿にとって、〝家族〟と共にいる穏やかな時間であった。
(ここに御方さまもおいでになれば良かったのに)
と、阿茶は切なく思わずにいられない。
お愛の方さまが生きておられたら、きっと奥を統括する今の阿茶の位置にいただろう。阿茶はその補佐を喜んでしていたと夢想する。けれども春の花の化身のようなあの方はおらず、阿茶は淡々と歳暮で贈る物品を表役人と打ち合わせ、例年通りの手続きをした。
殿は病み上がりであることから、伏見の屋敷の奥でのんびりと過ごしておられる。
その日も部屋は火鉢で温められ、お世話をするお亀さまを傍らに侍らせて書見をしていた。
お久さまは姫君を産んでから閨へ呼ばれることはなく遠ざけられ、お亀さま・お万さま・お梶さまを寵愛しておられるが、このところは特にお亀さまを側に召している。
やがて、書見をしていた殿は疲れたのか、脇息にもたれ、足を投げ出してお亀さまに揉ませていた。そのうちに、うとうとし出して脇息にもたれてうたた寝をし出した。
「ま、これではお風邪を召してしまいます」
阿茶は部屋の隅に控えていた侍女に別室から袷の小袖を持ってくるように命じ、殿の側へ寄った。
「お亀さまもお疲れでしょう。少し休息なされては。仙千代君のご様子を見て来られてはいかが? そのとき、お梶さまを呼んで来てくださいな。交代している少しの間、殿のことはわたくしが見ております。不在のことを聞かれたら、うまく言っておきます」
「阿茶局さま、かたじけのうございます。では、お言葉に甘えまして」
と、お亀さまは座から立って部屋を出て行った。
入れ替わるように侍女が小袖を持ってくる。
阿茶はそれを受け取って、殿の肩からかけた。
「……私は、この脇息や枕屏風のようなものかな」
と、ふと虚しさに襲われ、つぶやいた。
殿に信頼され、奥向きの諸事をまかされている。これに不満はない。もし徳川家に奉公できないでいたら、寡婦として本家で使用人同然の扱いのまま生涯を終えていただろう。炊事や馬の世話は嫌いではなかったけれど、働かされて、それっきりだ。それに比べ、今の仕事のほうが為すべきことが多岐にわたり難しいこともあるが、とてもやりがいがある。
でも……、と思う。
いっときでも、殿の寵愛を受けることができた。それはいい。お褥すべりをして、奥を統括する老女としての役割を日々こなしているうちに、自分は殿にとって、この日用品と同様の使い勝手のいい道具なのではないか、と感じることがある。
特に、自分より若いお亀さまやお梶さま、お万さまを寵愛する殿を間近に見て、侍女たちに指示を出すとき、自分の女の部分が陰る。
(これは、嫉妬などではない。断じて違う)
だって、お愛の方さまにはこのような感情を持たなかったのだから。
「阿茶局さま、お呼びと聞き、まかりこしました」
お梶さまの声が聞こえ、廊下側の障子が開いた。
「よう参られました」
阿茶は今の思考を振り払い、微笑んだ。
「殿のお世話をお願いいたします」
言うと、ぱあっと顔を輝かせ、お梶さまが答える。
「喜んで」
と、そのとき殿が身じろぎした。目が覚めたようだ。
阿茶はお亀さまの不在の訳を述べ、後のことをお梶さまにまかせて、そこを退出したのだった。




