第二節「廃屋の痕跡」
夜になった。
ガルドとリリアが出発した。廃屋はテムザリアの南東、街道を外れた林の中にある。往復で二時間ほどの距離だ。
「必ず一時間以内に戻る」
ガルドが出る前に言った。
「戻らなければ来る」
「来るな、とは言わない。でも、急ぐな。急ぐと判断が鈍る」
「分かってます」
「ユナを頼む」
「任せてください」
ガルドとリリアが出ていった。
宿の部屋が静かになった。
ユナが窓際に座っていた。外の夜景を見ている。テムザリアの夜は明るい。街灯がいくつもあって、人の動きがある。
「ガルドさんとリリアが気になるか」
ユナが聞いた。
「気になります」
「俺もだ」
「ユナも?」
「当たり前だ。仲間が夜に出ていけば、気になる」
「そうですね」
俺は短剣を手に取った。腰に差したまま、鞘の上から握った。刃に刻まれた「斬」と「速」の二字が、掌に感じる気がした。
「リリアさんは強い人だと思います」
「どういう意味の強さだ」
「戦えない、という自覚を持ちながら、必要なことを引き受けようとする強さです。それは、戦える人間の強さとは別の種類のものだと思う」
ユナが少し考えた。
「確かに。リリアは自分の限界を分かっている。分かった上で、できることをする。それは難しいことだ」
「俺には、まだ自分の限界が分かりきっていない部分がある」
「言霊のことか」
「Lv.4になって、届く範囲が変わった。でも、どこまで届くのか、どこから先は危険なのか——まだ測れていない」
「測れなくても、使う時が来る」
「そうですね」
「その時に間違えなければいい」
「間違えないために、今考えておく」
「そういうことだ」
ユナが窓から離れて、テーブルの椅子に座った。
「まこと、一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「テムザリアに来る前と、今で、何か変わったと感じるか」
俺は少し考えた。
「変わりました。シドウさんから教わったことで、刻印が深くなった。力の使い方の感覚が変わっています」
「力の話じゃなくて」
「力の話以外で、ですか」
「そうだ」
俺はもう少し考えた。
「ウルさんのことが、少し引っかかっています」
「ウルが裏切ったことか」
「裏切ったというより——ウルさんが一人で抱えていた、ということです。妹が人質に取られて、誰にも言えなくて、一か月間。それがどれほど苦しかったか、想像するとずっと残っています」
ユナが少し目を細めた。
「誰かが一人で苦しんでいる、ということが気になるのか」
「気になります。俺はコンビニで一人だった頃、誰かに何か打ち明けることができなかった。感情を言葉にすることが苦手だった。ウルさんが一人で抱えていた感覚が、少し分かる気がして」
「分かるから、辛いのか」
「辛い、というのとは少し違います。ただ——俺が傍にいる人間が、同じように一人で抱えることがあれば、気づきたいと思っています」
ユナが静かに俺を見た。
「今、わたしは一人で何かを抱えているか?」
「分かりません。そうじゃないといいと思っています」
「今は、何も抱えていない」
「良かった」
「でも」
「でも?」
「まことが気にしてくれていることは、分かった。それは——ありがとう」
ユナが珍しく先にそう言った。普段は礼を言われても「礼は不要だ」と返すのに、今日は自分から言った。
「どういたしまして」
ユナが少し不思議そうに俺を見た。
「その言い方、初めて聞いた」
「日本語で言うと、どういたしまして、です。あなたの礼を受け取った、という返し言葉です」
「どういたしまして」
ユナが発音した。少し不格好だったが、意味を込めようとしているのが分かった。
「合ってます」
「難しい言葉だな。音の意味が分からない」
「でも、今のユナの言い方には意味が入っていました」
「どうして分かる」
「言霊師だから」
ユナが少し間を置いてから、小さく笑った。
声に出さない笑い方だ。口角が少し上がって、目が少し細くなる。俺が旅の中で何度か見てきた、ユナの一番小さい笑い方だ。
「そうか」
外から風の音がした。
テムザリアの夜が静かに続いていた。
一時間が経つのを、俺たちは静かに待った。
――――
一時間が経った。
ガルドもリリアも戻ってこなかった。
「行く」
俺が立ち上がると、ユナも立ち上がっていた。
「一緒に行く」
「宿を空にするのは——」
「今更だ。ガルドさんが一時間と言った。一時間経った。それだけだ」
「……了解です」
宿の主人に「少し外に出る」と告げた。ドレンへの書き置きをテーブルに残した。内容はシンプルに、「廃屋に向かった」とだけ。
外に出た。テムザリアの夜の空気が冷たかった。
「南東の林だな」
「そうです。地図で確認した限りでは、街道を外れて林に入ってから十分ほどの場所です」
「走るか」
「走ります」
二人で走り始めた。
夜の街道は空いていた。街灯が途切れると、月の光だけになる。走りながら、俺は短剣の柄に手をかけた。
何も起きていないかもしれない。ガルドとリリアが丁寧に確認していて、時間がかかっているだけかもしれない。
でも、一時間と言った人間が一時間で戻らないのには、理由がある。
林への分岐が見えてきた。




