12
九、回想五
陽太が、小学校四年生のときのことだった。
その日、夕食を終えた陽太は、自分の部屋で宿題をしていた。
寒い夜だった。
本当ならエアコンをつけたいところだったが、あいにく、ここ数日はエアコンの調子が悪い。そのため、取り敢えずといった感じで、足下に電気ストーブを置いて暖を取っていた。
――エアコン、早く直してくれないかな。
そのようなことを考えながら鉛筆を動かしていると、ドアのほうからノックの音が聞こえた。
嫌な予感がした。陽太は「今、宿題中」と不機嫌な声で答えた。
ドアが少しだけ開いた。
「ちょっといいか?」
声が聞こえた。
――やっぱり……。
予想通り、父親だった。
父親の声には、穏やかながらも、どこか弾むような響きがあった。陽太は、無意識のうちに、ほんの少しだけ眉をひそめた。
父親は、陽太が宿題中であることに気を使うでもなく、ゆっくりと部屋に入ってくると、もう一度言った。
「おい、陽太。ちょっといいか?」
陽太は机に向かったまま、仕方なく黙って頷く。
ここ数年、父親は病気がちで、ほとんどの時間を一階のベッドの上で過ごしていた。
詳しい病名は、よく知らない。
病気になった父親は、肌が以前よりも青白くなり、頬の肉が落ちた。その姿は、正直言って少し怖いほどで、時折、まるで影のように感じられることさえあった。
そんな父親だったが、最近は少しだけ症状がよさそうに見える日もあった。
――その父さんが今頃、部屋に入ってくるということは……。
――まさかと思うけど……。あの話?
そんなことを考える陽太の耳に、ややかすれ気味の父親の声が響いた。悪戯っ子が新しい悪戯を思いついたときのような、心持ち浮かれた声だった。
「星を見てみないか」
病気になる前までは、天気がいい日には必ずと言っていいほど聞かされていた、お決まりの台詞だった。
陽太は、自分の予想が的中したことに、少し落胆した。
思えば数日前、ベッドの上の父親は、母親に「望遠鏡は、どこに置いたっけ?」と尋ねていた。
――あれは、やっぱり今日の計画の準備だったんだ。
だが、小学校四年生にもなると宿題の量も増えるうえ、問題の難しさも三年生のときとは比べ物にならない。
――そんな宿題を、珍しく調子よく進められているときに、いきなり「星を見よう」だなんて……。
――ちょっとは、こっちの都合も考えてよ。
陽太は、父親がまだ元気だった、数年前を思い出す。
その頃の父親は、夜になるとベランダに出て星を眺めることを日課にしていた。
自慢の天体望遠鏡を大事そうに扱いながら、夜空を見上げる父親の姿を、陽太は今でもよく覚えている。
だが、正直なところ、陽太はその時間があまり好きではなかった。
「あの星の名前は、何だと思う?」
父親に聞かれるたびに考える。でも、そのようなことは夜空を見上げていてもわかるはずがない。
「うーん、わからない」
そう答えるのが、常だった。同じことが繰り返されるうち、真面目に答えるのも面倒になった。
おまけに冬は寒く、夏は蚊が多くて痒いだけだ。
しかも、観測は一度はじまると、父親が満足するまで終わらない。いつも、最低でも一時間は外にいなければならなかった。
そのせいか、いつからか「星を見に行こう」と言われると、気が重くなるようになっていた。
そんな父親も、病気になって以降、星空を見に行くことをほとんどやめてしまっていた。力が入らないのか、望遠鏡を持ち出すことさえしなくなっていた。
もちろん、父親の病気は、陽太にとって決していいことではなかった。
しかし、星を見なくてよくなったことに、少しだけほっとしている自分がいた。
その気持ちは、今も変わらない。
そんなことを考えながら顔を上げ、ドアの前に立っている父親の表情を見た陽太は、驚いた。
父親の顔に、薄い赤みが差していたからだ。まるで数年前に時間が戻ったのかと思うほど、元気そうに見えた。
父親の顔を見るまでは、宿題を言い訳に断ろうと思っていた。だが、そのような言葉を口にすることが、何だか申し訳なく思えてしまう。それほどまでに明るい笑顔だった。
思いのほか元気そうな父親の姿に、ちょっとだけ嬉しくなった陽太は、気がつくと「わかった。いいよ」と返事をしていた。
「でも、寒いから、十五分だけだよ」
父親は、嬉しそうに顔をほころばせた。
「それで十分だ」
その笑顔を見て、陽太の心の中にあった面倒臭さや腹立たしさといった気持ちは、どこかに消え去った。
*
陽太は、父親と一緒に部屋を出ると、廊下の突き当たりにあるドアに向かう。そこを出ると、ベランダだ。
「母さんには、言ってあるの?」
陽太が尋ねると、
「いや。母さんに言うと、絶対に反対されるから、言ってない。父さんと陽太だけの、秘密の観測会だ」
と、父親は答えた。
「しょうがないなあ」という言葉を飲み込んで、陽太は苦笑いをした。
気がつくと、父親の「秘密」という言葉に、少しだけワクワクしていた。
――普段なら怒られそうなことを、父さんと一緒にやるなんて。
ドアを開けると、冷たい夜風が頬を撫でた。思わず肩をすくめながら、ゆっくりとベランダに足を踏み出す。
外は月明かりに照らされ、辺りはいかにも冬の夜らしい静けさに包まれていた。
ベランダには、すでに望遠鏡がセットされ、陽太と父親を待っていた。
口径一五〇ミリのニュートン式反射望遠鏡だ。
その堂々とした姿に、陽太は不覚にも少しばかり感心してしまう。
「久し振りに出したから、ちょっと手入れもしておいたんだ」と、陽太を振り返りながら、父親は得意げに言った。
いつの間にと驚いている間にも、パジャマの上にコートを着込んだ父親は、嬉しそうに接眼レンズを覗きはじめる。
その横で陽太は、何気なく東の空を見上げた。
澄み切った冬の空に、オリオン座の一等星ベテルギウス、おおいぬ座の一等星シリウス、こいぬ座の一等星プロキオンが輝いている。
冬の大三角と呼ばれる三つの星だ。
プロキオンの左斜め上にはふたご座の一等星ポルックス、その上方にはぎょしゃ座の一等星カペラ、カペラより南寄りにはおうし座の一等星アルデバランも見える。
さらに、アルデバランの右斜め下で青白く光り輝いているのは、オリオン座のもう一つの一等星、リゲルだ。
どれも、父親が教えてくれた知識だった。
それにしても、と思う。
冬の東の空は、さながら一等星の見本市のようだった。
「おい。お前も、覗いてみろ」
父親の声が背中越しに聞こえた。振り向くと、父親が望遠鏡の接眼レンズを指差しながら、ニコニコと笑っていた。
「どんな星が見えるの?」
陽太は少しだけ興味を持ちながら、望遠鏡に近づいた。
接眼レンズを覗き込むと、色とりどりの光の煌めきが、突然、視野いっぱいに広がった。目の前には、肉眼では見えないような小さな無数の星たちが輝いていた。
――綺麗だ。
言葉にできない感動が胸に広がった。
今までも、何度か望遠鏡を覗かせてもらったことはあったが、いつも嫌々、形だけ覗くという感じだった。
そのため、正直なところ、望遠鏡の中にこんなに美しい景色が隠れているとは思ってもいなかった。
「真ん中に、明るいオレンジ色の星があるだろう。見えるか?」
横から、父親の声が聞こえた。
「うん、見える。でも、この星がどうかしたの?」
「その星はな、変光星といって、明るさが変わるんだ。一年よりもちょっと短いぐらいの期間で、縮んで明るくなったり、膨らんで暗くなったりする。不思議だろ?」
父親の声には、無邪気な興奮が混じっていた。その声を聞きながら、陽太はまた接眼レンズを覗き込んだ。
オレンジ色の光は、星々の中でひときわ大きく、温かい光を放っていた。まるで、夜空にぽつんと浮かぶろうそくの明かりのようだった。
「今は、一番明るい時期だから、三等星ぐらいの明るさだ」
「暗くなったときは、どれくらいの明るさなの?」
陽太の質問に、父親は少し考えながら答えた。
「そうだなあ……。九等星か十等星ぐらいになるかな」
――九等星か十等星?
それがどれくらいの明るさなのかは、よくわからない。でも、とにかく、すごく暗くなるということだけは、何となく理解できた。
「暗くなったとき、また見てみたい」
自分でも意外だったが、そう言葉にしたのは本心だった。
「九等星ぐらい暗いと、見つけるのはかなり難しいぞ」
父親は少し笑いながら答えた。
「うん、それでも、見てみたい」
陽太の返事を聞いて、父親はふっと微笑んだ。
「よし。じゃあ、半年後に父さんの体調がよかったら、また見てみよう。夜明け前になるけどな」
「うん、約束だよ」
澄み切った夜の空気に冬の空の静けさが浸み込み、陽太と父親を優しく包み込んだ。
*
しかし……。
――半年後に父さんの体調がよかったら、また見てみよう。
その約束は、叶わなかった。
あの夜から四ヶ月後、父親の容態が急変した。
そして、そのまま帰らぬ人となった。
――僕は、大切な人を失った。
父親が亡くなった後、陽太は何度か、ベランダに出て望遠鏡を覗いてみた。
望遠鏡から覗いた円形の視野の中で、あのとき父親と一緒に見た星空が、あのときと同じように輝いていた。
だが、父親が教えてくれた変光星は、結局、見つけることはできなかった。
明るく輝いていたオレンジ色の光は、もうどこにもなかった。
気がつくと、涙が頬を伝っていた。
*
そんなできごとから、ずいぶんと時間がたった。陽太はいつしか、天体観測の魅力にとり憑かれていた。
そして今でも、天体望遠鏡を覗くたびに、あの日、接眼レンズ越しに見えた美しい星空と、父親の嬉しそうな顔を思い出す。




