3 夏の日の1993
ラジオから「夏の日の1993」が流れはじめ、車内の空気が少しだけ甘く揺れた。
「そういえば、水着はどんなのにしたの?」
「すっごいの。鼻血出ちゃうかもね」
彼女は得意げに言った。
昨日の夕方、急に「水着買いに行く」と連れ出されたのだ。僕は試着室の前で待ちぼうけになり、彼女は二十着ほどを抱えて何度も出入りしていた。その間、辞書なしで読むペイパーバックにしがみついていたが、英語の難しさよりも、彼女の試着に付き合うほうがよほど苦痛だった。
試着室の奥からは「トップの位置が」「この色がもうちょっと」「紐の感じが」と細かな注文が途切れなく聞こえてきた。結局、気に入ったものがないようだったが、会計を済ませていたので何かを買ったのだろう。どんな水着にしたのか、僕は確認しなかった。
彼女の買い物に付き合うと、僕はいつも待ちぼうけになる。僕は買う物を決めてから店に行くタイプで、選ぶ過程そのものを楽しむ彼女の感覚を理解するには、ずいぶん時間がかかった。最近はもう、あきらめの境地に達している。
この夏は毎日のように一緒にプールへ行っていたのに、いまさら水着を買う理由がわからなかった。
「去年の水着も結構きわどいビキニじゃなかった?」
「あれは失敗だったの」
「なんで?」
「黒って、なんかイヤな女のイメージっぽくない?」
「そう?」
「それにサイズが合ってなかったの」
「ふうん」
僕にはどうにも理解できなかった。
車は海沿いを西へ向かい、真鶴のあたりを走っていた。蒲鉾屋のおばちゃんが言っていたように、時折高い波が道路を叩き、バシャーン、と大きな音を立てて水しぶきが跳ねた。
助手席で窓を開けていた彼女は、そのたびに小さく肩を震わせた。
「窓しめた方がいいんじゃない?」
「でも、海からの風が気持ちいいの」
「波が来てもしらないよ。直撃したらビショビショだよ」
「大丈夫よ。そんな簡単に直撃するわけないじゃない」
バシャーン。
フロントガラスのすぐ前で波が跳ねた。彼女はキャーと声をあげて頭をかがめ、その姿がおかしくて笑ってしまった。それでも彼女は窓を閉めようとはしなかった。頑なに拒むというより、何かを守るような仕草に見えた。
「そんなに海好きなの?」
「ううん。そういうわけじゃないけど……」
彼女は少しだけ言葉を探すように続けた。
「帰りは反対側だから、海が見えないでしょ」
その言葉は、ただのわがままではなく、“今この瞬間を逃したくない”という彼女の想いのように聞こえた。
「確かに」
「車の助手席で海沿いを走るって、初めてなの」
彼女は窓から入る風に髪を揺らしながら言った。
「こういうのって憧れてたの。好きな人の車の助手席で海沿いを走るのって」
彼女が僕のことを「好きな人」と言うたびに、胸の奥が少し熱くなる。そんなふうに言える彼女が、ある意味羨ましかった。僕は「彼女」だとか「好きな人」なんて言葉を、まだ上手に口にできない。どうして彼女がそこまで真っ直ぐ言えるのか、僕はとまどってしまう。言葉にした瞬間、壊れてしまう気がしていた。
海風が車内を通り抜けるたび、彼女の横顔はどこか嬉しそうで、どこか寂しそうにも見えた。
♪ Chapter Playlist
Every summer has its own soundtrack. Here are the songs behind this chapter.
松田聖子「夏の扉」
TUBE「Beach Time」
class「夏の日の1993」
杉山清貴「渚のすべて」
B'z「太陽のKomachi Angel」
ラッツ&スター「め組のひと」
小泉今日子「渚のはいから人魚」
サザンオールスターズ「いなせなロコモーション」
More music is on the way.




