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奇跡の虹が残したものは  作者: 吉田 琥珀
9/14

神様、ゴメン

雨は止んでいた。

だが、西の空では雲の切れ間を眩い稲光が走っている。もうじきここへもやってくるだろう。


家に着くまであと数分。

時刻はもうすぐ11時になろうとしていた。


俺は、すぐに帰る、と言った。

だが、気持ちの重さは歩む足に正直すぎるほど表れていた。

それでも愛姫の待つ家は目の前に迫る


深い溜息が夜の空気に融けていった。


往生際の悪い俺は、エレベーターを待つ事なく階段へ向かう。

見上げた階段は少し不気味だった。


キンとした静けさで耳が痛い。

一段一段ゆっくりと登る。


聞こえてくるのは自分の足音とコンクリートにぶつかって響く傘の音。

そして、遠くを走る救急車のサイレン


305号室

表札はないが、俺の部屋


なかなかドアを開ける事が出来ない


サワサワと降り出した雨とともに近づく雷鳴

何かの前兆のように思えた


振り払うように深く深呼吸をする

その息が少し震えていた。


ゆっくりと開いたドアの奥

灯りが消えていた。

先に寝てしまったのか?

そう思う事はもう出来ない


嫌な予感が頭をかすめる


リビングのドアノブに手をかけ開いた


月明かりのささない部屋の中は暗く、窓から僅かに差し込む街灯の灯りが、残り少ない紫陽花の花を浮かびあがらせていた


突然、窓の外で稲光が空を覆う。

そして数秒後、大木をへし折るような雷鳴が街に轟いた

その閃光に浮かび上がった人影


「電気くらいつけろよ」


心臓の動きを感じながら、明かりに手を伸ばした。


「いっちゃん……」


明かりを目前にした手が止まった


「なんだよ」


静まりかえる部屋の中

雨音が少しずつ大きくなっていく


再び光る闇の空

激しい閃光で一瞬目の前が白く見えた


地響きのような雷鳴が腹に響く

その音は暫くの間、地を這うように蠢き消えた

そして、雨音だけが残された部屋で、愛姫は静かに言った


「おじさんとおばさん、死んじゃったんだ」


こいつにバレないように、なんて所詮無理な話だったんだ。


「やっぱりついてきてたんだな」

「私のせいなの。私が」

「違う! 話聞いてたんならもうわかるだろ?」

「でも……でも、パパとママも私をおいてった」


やっぱり、根源はここか……


5歳の頃の記憶なんて、俺なんかほどんど残ってない。

だけど、こいつは17年経った今でも頭の中にはその頃の記憶がベッタリと張り付いているんだ。

解放されることなく、今もなお、捨てられたという思いがこいつを苦しめて。


まるで、呪縛


「ゴメン、いっちゃん… 私、いらない子だったんだ。だから死んじゃったんだ」

「お前、本気でそんな事言ってんの?

親の事はよく知らねぇけど、おじさんとおばさんはお前の事を」

「だって! いなくなったじゃん!

パパもママもおじさんもおばさんも、みんないなくなったじゃん!

それだけじゃない。付き合ってた男の子もみんなこの手見たらいなくなった。

私は私の全部を受け止めて欲しかったのに、

誰も私を本気で必要とは思ってくれなかったもん!」


思ってた以上に、傷は深そうだ……


こんな時、心理カウンセラーならどういう対応をするんだろうか。

優しく、なだめるように少しずつ傷を治していくんだろうか。

ゆっくりと、時間をかけて。

でも、俺は、そんなもん全くわかんねぇし、こんな言い方しかできない。


「だったらなんで切ったんだよ」

「…………………わかんない」

「わかんないってなんだよ。自分でやったことだろ?」

「ホントにわかんないの! 周りに迷惑かけるのもわかってた。だけど、いつも気づいたら血が流れてて。死ぬつもりなんて…………

なかった」


矢神の言った通りだ。


だけど、腑におちない


「俺は見てねぇぞ。なんで俺には見せなかった? なんで俺の時だけ自分からいなくなった? お前さ、後に残されたもんの気持ちがどういうものかって、誰よりも一番よく知ってんだろ? だったらなんで……」


俺は悔しかった。

ただただ悔しかった。

他のやつには見せたものを、なんで俺には見せなかったのか。

嫉妬とか、そんな軽いもんじゃない。

もしあの時、こいつが全てをさらけ出してくれていたら、何かが変わっていたかもしれない。そう思うとただひたすらに悔しかった

その思いが溢れ、優しい言葉なんてかけてあげる余裕はなかった。


「おい、どうなんだよ。答えろよ」


愛姫は泣いていた。

そして、膝を抱え、くぐもった声で言った


「違うの。いっちゃんは違うの」

「何が違う」

「入院、してたの」

「入院?」


おそらく、病気が理由ではないだろう


「愛姫、腕見せろ」


その言葉に、愛姫は頭をパッと上げ


「イヤだ…」

「イヤだじゃねぇよ。見せろ」

「イヤ!」


愛姫はTシャツの裾をキュッと掴み、膝を強く抱えた。

だが、俺はそれを許さなかった


「いいから見せろ!」


強く引っ張り上げた左腕。

拒否しながらも、愛姫は抵抗しなかった。

掴まれた腕はダランと垂れ下がっている。


俺は、ゆっくりと袖をめくった。


その瞬間、痛みを感じる程の激しい光に目を細めた。

そして、閃光に浮かび上がった愛姫の腕を見て、俺は息をのんだ。


「なんだよ……………コレ」


それは、俺が想像していたものをはるかに超えていた。


真っ白な細い腕に無数に並ぶ、赤茶けた細い傷跡。

その中に一つだけ、手首の部分に明らかに他のものとは色も太さも異なった傷が残っていた。

太い二本の線を真ん中でクロスさせたバツ印のような傷跡。まるで、全ての罪を終わらせるために押した烙印のようで。

それは、生々しく浮き上がっていた。

おそらく、これが入院していた理由。

しかも、その傷をおったのは俺と付き合っていた時。


納得、出来ない


「なんで……… なんでこんな事。

なんで俺にはなんにも言わなかったんだよ」

「いっちゃんだから言えなかったの」

「はぁ?」

「だって、いっちゃん優しいから。

優しくて、居心地が良くて、大好きだったから、離れたくなくって、ずっと一緒にいたくって。 いっちゃんならきっと、って、そう思った。でも、一人になるとやっぱりダメだった。いつかまた置いてかれるんじゃないかって、怖くて怖くて仕方なかったの。

それで、気がついたら病院にいて」

「じゃあ、退院してからもなんで俺のところに帰ってこなかった? こんなになるまで腕切って。 俺はずっとお前の事心配してたんだぞ!」

「だから言ったじゃん! 置いてかれるのが怖かったって!」

「勝手に決めつけんな!」

「そんなのわかんないじゃん!」


確かに、

さっきはあんな風に思ったけど、もしあの頃にこの傷見せられていたら、俺は、本当にその全てを受け止めてやれただろうか。

そんな事、今更考えても仕方のないこと。

それならこれから、と言えば少しはこの言い合いも治まるかもしれない。

だが、こいつに、これから、はない。


「もういい。 寝る」


そう言って背中を向け、着替えもせずにベッドに潜り込んだ。

だが、眠気などこれっぽっちもない。

眠れる気もしない。

耐え難い痛みが胸を襲う。

自分がこんなにも不器用な人間だったなんて

あんな冷たい態度をとるつもりなんてなかったのに。


自分が腹立たしくて仕方がない。

体が熱を帯びたように熱くて熱くて。

もう、全部ぶっ壊したい。

そんな衝動を抑えるので必死だった。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


やがて、少しずつ小さくなっていく雨音

遠のいていく雷鳴


だが、愛姫のすすり泣く声は微かにまだ聞こえていた。


俺は、自分の腕を見た。

ごく普通の男の腕だ。

擦り傷一つない普通の腕だ。


さっきのあの傷跡。

痛ましいなんて言葉じゃ表現しきれない。


衝動的………

リスカーのほどんどがそうだと聞く。

体から流れ出る血を見ることで自らの「生」を視覚的に確認するという自傷行為。

その複雑な心情を理解することは至って難しい。


その事が愛姫にも言えるかどうかはわからないが、矢神は言った。

愛姫は助けて欲しかったんじゃないかって


もしそうだとしたら、愛姫の望みはヒーローの存在。

それを確かめるためにこいつは戻った。


だけど、

そんなもん、何処に………


「愛姫……」


グシュグシュと鼻をすする音。

幽霊が鼻垂らすってなんだよ…

なんでもありか!


「愛姫っ!」

「何よ……」


鼻声って。

鼻も詰まるんだ。

ヘェ〜〜〜〜〜


「こっち来い」

「へぇ?」

「こっち来いっつってんだよ!」

「でも、この前ダメって言ったじゃん」

「特別だ。アホ!」

「お腹、こわさない?」


それは、俺が苦し紛れに言った言葉だ

俺の腹はそんなにヤワじゃねぇ。


「こわさねぇよ」

「腰痛は?」

「だから大丈夫だって! こねぇならもうホントに寝るぞ!」


俺は背中を向けた。

言ってしまった手前、もしこなかったらなんか振られたみたいで、すっげえカッコ悪いじゃん、なんてことが頭に浮かんだからだ。


いや、そんな心配いらないか…


「いっちゃん…」


ほら来た…


「おら、とっとと入れ」


タオルケットをペロッとめくると、愛姫はスッと潜り込み、俺の体に軽くくっついた。


「ひっでぇ顔。なんで幽霊が鼻水垂らしてんだよ。てか、その鼻水どっからでてんだよ」


ほんと、涙とか鼻水とか、どっからでんだ?


「私が知るわけないでしょ!」

「へへ、そうだよな………ほら、もっとこっち来いって」

「ん………」



「お前の髪って、こんなに細かったっけ?」

「変わってないと思うけど」

「そっか……」


撫でる度、指に絡みつく細い髪。

傷んでいるように見えたが、その髪は、もつれることなく指の間をスルスルとすり抜けていく。


普通の女の子の髪だ。


「さっきはごめんな、怒鳴ったりして」

「ううん、大丈夫。いっちゃんになら何言われてもへーき」


何言われてもって、まるで俺がドS野郎みてぇじゃん。

まぁ、当たってなくもないけど。


「なぁ」

「ん?」

「そこまで言ってくれんなら、俺の言う事、なんでも信じれるな」

「え?」

「お前を置いてった両親や逃げてったヘタレ男の事は悪いけどよくわかんねぇ。

けど、おじさんやおばさんは決してお前の事をいらないって思ったんじゃねぇ。

お前の事を大切に思ってたよ。きっと……」

「いっちゃん?」

「それと、俺もな。 三人も思ってくれる奴がいるなんて、お前、幸せもんだぞ!」


我ながら臭い台詞だ。

普段なら、口が裂け切っても言えない。

こんな事。

だけど、恥ずかしいなんて、今はこれっぽっちも思わない。


「うん……… うん………」


また泣き出してしまった。


「あ、お前、鼻水つけんなよ」

「無理………」

「ったく」



昔、泣いている子供をなだめるには抱きしめてやることが一番だ、と誰かがテレビで言っていた。

そんな都合よく思い出した誰かの教えに、俺は素直に従った。


それに応えるように、愛姫は俺の胸に顔をうずめ、腕を背中に回してシャツをキュッとつかんだ。


小さな、

小さな、手だ………




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


どれくらいの時間が流れたのか。


泣き声は止んだ。

嵐も行ってしまった。

夜の静寂に包まれた部屋の中。

俺たちはもう一言も言葉を交わさなかった


あの傷跡が、今も目に焼き付いて離れない。


もし、この決して許されない行為が神様の逆鱗に触れ、命を奪ったのだとしたら、

神様……… 俺はあんたを恨むよ。

悪いけど。


午前2時

耳を澄ませても僅かな生活音さえ聞こえてこない。

街は深い眠りについているようだった。


愛姫の細く柔らかい髪が頬に触れる。

その髪から漂う甘い香の薫り。

優しくて、心地よくて、ゆっくりと導くように俺を眠りへと誘う。


徐々に遠のいていく意識。


逆らえない…………


まだ……

まだもう少しこのまま、と、小さな体を抱きしめた。


ハラリと滑るこの髪も、背中に回した指先の感覚も、生きた人間と変わらない。


だが、抱きしめたその体は




…………クソ、やっぱ冷てぇな…………




雲の切れ間から差し込む月明かりの下、また一つ、紫陽花の花が散った





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