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十九、美羅とミラ
気がついたとき、陽太は病院のベッドに横たわっていた。
首の傷は頸動脈に届いていなかったため、一命を取り止めた。
主治医は、傷の状態を確認しながら「傷はかなり深かったが、動脈を傷つけてはいなかった。運がよかったね」と笑った。
医師の話を聞きながら、陽太は思った。
――本当に、運がよかっただけなのだろうか。
――瑠璃川は、わざと動脈を避けたのではないだろうか。
今となっては、わからなかった。
病室を訪れた刑事の話では、警察官が瑠璃川に向けて発射した二発の弾丸のうち、一発は腕を、一発は心臓を打ち抜いた。
ほぼ、即死だった。
ということは。
――彼女の最期の言葉は……。
幻聴だったのだろうか。
それも、今となっては確かめようがなかった。
巷では、発砲した警察官の判断を巡って議論も起こった。その議論を受けて警察は内部で検証をおこない、最終的に発砲は適切な判断だったと発表した。
*
事件の後、陽太は内定をもらっていた大手出版社への入社を辞退した。
代わりに、苛めなどで登校拒否になった子供たちのためにフリースクールを運営する、東京都内のNPO法人に就職した。
就職してから今までの三年間で何人か、恋人関係に発展しそうな女性と出会う機会があった。しかし、それらの関係は結局、恋人にまで発展することもなく終わった。
――もう、俺は人を愛することはできないのかもしれない。
プライベートの時間を顧みることなく忙しく立ち働きながらも、ふと冷静になったとき、そんなことを考えている自分がいた。
当然といえば当然だが、あの事件はそれほど、陽太の心に暗い影を落とし続けていた。
*
今年も、また“あの日”がやってきた。
その日、陽太は瑠璃川の墓の前にいた。
「また、今年も来てましたか」
墓前で手を合わせていると、後ろから突然、聞き慣れた声が聞こえた。振り返ると、隣の墓の前に翔が立っていた。
視線が合った翔は目を細め、感情が読み取りにくい、いつも通りの笑顔を浮かべた。
右手には、赤色や黄色が目にも鮮やかな菊の花束が握られていた。
「先輩、七ヶ月前の美羅……、佐伯の命日にも、彼女の墓参りに来てましたよね」
翔は、おもむろに切り出した。
「なぜ、それを」
「なぜって……。墓前で手を合わせてる先輩を見かけたからに決まってるじゃないですか」
まったく気づかなかった。
「あれからもう三年たつっていうのに、毎年毎年、二人の墓参りを欠かさないなんて、偉いもんですね」
本来なら恥じる必要などまったくないはずなのだが、陽太は微かな羞恥心を覚えた。
「それは皮肉か」
翔は、困ったような表情で頭を掻いた。続いて口にしたのは、翔にしては珍しい自虐的な言葉だった。
「嫌だなあ、本心ですよ。そもそも、俺も似たようなもんですから、皮肉なんて言える立場じゃないですよ」
そうだ。
考えてみれば、陽太が二人の命日に墓参りを続けている事実を知っているということは、翔自身もその場にいるということなのだ。恥じる必要など、まったくなかった。
「それにしても、事件の後に写真の二人を見たときは、驚きましたよ。高校時代、あんなに明るくて男子にモテた美羅……、佐伯が、すっかり落ち着いた大人の女って感じになってたんですから。おまけに、高校時代にはジャミって呼ばれてた瑠璃川は、容姿が佐伯とそっくりになってるじゃないですか。もう、びっくりですよ」
陽太は、どう返事をしていいかわからずに、翔の次の言葉を待つ。
すると、翔は「実は」と言いながら、遠い目をした。
「佐伯の幼馴染で、同時に高校一年生と二年生のときには二人と同じクラスでもあった俺は、あの頃、当然ですけど二人をすぐ近くで見てたんですよね。当時、多くの人は気づいてなかったみたいですけど、佐伯は確かに陰で瑠璃川の悪口を言ってました。でも、周囲の取り巻きたちが美人で目立つ佐伯を祀り上げて、瑠璃川に対してなら陰口を言ってもOKっていう雰囲気をつくってた気がするんです。正確に言うと、佐伯は悪口を言わされてたっていうのかな。実際に、直接的な嫌がらせをしていたのは佐伯じゃなくて、むしろ取り巻きたちのほうでした。俺には、瑠璃川に対するそんな直接的な嫌がらせを、佐伯が望んでるようには見えなかったんですよね」
翔はここで一度、言葉を切り、腕組みをした。
「実は俺、佐伯とは小学校から同じ学校で、まあまあ仲もよかったんです。だから、彼女が考えそうなことも、それなりにわかるつもりでいたんですけど……。一つだけ、今もわからないことがあるんです」
そう言うと、翔は無言のまま陽太へと視線を送った。
「佐伯は、瑠璃川のことを嫌ってたんでしょうか」
「……どうだろうな」
「先輩には、どう見えてました?」
「俺には、わからない。高校時代の二人を、俺はほとんど知らないからな」
「ですよね」
翔は少し笑った。
「佐伯は瑠璃川を嫌ってたのか、羨ましかったのか、それとも……憧れに近い感情をもっていたのか……。今となっては真相は藪の中、というわけですか」
翔はそう言うと、ふうと小さく息を吐いた。
「あいつ、自由に生きているように見られがちだったんですが、結構、周囲の人たちの顔色を伺う部分もあったんですよ。周囲が言うほど、自由気ままでもなかったというか……。まあ、たとえどんな背景があったにせよ、嫌がらせに加担してたのは事実ですから、言い訳はできないんですけどね」
翔が語る話は、もっともだった。
たとえどんな理由があろうとも、佐伯美羅がやったことに釈明の余地はなかった。
「でも、それを言うなら、仲間内の悪ふざけ的なものだろうとか、自分は受験勉強で忙しいからとか言い訳をして、佐伯たちの嫌がらせに対して見て見ぬふりをしてた俺たち周囲の人間にも、大いに責任がある。俺は、そう思ってます」
陽太は、翔の言葉にどきりとした。
――俺は、翔と同じ立場になったとき、何かができただろうか。
――佐伯を踏み留まらせることは、できたのだろうか。
思わず、自問自答する。
陽太と翔の間に、沈黙が流れた。沈黙に耐えられず、陽太は思わず見当違いな質問をした。
「佐伯のお姉さんは今、どこでどうしてるんだ?」
「詳しくは知りませんが、大手証券会社に就職して、バリバリ働いてるみたいですよ」
翔が、空を見上げた。
翔の視線が、真っ青な空に吸い込まれていくようだった。
*
「それにしても、二人の美羅ですか。モテモテの先輩にとっては、単なる恋人だった女性たちの名前なんでしょうけど、俺にとってはミラっていうと、やっぱり星しか思い浮かばないんですよねえ」
唐突な話だった。
しかし、天体観測が趣味である陽太には、その意味がすぐに理解できた。
「ああ、脈動変光星のミラか」
脈動変光星とは、膨張と収縮によって明るさを変化させる恒星だ。そのような脈動変光星のなかでも、くじら座のミラは、もっともよく知られている星の一つといっていいだろう。
「子供の頃、父親の天体望遠鏡で初めて見たミラの感動は、今でも覚えているよ」
まるで、生の脈動を繰り返すような星に、当時の陽太はそれまでにない不思議な感動を覚えた。そして、それがきっかけとなって、やがて陽太は天体観測の虜になった。
その延長で、中学、高校では当然のように天文部のドアを叩いた。
今にして思えば、大学生になった陽太が美羅という名に妙に惹かれたのも、潜在意識の中に、生まれて初めてミラを見たときの感動の記憶があった可能性は否定できない。
「先輩も、変光星が好きなんですか。奇遇ですね。俺も好きなんですよね、変光星。明るいときもあれば、暗いときもあるなんて、何だか光と闇を併せもつ人間の二面性に通じるような感じがしません? そういう怪しさ、惹かれますよね」
翔は陽太に向き直ると、思い出したように問いかけてきた。
「先輩、知ってますか?」
「何をだ?」
「ミラって、全天でもっとも有名な脈動変光星の一つですが、同時に連星でもあるんですよ」
連星とは、二つの恒星が重力で引き合いながら、互いの周囲を回っている、いわば姉妹のような星だ。
「二つのミラが脈動しながらお互いの周りを回ってるって、何か瑠璃川と佐伯って感じしません? なんて、先輩の前で言うのは不謹慎か」
高校時代に佐伯がおこなっていたことに弁解の余地がないとしても、あの殺人事件において、佐伯は被害者、瑠璃川はあくまでも加害者だ。それを連星に例えるなどという話は、確かに不謹慎極まりなかった。陽太は、翔に非難の目を向けた。
だが、不謹慎などと言いながら、翔は反省する様子も、取り消す素振りも見せないまま、会話をやめようとする気配はない。
「でも、少なくとも先輩にとっては、彼女たちは二人で一つの存在だったんじゃないですか? 美羅という一つの星……」
陽太は、思わず息を飲んだ。固く目を瞑り、唇を噛み締めた。
翔の言葉を、否定したかった。しかし、否定する材料は見つからなかった。
――俺の中では、二人の美羅は確かに“一人の美羅”だった。
――俺は自分でも気づかないうちに、二人の美羅を“一人の美羅”にしていた。
――瑠璃川美羅が佐伯美羅ではない事実から、無意識のうちに目を逸らし続けていた。
あの事件で心の奥深くに刻み込まれた傷に、再び鋭い刃物を突き立てられたような痛みを覚えた。
陽太はこのとき、翔に対して厳しい視線を送りながらも、自分が感じている不快感の本当の正体に気づきはじめていた。
陽太自身が感じていたのは、翔の意見が不謹慎でありながらも真実を言い当てているが故の、言い換えれば、陽太自身が後ろめたさを感じているが故の不快感だった。
翔の言葉が、陽太の胸に浸み込んで鋭い棘になり、心の奥底に否応なく鋭い痛みを生み出した。
陽太は、宙を見上げた。
――正解は、どこにあったんだ。
――俺は、いったいどうすればよかったんだ。
心臓が、大きく収縮した。思わず、シャツの左胸の辺りを、右手で掴んだ。
苦しさに耐えきれなくなった陽太は無理矢理、自分に言い聞かせようとした。
――きっと、翔の毒に当てられただけなのだ。
しかし、胸の苦しさが収まる気配を見せることはなかった。
翔は、そんな陽太の表情を注意深く探っている様子だったが、再び目を細めると突然、脈絡もなく一方的な提案を持ちかけてきた。
「もしよかったら、今から軽くお茶でもしませんか?」
翔の笑顔によって現実に引き戻された陽太は、つくり笑顔を翔に向けた。いや、果たして、笑えていたのだろうか。
「いや、これから事業の協力者である企業の会議に行かなきゃならないから、時間がないんだ。申し訳ない」
「そうですか。残念です。じゃ、俺はお先に失礼しますね」
翔はそう言うと、言葉とは裏腹に、残念そうな素振りの欠片も見せないまま踵を返し、立ち並ぶ墓石の間に歩を進めはじめた。
瞬間、陽太は孤独な世界に一人で取り残されたかのような不安を覚え、翔の背中に心の中で問いかけた。
――俺は、いったいどうすればよかったんだ。
聞かずにはいられなかった。藁にも縋りたい気持ちだった。
先輩としての意地や建前などは、気がつくと消え失せていた。
だが、翔は立ち止まろうとする気配を見せない。
思わず追いかけようとしたとき、二人の間を一陣の風が吹き抜けた。
吹きつける砂埃に、思わず目を瞑る。
顔に襲いかかる砂を右手で避けながら、それでも前に進もうとしたが、予想を上回る砂の粒が視界を遮り、前進の邪魔をした。
その間にも、翔の後ろ姿は、薄茶色に霞んだ空気の中に溶けていく。
そのとき、砂埃の向こうから、翔の声が聞こえた気がした。
――誰が何をどうすればよかったのか……。正解なんて、あったんですかね。
陽太を突き放す声のようでもあり、翔自身が自問する声のようでもあった。
そして。
風が止んだときには、すでに翔の姿は見えなくなっていた。
陽太は無言で立ち竦んだまま、翔が立っていたはずの空間を見詰めた。
林立する墓石の上には、まるで今しがた目の前で起こったこできごとが幻覚だったかのように、いつもと変わりのない一面の青空が広がっている。
雲一つない、透き通るような三月の空だった。
陽太は、なす術もなく春空を見上げた。
溢れる涙が、砂埃に汚れた頬を、ゆっくりと流れ落ちていった。
(了)




