第五節「夜の宿」
宿に戻ると、ガルドが食堂にいた。
テーブルに水を置いて、一人で座っていた。
俺たちが入ってくると、顔を上げた。
「宿の周辺はどうでしたか」と俺は聞いた。
「東の路地に一人いた。
ユナが今朝言っていた裏手の男とは別の人間だ。
体格が違う」
「二人になった」
「少なくとも二人は確認できた。
三人目はまだ見えない。
商業ギルドの中にいるなら、外には出てこないかもしれない」
「今日の動きは」
「張っているだけだ。
こちらの行動を記録しているような動き方で、まだ何もしていない。
シドウの工房から出てきたリリアとお前が市場方向へ歩いたとき、追わなかった。
跡をつけるよりも、大まかな行動把握の段階だと思う」
「つまり、まだ本格的には動いていない」
「そうだ。ただ」
ガルドが腕を組んだ。
「こちらが日課を変えずに動いていることは、すでに相手に分かっている。
明日も同じ行動をすれば、明日の動きも読まれる。
日課そのものを変える必要はないが、細部は変えた方がいい」
「どういう変え方ですか」
「出る時間を少しずらす。
帰る経路を変える。
毎回同じ道を使わない。
小さな変化を積み上げれば、相手のパターン予測が難しくなる」
「分かりました。明日から意識します」
「お前さんは習慣を変えるのが苦手そうだが」
「そうでしょうか」
「毎朝同じ市場に同じ時間に行く人間だ」
「それは食材の質の問題があって——」
「分かっている。冗談だ」
ガルドがそんな言い方をするのは珍しかった。
疲れているときか、場が和んでいるときかのどちらかだ。
夕食の準備をしながら、今日一日のことを頭の中で整理した。
守護の最初の刻印。能動守護属性の発現。
ドレンの報告と残党の動き。
工房の錠前への識別刻印。
シドウが「誰かのために打ったことがなかった」と言ったこと。
それぞれが別々のことのようで、全部が繋がっている感覚があった。
守るということの意味が、今日一日で少し深くなった。
昨日までは守護という字を刻印に使うことを考えていた。
今日からは、守護するとはどういうことかを考えながら刻む。
その違いが、出てくる属性に反映される。
夕食は昼間のスープの残りに干し肉を足したものだった。
煮込まれてさらに旨味が増していて、昼よりも良かった。
「さっきより旨い」とガルドが言った。
「同じスープです」
「違う」
「時間が変えた分だけ違う。素材は同じです」
「そういうことか」
ユナが一口飲んで、短く「旨い」と言った。
それだけで十分だった。
食後、それぞれが部屋に戻った。
俺は自分の部屋で短剣の手入れをしながら、外の音を聞いていた。
テムザリアの夜は昼間より静かだが、完全には静まらない。
遠くで荷馬車が走る音、酒場の声、風が路地を抜ける音。
その音の中に、宿を張っている人間がいる。
気になるかといえば、なる。
しかし怖いかといえば、違う。
今の状況を脅威として認識しているが、恐怖として感じていない。
これがLv.4になってから変わったことかもしれない、と思った。
以前は未知の脅威に対して、どこかで萎縮する部分があった。
今は「対処できる」という確信が先に来る。
その確信の根拠は何かと考えると、守護の刻印のときと同じだった。
守りたいものがある。
守れるという意志がある。
その二つが揃っているとき、力が届く。
廊下を歩く音がした。
隣の部屋の方向だ。
足音が少し止まって、扉を叩く音がした。
「入っていいか」
ユナだった。
「どうぞ」
扉が開いた。
ユナが入ってきて、部屋の端の椅子に座った。
何かを話しに来たのか、ただいるために来たのかは、最初には分からない。
ユナはどちらのこともある。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
窓の外の音がしていた。
風が少し強くなっている。
秋の夜の音だ。
「今日、シドウのところへ行ったか」とユナが口を開いた。
「行きました。錠前に刻印を入れました」
「上手くいったか」
「上手くいきました。識別属性というものが出て、リリアさんが喜んでいました」
「リリアはいつも喜んでいる」
「嬉しいことに喜ぶのは、悪いことではないです」
ユナが少し間を置いた。
「シドウとは何を話した」
「守護の鎧のことです。シドウさんが「誰かのために打ったことがなかった」という話をしてくれました」
「それが、珍しかったか」
「珍しかったです。三十年の職人が、初めてのことを話してくれた」
「まことは、そういう話を聞くのが好きか」
「好きです。経験が長い人間の「初めて」には、重さがある。
初心者の「初めて」とは、全然違う」
ユナが少し考えるような顔をした。
「重さというのは」
「三十年かけてようやく来た初めてだから、です。
三十年の全部があって、その上に来た初めてだ。
俺が二十七年でたどり着いた初めてとは、密度が違う」
「まことの初めてに密度がないと言いたいか」
「そういう意味ではないです。ただ——」
「ただ、なんだ」
「シドウさんを見ていると、今の俺がまだ持っていないものがある、と思う。
技術ではなく、時間が人間に与える何かがある。
それが何かは、まだ言葉にできていません」
ユナが椅子の上で少し膝を抱えた。
子供のような座り方だが、ユナの場合は子供というより、考えるときの姿勢だ。
「わたしには分かるかもしれない」
「どういう意味ですか」
「わたしは、長い時間を持っている。何年生きているかは、自分でも正確には分からないが——シドウよりはずっと長い」
「そうですね」
「長い時間の中で、初めてのことがある。それは——」
ユナが少し止まった。
「それは」と俺は続きを待った。
「長ければ、初めてのことの一つ一つが、より重くなるとは限らない。
時間が長いと、慣れてしまう。何に対しても慣れてしまう。
だから「初めて」の重さは、長さではなく、その前に何を積み上げてきたかで決まると思う」
「積み上げた質、ということですか」
「そうだ。シドウが三十年で積み上げたものが、あの「初めて」の重さを作った。
まことが二十七年で積み上げたものが、まことの「初めて」の重さを作る。
長さではなく、何を積んだかだ」
俺はその言葉を、少し噛み締めた。
ユナが言うことだから、重さがある。
何百年かを生きてきた存在が「長さではなく質だ」と言う。
その言葉には、長い時間を経た人間にしか持てない確信がある。
「ありがとうございます」と俺は言った。
「礼を言われるようなことを言ったか」
「言いました」
ユナが少し首を傾けた。
納得しているのかいないのか、どちらとも分からない顔だ。
「明日も市場か」
「行きます」
「一緒に行く」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
ユナが立ち上がった。
扉を開ける前に、腕の月光銀の腕輪を一度見た。
それから俺を見た。
「今日の刻印、上手くいったと言っていたな」
「はい」
「守護の刻印のことだ。誰かの顔を思い浮かべながら刻んだか」
「……浮かびました」
「どんな顔が」
俺は少し間を置いた。
「ガルドさん、リリアさん、ユナの顔が浮かびました。順番に」
ユナが少し黙った。
「そうか」
それだけ言って、扉を閉めた。
廊下の足音が遠ざかった。
部屋の中が静かになった。
俺は短剣をしまって、横になった。
窓の外の風の音が続いていた。
宿を張っている人間のことは、今夜は考えないことにした。
今日は十分なことがあった。




