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十一、苛め
それは、瑠璃川美羅が高校一年生のときのことだった。
高校に入学して、すでに二ヶ月がたっていた。
だが、瑠璃川には未だに友人と呼べる同級生はいなかった。
原因は、はっきりしていた。
瑠璃川がもともと、人間関係に臆病であるせいだった。
仲よくなれそうな同級生が現れても、心を開くことが何となく恐ろしく、一線を引いてしまう。友人候補は、やがてその一線に気づき、少しずつ瑠璃川から遠ざかっていく。
――同じことを何度、繰り返してきただろう。
小学生や中学生のときも同じだった。
――同じことが、同じように繰り返されているに過ぎない。
瑠璃川はその状況を、当然のこととして受け入れた。余計なことを考えて、ストレスを感じるのは、ご免だった。
――考えなくてもいいことについては、考えない。
――何も考えずに受け入れてさえいれば、ストレスはない。
そう思った。
*
その日も瑠璃川は、昼休みの教室で窓際の自分の席から、窓の外を眺めていた。
教室内の喧騒は、自分とは遠く離れた世界のできごとだった。
瑠璃川は、学校生活とは関係ないことを無理矢理に考えた。
――洗濯物が溜まってるから、家に帰ったら洗濯しなきゃ。
――今日の晩ご飯は、何をつくろうか。冷蔵庫には、何があったっけ。
そのとき、一人の人物の影が、机の上に落ちた。
顔を上げると、ショートボブが似合う整った顔が、瑠璃川を覗き込んでいた。
「ええと、あなたは……」
佐伯だったろうか、それとも、高木?
名前が、とっさに思い浮かばない。
「私、佐伯だよ。もう二ヶ月たつのに、まだクラスメイトの名前を覚えてないの?」
佐伯は、呆れた様子で、瑠璃川の前の席に後ろ向きに座った。悪戯っ子のように無邪気な笑顔が弾ける。このような笑顔を、きっと世間では可愛いというのだろう。
柄にもなく、どきりとした。
「ええと……」
答に窮していると、待ち切れなくなったのか佐伯が自ら口を開いた。
「あなたのこと、何かすごく気になっちゃってさあ。せっかくだから、仲よくなろうよ」
随分、漠然とした理由だった。だが、その日以来、瑠璃川は校内にいる間の少なからぬ時間を、佐伯と共に過ごすようになった。
最初はそっけなく反応するだけの瑠璃川に佐伯が纏わりつくという構図だったが、気がつくと佐伯がいないときに寂しさを感じるようになっている自分がいた。
瑠璃川は、屈託なく自由に生きている佐伯の姿に、憧れにも似た感情を抱いた。
佐伯と一緒に帰路につきながら、他愛のない日常会話を交わす時間ほど、幸せな時間はなかった。
だが、残念なことに男子生徒の間で非常に人気が高かった佐伯は、瑠璃川とではなく、男子生徒とともに帰る日も多かった。
「ごめん、瑠璃川。昨日、サッカー部の男子から告られちゃってさあ。今日はその男子の部活が休みだから、一緒に帰らなきゃなんないんだ」
そう言われると、一抹の寂しさを感じながらも、拒否することはできない。
「うん、わかった」
瑠璃川は寂しさを押し殺し、笑顔で答えるのが常だった。
当初、瑠璃川は佐伯の人気の秘密は、彼女の見た目の美しさにあると思っていた。だが、つき合いが長くなるにつれて、それだけではないことがわかってきた。
佐伯は、とにかく男性を惹きつける能力に長けていた。
男性を、ほとんど本能的ともいえる優れた観察力と分析力で解析した後、その男性が望む通りの、いわば理想の女性を演じて見せることができるのだ。
わかりやすく言うと、あざとい女とでもいうのだろうか。
しかし、これも生まれもった才能なのか、そのあざとさは適度にオブラートに包まれていて、男性にとって決して不快ではないらしかった。
地味で勉強以外にこれといった取り柄のない瑠璃川は、佐伯の立ち居振る舞いの完璧さに感服するしかなかった。
*
それは一年生の秋、体育祭を一ヶ月後に控えたある日のことだった。
ホームルームの時間に、体育祭の応援団を決める投票がおこなわれた。
応援団は、毎年クラスごとに三名ずつ選ばれることになっている。
常識的に考えれば、スポーツが得意な生徒や、何事にも積極的な生徒が選ばれるはずだ。そう考えていた瑠璃川は、開票作業に興味をもてるはずもなく、窓の外を眺めていた。
「瑠璃川さん、瑠璃川さん……」
ふと、教室内に意識を戻すと、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
何か用事があって呼びかけられているのかと思い、教室の前方にある黒板の方向に何気なく目を遣る。
すると、瑠璃川という名の下に正の字が並んでいる様子が、目に飛び込んできた。
一瞬、何が起こっているのか、理解できなかった。
時間とともに、少しずつ事態が飲み込めてきた。瑠璃川が、今まさに応援団員に選ばれようとしていた。
――まさか、何で?
自分が応援団に適任であるとはとても思えないし、クラスメイトが自分をそう評価しているとも思えない。
――何かの間違いでしょ?
そう思っている間にも、瑠璃川の下の正の字は、どんどん増えていく。
恐らく「自分はやりたくない」という大多数の生徒の意思が、無意識のうちに瑠璃川に票を集めさせているのだろう。そうとしか思えなかった。
瑠璃川は、クラスメイトたちを恨んだが、後の祭りだった。ほどなくして、瑠璃川と他の二名が、応援団に選ばれた。
信じられなかったし、納得がいかなかった。帰宅後に家事をする時間が削られてしまうのも、嫌だった。
だが、決まった以上、やらないわけにはいかない。
次の日から、瑠璃川は放課後になると体操服に着替え、体育館に通うのが日課になった。
スポーツ全般が苦手な瑠璃川にとって、応援団の全体練習は、苦痛以外の何物でもなかった。何しろ、他の人がいとも簡単にこなす動きが、瑠璃川にはできないのだ。
なす術もなく立ち竦んでいると、後ろから声が聞こえた。
「大丈夫?」
振り向くと、一人の男子生徒が立っていた。体操服のワンポイントカラーが青色であることから考えると、瑠璃川の一学年先輩にあたる、二年生なのだろう。
胸の刺繍で白石という名であることを知った。
「ここの動きは、もっと足を開いて下半身を安定させると、見栄えがよくなるよ」
白石先輩は、慣れない動きに戸惑う瑠璃川に対して、一つ一つ丁寧なアドバイスをくれた。
ときには、目の前で手本を示してくれることもあった。その動きは、他の生徒の誰よりも美しく、切れがあった。
「先輩、凄いですね」
先輩は汗を拭いながら「ありがとう。お世辞とはいえ、嬉しいよ」と謙遜した。
「去年も応援団をやったから、他の人よりは多少、要領がわかってるかも。でも、それだけだよ」
その後も、先輩は瑠璃川の一挙手一投足に気を配り、心配そうに言葉をかけてくれた。
そんなことが何日も続くうち、気がつくと瑠璃川は、先輩に対して特別な感情を抱くようになっていた。
だが、二人の関係は、あくまで同じ応援団の団員という繋がりでしかなかった。体育祭が終わると、当然のように元の他人どうしに戻った。
勉強以外、とくに他人に誇れる能力がない瑠璃川にとっては所詮、先輩は高嶺の花だった。
――元に戻っただけだ。
そう自分に言い聞かせようとしたが、感情は理性だけで簡単にコントロールできるはずもない。
先輩に対する淡い恋心を持て余した瑠璃川は、ある日、信頼できる唯一の友人といってもいい佐伯に、先輩に対する思いを吐露した。
「二年二組の白石先輩がどうしても気になっているんだけど……。どうしたらいいのかな?」
話を聞いた佐伯は、眉間に皺を寄せた。
「ああ、白石先輩ね。私も知ってるけど、瑠璃川とは合わないんじゃないかなあ。あ、別に意地悪で言ってるんじゃないよ。ただ、何となくというか……。私、わかっちゃうんだよね、そういうの。知り合いの二年生にちょっとだけ聞いたことがあるんだけど、そもそも白石先輩、年上の女性にしか興味がないらしいし」
佐伯は、瑠璃川の手を取ると、娘の行く末を心配をする母親のように、深刻そうな表情になった。
「悪いことは言わない。冷静になって考え直したほうがいいよ。私、瑠璃川の悲しそうな顔を見たくない」
――瑠璃川とは合わないんじゃないかなあ。
もし、これが他の人物の言葉だったら、鼻で笑いながら聞き流していたことだろう。だが、信頼して止まない佐伯が口にする言葉には、確かな説得力があった。
もちろん、それなりにショックを受けた。とはいえ、そのショックは思っていたよりも小さいものだった。
所詮、高嶺の花だったのだし、そもそも自分が、そのような大人びた恋愛観をもっている男性と上手く渡り合えるはずはない。そう思って、自分を納得させた。
「そうなんだ。佐伯さんがそう言うのなら、諦めたほうがいいのかもしれないね。ありがとう、佐伯さん」
こうして、瑠璃川の恋は一切、進展を見せることもなく、あっけなく終わった。




