第三節「灯りのない廃屋」
林に入ると暗さが増した。
月の光が木の葉で遮られる。足元の根が見えにくい。それでもユナは迷わず進んだ。暗い場所での視力が俺より高い。俺はユナの動きを追いながら走った。
「あそこだ」
ユナが小声で止まった。
木の間から、石造りの建物が見えた。廃屋だ。窓ガラスが割れていて、壁の一部が崩れている。長年放置された建物の形をしている。
明かりはない。
「ガルドさんたちは?」
「気配がある。建物の裏手だ」
ユナが林の中を回り込んだ。俺も続いた。
建物の裏に着くと——
リリアが木に背中を預けて立っていた。
立っていた、というより、木に体を預けて動けない状態に近かった。足元が定まらない。魔力が切れたような、消耗した状態だ。
「リリアさん!」
「……木下さん」
リリアが顔を上げた。顔が青い。
「ガルドさんは?」
「中に——」
リリアが建物の方を見た。
「ガルドさんが中に?」
「私が入ってしまったんです。分かっていたのに、中から声が聞こえて——」
「声?」
「古代の言葉でした。石板で研究していた言葉の、別の読み方。あの音が聞こえた瞬間に、引き寄せられるように……」
リリアが目を伏せた。
「罠だと分かってから気づいたのでは遅かった。ガルドさんが私を庇って中に入ってくれました。私だけ外に出られたんです」
「ガルドさんが庇って——」
「扉が閉まりました。中から閉まった。鍵ではなく、刻印で固定されています。外から開けられない」
「何人いますか、中に」
「四人か五人。それと——」
リリアが少し躊躇した。
「仮面の男がいます」
ゼンだ。
俺は建物を見た。明かりのない廃屋が、夜の中に立っている。
「ガルドさんは怪我をしているか」
「扉が閉まる直前に声が聞こえました。大丈夫だ、出ろ、という声でした。怪我はしていないと思います」
「今も中にいる」
「いると思います」
「扉を開ける方法は?」
「刻印で固定されているなら、木下さんの言霊で解除できるかもしれません。でも——中からも刻印が重ねて使われていたら、一回では難しい」
「試してみます」
俺は建物の正面に向かった。
ユナが俺の隣に来た。声を出さずに、目で問いかけた。先に行くか、という意味だと読んだ。
俺は頷いた。
正面の扉の前に立った。
古い木の扉だ。金具はついていない。見た目には普通の廃屋の扉だ。でも——扉の縁に、薄く黒ずんだ線が走っている。刻印の痕跡だ。
手を触れずに、近づいて確認した。
字の形が分かった。
「結」という形に近い。「縛る」という意味の古代刻印だ。リリアの研究資料で見たことがある。
「解ける」
俺は静かに言った。
力を込めた。刻む前に意味を整える——シドウに教わった方法で。縛りが解ける、という意味の本質を、言葉に込めた。
扉の縁の黒ずみが、わずかに薄くなった。
でも、消えなかった。
「一重じゃない」
「重ねて刻まれていますか」
「二重か三重です。一度の言霊では届きない」
「何度でも言えるか」
「試してみます」
「止まれ」
建物の中から声がした。
静かな声だ。怒鳴らない。でも、よく通る。
扉が内側から開いた。
仮面の男が立っていた。ゼンだった。
灰色の外套に、顔の上半分を覆う黒い仮面。その下の目が、暗い中でも分かった。昼間に倉庫通りで見た目と同じ——長い年月を経た、古い目だ。
「来た」
ゼンが言った。
「来ました」
俺は短剣に手をかけながら答えた。
「抜かなくていい」
「そうは言えません」
「お前と戦うつもりはない」
「ガルドさんを捕まえておいて、それが言えますか」
「捕まえてはいない」
ゼンが一歩引いた。
建物の中が少し見えた。
ガルドが壁際に立っていた。立っている——拘束されていない。ただ、周囲に四人の男が距離を取って囲んでいた。動けるが、動かせない状態だ。
「怪我はないか」
ガルドが答えた。
「ない。俺はついてきたが、この男が話したいと言った。聞く気はなかったが、出口を塞がれた」
「俺は木下真と話したかった」
ゼンが俺を見た。
「だから、話す機会を作った」
「人を閉じ込めるのが、話す機会の作り方ですか」
「お前は来なかった。何度か機会を作ったが、全部逃げた」
「逃げたんじゃない。断りました」
「それは同じことだ」
「違います」
俺はゼンを見た。
仮面の奥の目が、俺を見ている。値踏みしているわけではない。もっと別の、静かな確認の目だ。
「あなたは何者ですか」
「古代言霊使いの最後の弟子だ」
答えた。
即座に、迷いなく。
「それが本当なら——三百年生きているということですか」
「そのくらい生きている」
「呪いですか」
「制裁だ。師匠が死ぬ前に、お前が残れ、と言った。その言霊が俺に刻まれた。師匠の意志が俺の体に刻印として入っている。消えるのは、使命が果たされた時だ」
「使命?」
「次の言霊師を見つけること」
ゼンの目が、静かに俺に向いた。
「それが、お前だ」
俺はしばらく言葉が出なかった。
「俺を利用しようとしていたんじゃないんですか」
「利用と言われれば、そうだ。お前の力が必要だ。でも——正確に言えば、お前に古代の技術を継いでほしい」
「影の商会のために?」
ゼンが少し目を細めた。
「俺は商会の一部に関わっている。だが、商会の目的と俺の目的は違う」
「どう違うんですか」
「商会は力を欲しがっている。権力のために、金のために。俺は——師匠の技術が消えることを恐れている。それだけだ」
俺はその言葉の真偽を、すぐには判断できなかった。
「信じろとは言わない」
ゼンが言った。まるで俺の思考を読んだように。
「ただ、お前が持っている力の正体を、俺は知っている。ダーレムの石板も、テムザリアの隠し場所も——それらが何を意味するか、お前たちより俺の方がよく知っている」
「では教えてください」
「今夜は無理だ」
「なぜ」
「お前がまだ、俺の言葉を受け取る準備ができていない」
「準備?」
「怒っている。俺への不信がある。その状態で俺の話を聞いても、全部疑ってかかる。それでは意味がない」
それは正しかった。今の俺は、ゼンの言葉を素直に受け取れる状態ではない。
「では、いつですか」
「お前が決める時だ」
ゼンが一歩引いた。
「ガルドを返す。リリアも傷つけていない。この場は引く」
「待ってください」
「なんだ」
「一つだけ聞かせてください。あなたは今夜、何を確認したかったんですか」
ゼンが少し黙った。
「お前が仲間のために動けるかどうかだ」
「それが分かれば、十分でしたか」
「十分だ」
ゼンが振り返った。四人の男に何かを合図した。男たちが壁から離れた。ガルドへの包囲が解けた。
「また会う」
「また会うことになるんですか」
「なる。遅かれ早かれ」
ゼンが建物の奥に向かって歩き出した。
奥の窓から出ていくつもりらしい。
俺はその背中に向かって言った。
「ゼン」
仮面の男が止まった。振り返らなかった。
「師匠の名前を、いつか教えてください」
しばらく間があった。
「三万年前の言霊師の名前は、俺も知らない」
「あなたの師匠は三万年前じゃないはずです。あなたが三百年生きているなら、師匠はもう少し近い時代の人間のはずだ」
ゼンがわずかに動いた。
「……賢い」
「答えてもらえますか」
「師匠の名は、オールン。古代の技術を独学で再現した最後の人間だ。三百年前に死んだ」
「ありがとうございます」
「礼を言う意味が分からないが——では今夜はここまでだ」
ゼンが窓から出ていった。四人の男も、それぞれ別の方向から消えた。
建物の中が静かになった。
ガルドが俺のそばに来た。
「大丈夫か」
「大丈夫です。ガルドさんは?」
「傷なし。ただ、話を全部聞いていた。あの男——簡単に判断するべきじゃない」
「そうですね」
「敵とも味方とも言えない。でも、嘘をついている感じもしなかった」
「俺も同じです」
ガルドが建物の外に出た。リリアが駆けてきた。
「ガルドさん、怪我は——」
「ない。お前こそ」
「大丈夫です。魔力が少し切れていますが」
「ユナ、手当てを頼めるか」
ユナがリリアに近づいた。手を当てて、回復魔法を短く施した。リリアの顔色が少し戻った。
「ありがとうございます」
「礼はいい。自分で気をつけろ」
「はい」
五人で林を出た。
テムザリアの明かりが遠くに見えた。
俺は歩きながら、ゼンの言葉を反芻した。
次の言霊師を見つけること。師匠の技術が消えることを恐れている。
その言葉が、俺の中で何かを揺らしていた。
嘘かもしれない。罠かもしれない。でも——石板に書いてあった言葉が重なった。
言霊師は一人では言霊師になれない。
三万年前の言霊師にも、傍にいる者たちがいた。オールンにも、ゼンがいた。そして今の俺にも——
「まこと」
ユナが隣に来た。
「なんだ」
「顔が難しい」
「考えています」
「今夜のことか」
「はい」
「一人で考えるな」
「一人では考えていません。ユナに話します」
「なら聞く」
俺はゼンとの会話を、歩きながら全部話した。
ユナは黙って聞いた。
全部話し終えると、ユナが少し間を置いてから言った。
「あの男が次に来たら、今度は話を聞くか?」
「まだ決めていません。でも——聞く可能性はある、と思っています」
「それでいい」
「え?」
「今すぐ決める必要はない。その時が来たら、その時に判断する。今は情報が足りない」
「そうですね」
「ただ」
「ただ?」
「あの男が仲間に何かした時は、話を聞く余地はなくなる。それだけは決めておく」
「同意します」
「それだけ決めたら、後は歩きながら考えればいい」
テムザリアへの道を歩いた。
夜の街道に、五人分の足音が続いた。




