第四節「工房の鍵」
夕方、シドウの工房に戻った。
今度はリリアも一緒だった。
ガルドは「宿の周囲をもう一度確認してくる」と言い、別の方向へ歩いた。
ユナは宿に残ると言った。
職人区の路地は夕方になると人が減る。
昼間の賑わいが引いて、工房ごとに片づけの音だけが残る時間だ。
シドウの工房はその中でも遅くまで続いていた。
扉を開けると、炉の火がまだ高かった。
「来たか」
シドウが振り向かずに言った。
「来ました。もう一つ相談があります」
「なんだ」
「工房の錠前に刻印を入れさせてもらえますか」
シドウが手を止めた。
振り向いて、俺を見た。
「何があった」
「テムザリアに、影の商会の残党と思われる人間が動いています。
工房を狙っている可能性がある。
今日の午後、情報屋から話を聞きました」
シドウがしばらく黙った。
「シドウさんのことが心配というより」と俺は続けた。
「守護の制作中に工房を荒らされると、こちらの計画が止まります。
それが一番困る」
「正直なやつだ」
「嘘をつく理由がないので」
シドウが少し口元を動かした。
笑ったのか、呆れたのか、どちらとも取れる表情だった。
「分かった。やれ」
シドウが腰のベルトから錠前の鍵を外して、作業台に置いた。
「この錠前はワシが打った。
鉄の錠前で、並の刃物では壊せない。
刃物を使わない方法でこじ開けようとすれば、内部の仕掛けが折れる構造にしてある。
それでも刻印を入れる意味があるか」
「錠前を物理的に壊す以外の方法で、正当な理由のない人間が開けられなくなります。
複数の突破方法を全部塞ぐのが目的です」
「なるほど」とシドウは言い、錠前を渡した。
俺は錠前を手に取った。
シドウが打ったというだけあって、精度が高い。
表面に傷がなく、重量のバランスが均一だ。
素材の密度が均一なことが、持った感触で分かる。
何を刻むか、考えた。
「只」という字がある。
ただ、それだけ、という意味の字だ。
「ここに来る正当な理由がある者だけが通れる」という意味を込めれば、刻印として機能するかもしれない。
まず意志を固めた。
シドウ、俺、ガルド、ユナ、リリア——この五人が工房に来ることには正当な理由がある。
その関係を、頭の中で順番に確認した。
それから字を刻んだ。
「只」
錠前の側面に一文字入れた。
光が出た。
今朝の守護の刻印とは違う色だった。
金色でも白でもなく、銀に近い光が錠前の表面を走った。
「光の色が違う」とリリアがすかさず言った。
「意図した内容が違うからかもしれません」
「守護は金色に近くて、今のは銀色に近かった。
来る者を守るのではなく、来る者を選ぶという性質の違いが、色の違いに出た——とすれば、光の色が刻印の性質を示している可能性があります」
「次回から確認するようにします」
シドウが鑑定石を錠前に当てた。
「神話級。守護属性と、識別属性が出ている」
「識別属性」
「関係する者と関係しない者を区別する属性だ。今まで見たことがない」
「「只」一文字で識別属性が出るとは——」とリリアが手帳に書きながら言った。
「「ただ正当な者」という意味を込めたことで、識別という概念が属性として結晶化した。
刻印師の込めた意志が、それまでに存在しなかった属性を生み出す可能性があります」
「それは大げさではないですか」
「大げさかどうかは、今後の研究で分かります」
シドウが錠前を扉の金具に取り付けた。
鍵で施錠し、もう一度開けた。
問題なく開いた。
「俺は開けられた。お前も試せ」
俺が鍵で試した。開いた。
「リリアさんも」
リリアが鍵を受け取って、錠前に差し込んだ。回した。
鍵が動かなかった。
「開きません。合っているはずなのに」とリリアが戸惑った顔で言った。
「シドウさん、リリアさんをここに招待してもらえますか。
言葉で「来い」と言うだけでいいと思います」
シドウがリリアの方を向いた。
「来い」
リリアが再度試すと、今度はすんなり開いた。
「……本当に開きました」
リリアが錠前を見つめたまま、しばらく動かなかった。
それから手帳を取り出して、素早く書き始めた。
「意志が作動条件になる刻印。
物理的な鍵ではなく、刻んだ者が認識している「関係性」が判断基準になる。
シドウさんが言葉で招待したことで、その関係性が即時に更新された。
つまり刻印は固定されたものではなく、刻んだ者の現在の認識と連動して動き続けている——」
「リリアさん」
「はい」
「記録は宿に帰ってからにしてください」
「……そうします」
リリアが名残惜しそうに手帳を閉じた。
シドウが錠前を眺めながら言った。
「この技術が世に広まれば、鍵屋が困る」
「当面は広めません」
「それでいい。今は工房を守ることが先だ」
シドウが作業台に戻った。
「もう一つ聞いていいですか」と俺は言った。
「なんだ」
「守護の鎧は、誰のために打っていますか。
シドウさんの中で、誰かの顔を思い浮かべながら打っていますか」
シドウが手を止めた。
炉の音だけがしばらく続いた。
「……分からない」とシドウは言った。
「ワシは三十年間、誰かのために打つということをしてこなかった。
良いものを作りたい。それだけが動機だった」
「今回は違いますか」
「今回は——打ちながら、何かが違う気がしていた。
誰かの顔が見えるわけではない。
しかし、この鎧を着る人間のことを考えながら打っていた。
そういう打ち方を、今まで一度もしたことがなかった」
「それは、どういう感触ですか」
シドウがしばらく考えた。
「重い」とシドウは言った。
「責任が増える感触だ。
誰かのために打てば、その人間の命がこの鎧にかかることになる。
それが重い」
「でも、続けている」
「続けている」とシドウは言い、炉を見た。
「重いものを持って打つ方が、良いものができることが今回初めて分かった。
ワシにとっては、今回がそういう仕事だ」
俺はその言葉を、静かに受け取った。
シドウが次の素材に向かった。
夕方の工房の明かりが、金属の道具の上に落ちている。
「明日も来い」
「来ます」
工房を出ると、外の空気が冷えていた。
秋が深くなってきている。
テムザリアの夕暮れが、石畳の上に長い影を作っていた。
リリアが隣を歩きながら、珍しく手帳ではなく空を見上げていた。
「今日は色々なことがありましたね」
「そうですね」
「でも、一番印象に残っているのは——」
「錠前の話ですか」
「それも。でも、シドウさんの話の方です。
三十年間誰かのために打ったことがなかった人が、今回初めてそうしている」
「それが何か」
「深い技術を持った人間でも、まだ初めてのことがある。
それが、なんだかとても良かった」
リリアがそう言い、また手帳を開いた。
今度は何を書いているのか、俺には分からなかった。




