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八、回想四


 その日、ユーフラテス川の近くにある湖のほとりを歩いていたシリアの女神デルケトは、不注意にも湖に落ちてしまった。

 原因は、不意に吹いた風だったろうか。あるいは、ぬかるんだ地面に足を滑らせたのだろうか。

 デルケトには、わからなかった。

 ――取り敢えず、助けを求めなければ。

 そう考えたデルケトは、助けを求めた。

 が、周囲に人影は見当たらない。

 当然、助けてくれる人はいなかった。

 諦めかけたとき、湖の中から一匹の大きな魚が現れた。

 その魚は、何一つ躊躇う様子を見せず、デルケトを背中に乗せた。

 そして、そのまま水の中を力強く泳ぐと、デルケトを岸まで運んでくれた。

 こうして、デルケトは命を落とさずにすんだ。

 デルケトは、精一杯の感謝の意を示した。

 しかし、それが理解できたのか、できなかったのか。

 魚は、何事もなかったかのように、沖へ向かって泳いでいくと、見えなくなった。

 このできごと以降、シリアの人々は魚を食べる習慣をやめた。

 そして、デルケトを助けた魚は、みなみのうお座になった。また、その魚の子孫である魚たちも天に上げられて、うお座になった。


          *


 三月に入ってからというもの、陽太は会社説明会への出席やOB・OG訪問などの就職活動で、忙しい毎日を送っていた。スマートフォンのスケジュールアプリは、就職活動に関連する行事で埋め尽くされていた。

 多忙を極める日々のなかで、今日と明日は珍しく、スケジュールに空白ができた。

 ――久しぶりに、ゆっくりできそうだ。

 休日の初日、就職活動という現実からの束の間の逃避を決め込んだ陽太は、ローテーブルの横に座って天文雑誌を眺めていた。すると、キッチンから顔だけを覗かせながら、美羅が微笑んだ。

「知ってる? 今日、駅前のコンビニで新商品のスイーツが発売されたの。後で一緒に買いに行かない?」

 陽太が家でくつろいでいることが、よほど嬉しかったのだろう。

「ああ、じゃあ、昼ご飯食べたら、行ってみようか。近くの書店で、買いたい本もあるし」

 いつも通りの、陽太と美羅の日常だった。


          *


 次の日の朝、洗面台で顔を洗っていた美羅が突然、思いついたように陽太を振り向いた。

「もうすぐ、陽太の誕生日だね」

 言われて、初めて気づいた。

 陽太は、うお座の三月十八日生まれだ。就職活動に追われてすっかり忘れていたが、誕生日は一週間後に迫っていた。

「やっぱり、忘れてたんでしょ。うお座の人って、天然キャラっていうけど、笑っちゃうぐらい当たってるね」

 そう言うと、美羅は比喩でも何でもなく、本当に笑った。

 思わず、羞恥心をテーブルの下に放置して立ち上がり、抱き締めたくなるほど、眩しい笑顔だった。陽太は、勝手な妄想に一人、顔を赤らめながら美羅を見詰めた。

 すると、美羅がタオルで顔を拭きながら提案した。

「今日も、就職関係の用事はないんでしょ。せっかくの休みだから、車で海に行ってみない?」

 今、思いついたような雰囲気を醸し出していたが、ひょっとすると昨日辺りから考えていたのだろうか。

 海に行くという提案にも驚いたが、車を使うという提案には、それ以上に戸惑った。

「でも、俺、免許持ってないよ。美羅は、持ってるの?」

 まさかと思いながら陽太が問いかけると、髪の毛を束ねたまま部屋に入ってきた美羅が、テーブルの横にある財布から、得意げに一枚のカードを取り出した。

 運転免許証だった。

 名前の欄には、確かに「瑠璃川美羅」と書かれている。

 陽太は、今この瞬間まで、美羅が運転免許証を持っている事実を知らなかった。

「大学に入ったばかりの頃に、頑張って取ったんだ。凄いでしょ」

 確かに、凄かった。

 同時に、免許証の名前を見たとき、ある思いが条件反射のように頭に浮かんだ。

 ――美羅。いつ見ても、素敵な名前だ。

 口に出すのは恥ずかしかったので、大袈裟に驚いて誤魔化した。

 陽太たちは、近所のレンタカー店で車を借りると、午前中に出発した。

 美羅には、運転のセンスがあるのだろうか。免許を取って以来、運転したのはほんの数回との話だったが、その事実が信じられないほどに、美羅の運転は手慣れたものに思えた。


          *


 海に着いたときには、まだ昼前だった。

 随分暖かくなったとはいえ、三月の海は、まだ冷たそうだった。砂浜で海を眺める人はいるものの、水に入ろうとする人は、ほとんどいない。

 だが、美羅は違った。

 砂浜に降り立つなり、モスグリーンのコートとスニーカーを脱ぎ捨て、砂浜へと一目散に駆け出していく。陽太が止める間もなく、濡れている砂に二十二・五センチの足跡を残しながら、白く泡立つ波打ち際に足を踏み入れた。

 足首の上まで海水に浸かった美羅は、まるで初めて海に入った子供のように、無邪気な笑顔を陽太に向けた。明らかに興奮していた。

「ねえ、陽太も来なよ」

 陽太は、天真爛漫な美羅の笑顔の前では、いつも無力だった。

「しょうがないなあ」

 そう言いながら苦笑いをすると、誘われるがまま波打ち際まで歩を進める。しばらくの間、美羅とともに寄せては返す波と戯れた。

 その後、二人はビーチサイドのカフェでお茶を飲んだり、砂浜の外れにある小さな海蝕洞の周囲を歩き回ったりして楽しいひとときを過ごした後、再び砂浜に戻った。

「あ、これ、綺麗!」

 美羅の声に振り向くと、彼女の手の中に透明な石が見えた。シーグラスだった。

 美羅の手の中にあるガラスの欠片が、やや傾きはじめた太陽の光を受けて、宝石かと見紛うほどにキラキラと眩しく輝いた。

 美羅は、サイダーの泡のように薄い青色に光るシーグラスを陽太に手渡すと、間断なく押し寄せる波を気にすることもなく、その場にしゃがみ込んだ。

「もっとたくさん拾って、今日の思い出にしようよ」

 美羅が、砂浜の石をさらに数個、拾い上げながらそう言った、次の瞬間。

 一際、大きな波が押し寄せた。

 美羅は「きゃっ」と驚きの声を上げながら、波から逃げるように陽太に手を伸ばした。陽太は、思わず美羅の手を強く掴んだ。

 思った以上に強い力で引っぱられ、不覚にもよろけた。美羅を支えきれなくなった陽太は、そのまま美羅とともに波打ち際に尻餅を突いた。

 小さな引き波が、二人の尻の下にある細かな砂を洗っていった。

「あーあ、お尻、濡れちゃったね」

 美羅は、悔しそうに声を上げながら立ち上がると、ジーンズの尻の部分についている濡れた砂を、両手ではたいた。

「コンクリートにでも座って、乾かそうか」

 陽太と美羅は、人影まばらな砂浜の外れにある防波堤の端に、持参していたバスタオルを敷くと、その上に腰かけた。

 美羅と並んでコンクリートの上に座り込んだ陽太は、少しずつ水平線に近づいていく太陽を眺めながら、考えた。

 ――このまま、地球の自転が止まってしまえばいい。

 自転が止まると一日の長さが一年になってしまうため、本当は止まってもらうと困る。しかし、今ならそれも許せてしまいそうなぐらい幸せだった。

 美羅が、陽太の肩に自分の肩を預け、空を見上げた。

 そのとき、陽太の頭にふと一つの疑問が浮かんだ。

 今まで当然のこととして受け入れるあまり、確かめてみようと思ったこともなかった、素朴で小さな疑問だった。

 陽太は、傍らで陽太に体を預けている美羅の横顔に尋ねた。

「美羅のお父さんやお母さんは、なぜ君に美羅って名前をつけたんだろう?」

 美羅は一瞬、驚いた様子で、陽太の顔を見返した。そして、ゆっくり俯くと、小さく含み笑いをした。

「今更、そんなこと聞くの? 変な陽太」

「どうでもいいといえばそうなんだけど、ちょっと珍しい名前だよね。そういえば今まで、理由を聞いた記憶がなかったなと思って」

 美羅は、改めて陽太を正面から見据えた。その目には、恥ずかしそうな、それでいて嬉しそうな気持ちが見え隠れしていた。

「アイドルの坂井美羅、知ってる?」

「ああ。もちろん、知ってるよ」

 今から二十年ほど前、短い期間ではあったものの、一世を風靡したアイドル歌手だった。確か、その後はヒット曲にあまり恵まれることなく、演劇関係者と結婚して引退してしまった気がする。

「私が生まれた年、デビュー二年目の彼女が大ブレイクしたの。お母さんが言うには、社会現象に近い盛り上がりだったらしいよ。で、私の名前は、その坂井美羅にちなんでつけたんだって。お母さんが言ってた」

「そうなんだ」

 聞いてはみたものの、その回答に対する気の利いた返事を考えていなかった。陽太は、どう返事をしていいかわからないまま、オレンジ色に染まった美羅の横顔を見詰めた。

 そんな陽太の視線に気づくでもなく、美羅はやがて腰を上げた。

「そろそろ、車に戻ろうか」

「そうだね」

 美羅の言葉に、陽太が腰を浮かせたときだった。

 何の前触れもなく、背後の山から海に向かって、一陣の風が二人の間を吹き抜けた。

 夕刻の訪れを告げる陸風だったかもしれない。

 二人が立ち上がったことで、その場に留まる手段を失ったバスタオルは、風に煽られて数メートルほど舞い上がる。そのまま、防波堤の外側に落下すると、波打ち際にあるコンクリート製の突起に引っかかった。

 慌てて駆け寄った美羅は、防波堤の外れに膝を突いて、タオルを拾い上げようと手を伸ばした。

「あっ」という小さな声が聞こえた。その声とともに、美羅の体がゆっくりと傾き、防波堤の向こう側に消えた。

 続いて、水しぶきとともに大きな着水音が周囲に響いた。

「美羅!」

 陽太は叫びながら、慌てて防波堤の端に駆け寄った。

 防波堤の先に目を遣ると、美羅が水面でもがいていた。

 生きた心地がしなかった。

 陽太は羽織っていたパーカーを脱ぎ捨て、半ば本能的に、海に飛び込んだ。

 三月の海は、思った以上に冷たい。足だけ浸かっているときには気づかなかった、痺れるような冷たさが全身を包み込んだ。

 だが、ここでひるんでいる訳にはいかない。陽太は、懸命に水をかき、美羅に近づいた。

 半ばパニックになっていた美羅は、全身を激しくくねらせながら、両手で無秩序に水面を叩いていた。

「落ち着くんだ! 力を抜いて!」

 陽太の声に、美羅の動きが若干、緩やかになった。

 その隙を見逃さず、陽太は美羅の体に左手を回し、右手で懸命に水をかく。数メートル離れた場所にある階段に辿り着くと、美羅の手を階段にかけさせ、下から体を押し上げた。

 陽太は、美羅に続いて階段から這い上がった。

 美羅は、階段の上で地面に両手を突いたままうずくまり、肩で息をしていた。

 ――よかった……。

 美羅の上半身を起こすと、思わず正面から抱き締めた。

 美羅は、陽太の肩に腕を回して「ごめんなさい」と声にならない声を上げながら、泣きじゃくった。

「大丈夫、もう大丈夫だから」

 ――無事でよかった。

 美羅が、この上なく愛おしかった。

 そして、思った。

 ――もう、大切な人を失いたくない。


          *


「君たち、大丈夫か!」

 声に振り向くと、一人の男性が、心配そうに二人を覗き込んでいた。

 茶色いセーターの上に青色の法被を羽織った、四十歳代半ばくらいの男性だった。

 法被の襟には「青海荘」と書かれている。恐らく、近くの旅館の関係者なのだろう。

「はい、大丈夫です」

 陽太が力なく答えると、男性は「それはよかった」と安堵の表情を見せた。

「だが、そのままってわけにはいかんだろう。ついてきなさい」

 陽太と美羅はゆっくりと立ち上がり、先導する男性の後ろを歩きはじめた。

 その後、二人は男性が働いている旅館に連れていかれると、男性の好意により、温泉を無料で使わせてもらった。

 そして、乾燥機にかけた服が乾くまでの間、ちょっとした軽食と説教を頂戴し、帰路についた。

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