第六節「偵察の翌日」
翌朝、ユナが宿の扉の前で待っていた。
「早いですね」
「まことが遅い」
「いつもと同じ時間に出ました」
「俺が早かった」
ユナが先に歩き出した。
市場へ向かう道を、いつもと少しだけ変えた。
ガルドの言った「細部を変えろ」という話を意識して、一本隣の路地を選んだ。
遠回りになるわけではない。ただ、昨日とは違う道だ。
ユナは黙って隣を歩いていた。
いつもより少し寝覚めが良さそうに見える。
昨夜遅くまで起きていた様子ではなく、よく眠った顔だ。
「今日の食材は何にするか、考えていますか」とリリアが後ろから追いついて言った。
今日はリリアも一緒だった。
「秋は根菜が旨い季節です。煮込みか焼き物か」
「また根菜か」とガルドが言った。
「旬の食材には意味があります」
「お前はいつも食材に意味を見つける」
「料理は素材との会話です」
「またそういうことを言う」
市場に着くと、昨日より人が多かった。
十日に一度ある大きな市の日らしく、普段は来ない郊外の農家の出店が増えていた。
人が多い場所は、尾行をまくのには都合がいい。
見張りの人間も、この混雑では動きにくい。
俺は食材を選びながら、自然に周囲を確認した。
今日は視線を感じなかった。
昨日と経路を変えたことが効いているのか、あるいは見張りが今日は来ていないのか。
どちらか判断できないが、ひとまず問題はない。
ユナが一度だけ俺の袖を引いた。
振り向くと、ユナが少し前の方向に目をやっていた。
視線の先に、見慣れない男がいた。
三十代ほどで、商人の格好をしている。
ただ、手元に商談に使うような書類もなく、特定の方向を向いて立っている。
「昨日の男か」と俺は小声で言った。
「違う。今日初めて見る顔だ」
「三人目かもしれない」
「可能性がある」
俺は視線を戻して、人参を一本手に取った。
商人の男の方を直接見ずに、視野の端に入れたまま動きを観察した。
男は五分ほどそこにいて、それから市場を出た。
特定の誰かを追う動きではなかった。
大まかな確認をして去った、という感じだ。
「見られた」
「そうですね」
「毎日来るつもりだろうか、市場に」
「分からないです。ただ——」
「ただ、なんだ」
「俺たちが市場に来ることは、もう把握されている。
これ以上ここで確認することは、相手にはない。
次の動きがあるとすれば、工房か宿か、別の場所です」
ユナが少し考えた。
「シドウへの圧力を考えているかもしれない」
「それが一番効果的だと、相手も分かっているでしょう。
ドレンに今日中に知らせます」
食材を買い終えて、四人で宿に戻った。
宿の入口に、ドレンが来ていた。
約束はしていなかったが、ドレンにとっては合理的な動き方だった。
何か伝えるべきことがあれば、相手が動く前に来る。
「少し早い報告がある」とドレンは言い、一階の食堂の端の席に座った。
「何かありましたか」
「昨夜、三人のうちの一人が動いた。
商業ギルドの使用人として登録している男だ。
夜に街の南側の酒場に入って、二時間ほどいた」
「誰かと会っていましたか」
「一人の男と話した。
その男は、テムザリアの外から来た人間だ。
半月ほど前から街の近くに滞在しているが、名前が分からない」
「特徴は」
「四十代で、背が高い。
体格が良くて、傭兵上がりのような動きをしている。
顔の下半分に、何かを隠しているような印象がある」
俺の中で、何かが引っかかった。
「顔の下半分を隠している」
「仮面ではないと思う。ただ、顔のつくりが分かりにくい。
俺の同業者の見立てでは、変装の技術があると言っていた」
「ゼンかもしれない」とガルドが静かに言った。
ドレンが俺を見た。
「心当たりがあるか」
「可能性があります。ただ、確認できていません」
「その男が昨夜、影の商会の残党の一人と会った。
何を話したかは聞こえなかったが、残党の男が帰るとき、急いでいた。
何かの指示が出た、という動き方だった」
急いでいた。
指示が出た。
ドレンが「合図を待っている」と言っていた話が、現実になりつつある。
「いつ動くと思いますか」と俺は聞いた。
「今夜か、明日の夜。
残党が急いでいた理由が期日なら、その程度の余裕しかないはずだ」
「分かりました」
「こちらはどうするか」
「今夜、工房に泊まります。シドウさんに話して、工房の中で待ちます。
残党が動くとしたら、工房が最初の目標のはずです。
守護の制作を止めることが目的なら、素材か刻印師を狙う。
素材はシドウの工房にある。刻印師は俺だ」
「どちらかを取りに来る」
「どちらかを取るか、あるいは両方を人質として使う算段かもしれません。
どちらにしても、工房に来る確率が高い」
ドレンが頷いた。
「俺も今夜は動ける人間を二人出す。
表と裏を押さえてもらう。
何かあれば、合図を出してくれ」
「助かります」
ドレンが立ち上がった。
「ゼンという人間がいるとしたら、そいつが今夜動くかどうかで、話の性質が変わる。
残党の動きを使っているのか、あるいは俺たちと直接会いたいのか。
今夜の動き次第で、どちらか分かるだろう」
「そうですね」
ドレンが出ていった。
食堂に四人が残った。
ガルドが「今日の昼はどうする」と俺に聞いた。
「作ります」
「今夜に備えて、昼はしっかり食え」
「そうします」
「何を作る」
「根菜の煮込みです」
「また根菜か」
「今日の市場で良いものが取れました。今夜の前に、旨いものを食うのは悪くない」
ガルドが何も言わなかった。
否定しない顔だった。
ユナが一度、窓の外を見た。
テムザリアの朝の光が、石畳の上に伸びている。
「今夜が、動き始めの夜だな」とユナが言った。
「そうなるかもしれません」
「準備はできているか」
「できています」と俺は答えた。
今日の昼に旨い煮込みを食って、夜に備える。
それで十分だ。




