第六節「付与Lv.4の扉」
その夜、シドウの工房に一人で向かった。
夜の訪問は初めてだったが、工房の灯りがついていた。シドウはいつも遅くまで作業している。
扉を叩くと、すぐに開いた。
「なんだ、夜に来るか」
「少し話したいことがありました」
「入れ」
工房の中に、炉の残り火の温かさがあった。昼間の金属の匂いが、少し落ち着いた形で残っている。
「昨夜の話を聞いた」
シドウが作業台に腰をかけた。
「ゼンという男か」
「誰から聞きましたか」
「ガルドが寄ってきた。俺への報告だ」
「そうでしたか」
「お前のことを、ガルドは気にかけている。言葉が少ないが、その分行動が多い」
「ガルドさんらしいですね」
「で、話したいこととは何だ」
俺は少し考えてから言った。
「Lv.4になってから、刻印の手応えが変わっています。今日、廃屋で昨夜の刻印の痕跡を確認した時に——刻印を読む感覚が、以前と違いました」
「どう違った」
「字の意味だけでなく、字を刻んだ人間の気持ちが少し分かった気がしました。誰かが急いで刻んだとか、慎重に刻んだとか。そういう感触が、刻印に残っている」
シドウが少し目を細めた。
「それは鍛冶師が金属を読む感覚に近い」
「同じですか」
「同じではないが、近い。良い刀は、打った人間の意志が金属に入っている。それを読む職人は、どういう状態で、どういう気持ちで打ったかが分かる」
「言霊でも同じことが起きている」
「起きているんだろう。お前の力が深くなっている証拠だ」
「シドウさん、一つ頼んでいいですか」
「なんだ」
「実験をさせてください。俺が今から短剣に刻印を入れます。普通の刻印ではなく——さっき話した、気持ちを込めた刻印を。シドウさんが、その刻印を読んで、俺が何を気持ちとして込めたか当ててほしい」
「俺の鑑定眼と、お前の言霊力を試すということか」
「そうです」
シドウが少し考えてから、端材を一枚渡した。
「やれ」
俺は端材を受け取った。
何を込めるか、少し考えた。
ユナが昨夜言った言葉が頭にあった。
——来ると分かってたから。
あの言葉が、今日の一日を通じてずっと残っていた。信頼、という言葉でまとめてしまえば薄くなる。もっと具体的な、温かくて静かな何かだ。
「信じる」
俺は短剣ではなく、言葉を声に出してから、その意味を整えた。
信じる、の本質。疑わないことではなく、相手の存在をそのまま受け取ること。証拠がなくても、来ると思えること。それが、ユナの「来ると分かってた」だ。
意味が充填された感覚が来た。
端材に「信」と刻んだ。
光は出なかった。静かに、字が刻まれた。
シドウが受け取った。
いつもの確認の時間より、少し短かった。
「温かい刻印だ」
シドウが言った。
「温かい?」
「熱くない。穏やかに温かい。誰かを信じている時の気持ちだ。特定の誰かに向けて刻んだか?」
「向けました」
「名前は聞かない。ただ——これは、その誰かに伝わる刻印だ」
「伝わる?」
「この端材を持った者が、刻んだ人間の感情を受け取る。言霊の双方向性というのを、さっきガルドから聞いた。これがそれだ」
俺は少し驚いた。
「Lv.4で、そこまで来ていたんですか」
「気づいていなかったのか」
「双方向性という言葉は聞いていましたが、もっと先の話だと思っていました」
「お前の成長は速い。本人が気づくより先に、力の方が進んでいることがある」
「そうかもしれません」
「これを——」
シドウが端材をそのまま俺に返した。
「その誰かに渡せ」
「え?」
「刻んだまま持っておくのは、もったいない。届けてこそ意味がある」
俺は端材を持った。
小さな鉄の欠片に、「信」の一文字が刻まれている。
「……分かりました」
「いい刻印だった。今夜は帰れ。明日もいつも通りに来い」
「はい」
工房を出た。
夜の職人区が静かだった。
手の中の端材を見た。
シドウに言われた通り、届けた方がいい。でも、今夜ではない。
もう少し持ち歩いて、渡す時を考えよう。
「信」という字は、急いで渡すものではない気がした。
宿に向かいながら、テムザリアの夜空を見上げた。
星が出ていた。
第三巻を通じて、たくさんのことが動いた。シドウとの出会い、影の商会との戦い、ウルの妹の救出、廃屋でのゼンとの対話、石板の欠片。
全部が、一本の線に繋がっている。
その線の先が、まだ見えない。でも、延びている感覚はある。
「続く道」——石板の言葉の一つだった。道は続く、という意味だ。
今の俺には、その言葉が体感として分かった。
宿に着いた。
廊下を歩いていると、ユナの部屋の前を通りかかった。
明かりがついていた。まだ起きている。
俺は少し迷ってから、扉を静かに叩いた。
「なんだ」
ユナの声がした。
「一つ渡したいものがあります」
「入っていい」
扉を開けた。ユナが窓際に座って、外を見ていた。
「これ」
端材を差し出した。
ユナが受け取った。鉄の欠片を見た。「信」の一文字を見た。
少し間があった。
「刻んだのか」
「シドウさんに勧められて。渡す相手を思い浮かべながら刻んだら、その気持ちが伝わる刻印になりました」
「誰を思い浮かべた」
「ユナです」
ユナが端材を見た。
手のひらに乗せて、しばらく何も言わなかった。
「……温かい」
「シドウさんも同じことを言っていました」
「どういう気持ちで刻んだか、分かる気がする」
「どんな気持ちだと感じますか」
「信じる、という気持ちだ。でも——怖くない信じ方だ」
「怖くない?」
「信じることは怖い場合もある。裏切られるかもしれないという怖さがある。でも、これにはそれがない。ただ、信じているというだけの気持ちだ」
「そう感じてもらえて良かったです」
ユナが端材を指で触れた。
「わたしも——まことのことを信じている。言葉にしたことはなかったが、言えば言霊になるか」
「なると思います」
「では」
ユナが俺を見た。
「信じている」
その言葉が、部屋の空気の中に静かに置かれた。
言霊として届いたかどうかは分からない。でも、俺には届いた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ユナが、昼間俺が教えた言葉を使った。今度は音が少し整っていた。
「合ってます」
「練習した」
「一日で?」
「何度か声に出した。言葉は練習すると体に入る。まことが言っていた通りだ」
「俺は言霊についての話をしていたんですが」
「同じことだ」
「同じですね」
ユナが端材を握った。
「これは持っておく」
「もちろんです」
「大事にする」
「そうしてください」
俺は部屋を出た。
廊下が静かだった。
今夜はよく眠れる気がした。
力が整った。気持ちが整った。届けるべきものを届けた。
第三巻の旅が、静かに一区切りを迎えた。
残り二か所の隠し場所は、まだ確認できていない。ゼンの動きも続く。テムザリアの影の商会の残党も、まだどこかにいる。
でも——今夜は、それでいい。
旅は続く。道は、まだ延びている。
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第四章「石板の果て」 了




