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十八、謝罪
瑠璃川がナイフを振り上げたとき、ドアの方向から、チャイムが聞こえた。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか」
瑠璃川は、返事をしないまま、様子を窺っていた。
すると、もう一度、声が聞こえた。
「すみません。警察の者です。白石さんはいらっしゃいますか?」
瑠璃川は、ナイフを振り上げた手をゆっくり下に下ろした。
ドアの横にある窓が小さく開き、中年男の顔が覗いた。
「思った以上に早かったのね」
瑠璃川は、男を見詰めたまま、呟いた。
そのまま、十秒ほどの時間が過ぎただろうか。警察を名乗った中年男が、瑠璃川に静かに語りかけた。
「君は、瑠璃川美羅君だね。私は埼玉県警の栗栖という者だ。今日は、瑠璃川君、君と話がしたくてここへ来た。まずは、落ち着いて話をしようじゃないか」
警察が、どのような捜査をおこなっていたのかは知る由もない。だが、瑠璃川はニュースを見た時点で、遅かれ早かれ警察が、自分たちの元を訪れるであろうことを予想していたのだろう。
とはいえ、事態は瑠璃川の、そして陽太の予想をはるかに超える速度で進んでいた。
瑠璃川は、栗栖と名乗る警察官から目を逸らすと、身動きが取れないまま窓の方向を見詰めている陽太に向かって囁いた。
「残念だわ。最後に二人だけの時間をたっぷりと楽しもうと思ったのに」
瑠璃川は、明らかに落胆した表情を見せた。
――助かった、のか?
一瞬、そんな考えが陽太の頭をかすめた。だが、瑠璃川の口元には、得体の知れない笑みが浮かんだままだった。
その様子に気づいた陽太は、すぐに考えを改めた。
――やはり、助からないのか。
希望と絶望の淵に座り込んでいる陽太の耳に、栗栖の声が静かに響いた。
「一緒にいるのは、白石陽太君だね。白石君、大丈夫か?」
陽太は、返事をするべきか迷い、思わず瑠璃川を見上げた。瑠璃川は、小さくすぼめた口に、人差し指を当てた。「しっ」という音が、瑠璃川の唇から漏れた。
陽太は、仕方なく沈黙を守り続けた。すると、痺れを切らしたのか、栗栖が再び口を開いた。
「瑠璃川君、高校時代に君と佐伯君の間に起こったことは、白石君とは関係がない。だから、すぐに彼を解放するんだ」
瑠璃川は、我儘を咎められた子供のように、不満そうな表情で言葉を返した。
「私たちは、愛し合ってるの! だから陽太は、私と一緒に行くの!」
瑠璃川は、窓の外で様子を窺う栗栖の方向に、刃物を向けた。
「待て! その前に、私の話を聞いてくれ!」
瑠璃川は、栗栖の声にまったく心を動かされる様子を見せないが、それでも栗栖は話をやめようとはしない。
「頭のいい君のことだから、もう気づいていると思うが……。瑠璃川美羅君、君はただ、佐伯さんを見返してやろうとしているだけなんだ。しかし、佐伯さんは……」
栗栖が、深く息を吸い込むのがわかった。
「佐伯美羅さんは高校時代、確かに君に対する嫌がらせの中心にいた。だが、高校を卒業して以来、それを深く悔いていた。そして、高校時代に君に嫌がらせをしていたことを、同窓会の席で謝ろうとしていたんだ」
陽太は驚愕した。そして、思い出した。
あの同窓会の日、佐伯は「ごめんなさい。行ってくるね」と、病をおして出かけていった。あの言葉は、心配する陽太に向けた謝罪の言葉だと、今の今まで思っていた。
しかし、そうではなかった。
佐伯の言葉は「ごめんなさい。行ってくるね」ではなく、「ごめんなさい、言ってくるね」という、瑠璃川への謝罪の意思を表す言葉だったのだ。
佐伯はあの日、瑠璃川に謝罪をしようと心に決めていたのに違いなかった。
だが、たまたま体調が悪かったことに加え、謝罪をしなければならないという緊張、まだ二十歳になったばかりで酒を飲み慣れていないという事実、決して酒に強くはないという体質、そして何より、瑠璃川に薬を盛られたという予測不可能な要因が重なって、謝罪をする前に酩酊状態になってしまったことは、容易に想像がついた。
本来なら、謝罪しようとしていた佐伯を手にかけた瑠璃川に対して、怒りを爆発させてもいい場面なのだろう。しかし、陽太の心の中には、むしろ自責の念が広がっていた。
――佐伯の後悔に気づき、もっと親身になって相談に乗ってあげられていたら、あんなに惨い事件は起こらなかったかもしれないのに……。
――加害者も、被害者も生まれなくてすんだかもしれないのに……。
陽太は、胸を掻き毟りたくなるような後悔を感じながら、首を垂れた。そのまま、独り言のように言葉を漏らす。
「苛めや嫌がらせが、被害者にとって本当に苦しいものであることは、苛められた経験がある俺も、身をもって知っている。決して、許されるべきことじゃない。だから、佐伯美羅が高校時代、君にやったことは、今さら謝ったからといって、決して許されないこともわかっている。でも、それでも……」
陽太は、深呼吸をした。
「謝ることができなかった佐伯美羅の代わりに、俺に謝らせてくれないか。本当に申し訳なかった」
陽太の謝罪を耳にした瑠璃川は、感情のこもらない平坦な声で言い放った。
「なぜ、あなたが謝るの?」
まるで、魂を失った人間が発する声のようだった。
「それは……」
陽太は、一度息を止めた後、ゆっくりと息を吐き出す。
「なぜ、俺が謝るのか。それは……」
静かに吐き出す空気で声帯を懸命に震わせながら、言葉を紡ぎ出した。
「佐伯美羅が俺の恋人だったからだ」
瑠璃川の肩が、びくりと動いた。
「何を言ってるの? あなたの恋人は、あんな人間の屑みたいな女じゃないでしょ? あなたの恋人は私……。私なのよ?」
瑠璃川は、目の前の男の心情が理解できないといった表情で、陽太の顔を覗き込んだ。
「あの女、同窓会の席で、星の指輪を嵌めていたわ。私、聞いたの。『その指輪、きれいだね。どうしたの?』って。そしたら、何て言ったと思う? 『今の恋人にもらった』ですって。面と向かって、なぜそんなことを平気で言えるのか、私は考えたわ。そして気づいたの。この女は、自分がかつて私とあなたの恋路を邪魔したことさえ覚えてないんだって。ねえ、酷い話でしょ?」
何かに取り憑かれたような生気のない視線が、陽太に注がれた。
「あなたが愛しているのは、あんな女じゃない。私なの」
*
「瑠璃川君。君の望みはいったい何だ!」
ドアの外から、再び栗栖の声が聞こえた。
「ああ、本当にうるさい。今、大切な話をしてるのに」
瑠璃川が、苛立たしげに眉をひそめた。
先ほどから、外が騒がしくなりはじめていた。
陽太は、窓にちらりと視線を動かした。曇りガラスの向こうに見える人影が、明らかに数を増していた。
恐らく、栗栖が発した応援の要請に応じて、警察官たちが続々と駆けつけはじめているのだろう。
犯人が逃亡しようとしたときや、自暴自棄になったときに備えて、マンションの外にも多くの警察関係者が配置されはじめているに違いなかった。
ひょっとしたら、近隣住民の避難もはじまっているのかもしれない。
だが、瑠璃川は、そのような屋外の空気の変化を気に留める様子もなく、再び陽太に語りかけはじめる。
「覚えてる? 海にドライブに行ったときのこと。陽太、タオルを拾おうとして海に落ちた私を、身を挺して助けてくれた。嬉しかったなあ……」
「それは……」
――大切な人を、もうこれ以上、失いたくなかったから……。
陽太は、あのときの状況を思い浮かべた。
陽太はあのとき、確かに瑠璃川を助けようと海に飛び込んだ。
しかし、海水の中でもがく女性を力の限り抱き締め、岸に向かって懸命に泳いでいるなかで、陽太が腕の中に見ていた女性の姿は……。
あのとき失いたくないと思った“大切な人”は……。
瑠璃川美羅ではなく、佐伯美羅だった。
――俺は、瑠璃川美羅と出会って以来、ずっと瑠璃川美羅を大切な人だと思い込み続けていた。
――だが、それは瑠璃川美羅に佐伯美羅の影を重ねていただけだった。
一方の瑠璃川は、陽太の心中を知るでもなく、懐かしそうに遠くを見詰めていた。
「最初、私はあなたの前で、明るいキャラを演じているだけのつもりだった。でも、ある日、気づいたの。これは演技じゃなくて、本当の私なんだって」
そう言うと、瑠璃川は陽太の顔に視線を落とした。その顔には、恍惚とさえ言える表情が浮かんでいた。
「陽太。あなたは私を変えてくれた。生きている価値なんてない、この世に幸せなんてものはないって考えていた私に、あなたは生きる幸せを与えてくれた……」
瞬間、今まで瑠璃川と過ごしてきた日々が、走馬灯のように頭の中に蘇った。だが、陽太と瑠璃川によって紡がれてきたすべての記憶は次の瞬間、火に包まれたフィルムのように、色を失いながら闇に侵食されていった。
「瑠璃川、まだ間に合う。これ以上、過ちを……」
「やめて!」
怒りに満ちた瑠璃川の声が、陽太の謝罪を遮って室内に木霊した。
曇りガラスの向こうに見えていた、警察官たちの集団がつくり出す黒く巨大な影が、ゆらりと大きく揺らいだ。
*
そのまま、どれくらいの時間がたっただろう。
瑠璃川が、おもむろに呟いた。
「もう、手遅れよ……」
言葉は、微かな震えを帯びていた。耳を澄まさなければ聞こえないほどの力ない声が、陽太の鼓膜を通して、心の中に浸み込んできた。
顔を上げると、瑠璃川の唇がわなわなと震えていた。先ほどまで冷徹な光を放っていた目は、別人の目のように哀しみを湛え、赤く充血している。
まるで、嗚咽をこらえているかのようだった。
目尻から透明な液体が流れ、頬を伝ってフローリングの床に音もなく落ちた。
やがて。
涙で潤んだ瞳を陽太に向けた瑠璃川が、再び刃物を振り上げた。
「もう、こうするしかないの!」
瑠璃川の叫び声が耳をつんざいた。
陽太は、覚悟を決め、固く目を瞑った。
何かが風を切る音が聞こえ、同時に首の付近に生温かい感触を感じた。
首の皮膚を、刃物が切り裂いたのだと気づいた。
徐々に遠くなっていく意識の向こうに、陽太は二発の銃声らしき音を聞いた。
どさりと、何かが倒れる音。
薄れゆく意識に抗いながら、陽太は目を開ける。
床に倒れ込んだ瑠璃川の左胸付近から、真っ赤な液体が流れ出ていた。
先端が真っ赤に染まったナイフが、美羅の傍らに落ちていた。
――瑠璃川……。
瑠璃川の口が微かに動いた。何かを言っているようだった。。
朦朧とする意識の中で、陽太はその言葉に耳を澄ませた。
――私は、あなたを本当に大切に思っていた。佐伯美羅に負けないくらい。
――でも、私は、そんなあなたから大切な人、佐伯美羅を奪ってしまった……。
瑠璃川は、苦しそうに顔を歪めながら口を動かし、弱々しく空気を吐き出し続けている。
――大切な、人に、そんなこと、しちゃいけないって、わかってた、はずなのに……。
――そんなこと、しても、あなたが、私を、大切に思って、くれることなんて、ないって、わかってた……。
――はずなのに……。
目の前のできごとが夢なのか現実なのか、もはや陽太には判別できなかった。
――短い、間だったけど、あなたと、一緒にいられて、本当に、楽しかった……。
――向こうで、会えたら、いいね……。
――さよう……。
次の瞬間。
警察が玄関のドアを蹴破る衝撃音が室内に響いたような気がした。
そしてそのまま、陽太は気を失った。




