第五節「スパイの正体」
翌日、シドウの工房に向かった。
七時ちょうどに着くと、シドウが扉の前に立っていた。中ではなく、外に。
「何かあったんですか」
「昨夜、工房に入った形跡がある」
俺は緊張した。
「盗まれたものは」
「何もない。ただ、入った。俺の工房に入れる場所は一か所しかない。その錠前に、細工した跡がある」
「誰が入ったか見当がつきますか」
「昨日の男だ」
「ロードという人物ですか」
「あいつが直接入ったとは思わないが、あいつの後ろにいる者の仕事だ」
「何を探しに入ったんでしょう」
「刻印の記録だ。俺が書き残した作業記録がある。どの金属にどの刻印を入れたか、結果がどうだったか。そのメモだ」
「それが盗まれていたら、複合刻印の組み合わせが分かってしまう」
「だが、盗まれていない。俺は記録を工房には置かない。別の場所に保管している」
「用心深いですね」
「四十年職人をやっていれば、商売相手に情報を盗まれることを覚える」
シドウが扉を開けた。
「今日の作業は変更する」
「変更?」
「今日は記録を作らない。刻印の実験も、通常の作業の範囲に留める。お前が持っている技術の中で、最も基本的なものだけをやれ」
「監視されている可能性を考えて、ですか」
「そうだ。見せていい情報と、見せてはいけない情報がある。今日は前者だけにする」
「分かりました」
俺はその判断を理解した。シドウは長年の経験から、情報の管理に慣れている。今の状況を見て、即座に対応している。
「一つ聞かせてください。シドウさんは今の状況をどこまで把握していますか」
「お前たちが何かを調べていることは分かっている。それと関係した組織が俺の工房を監視していることも」
「詳しく話しておくべきですね」
「話してくれるなら聞く」
俺はこれまでの経緯を、シドウに話した。ダーレムの呪い刻印事件から、テムザリアでの動き。影の商会と思われる組織の存在。昨夜の計画。
シドウは作業台に腰をかけて、腕を組んで聞いていた。表情が変わらなかった。
「古代の刻印技術を持つ組織が、テムザリアで動いている」
「そう考えています」
「その組織が、お前の言霊付与と俺の鍛冶技術を狙っている」
「おそらく」
「そして、石板の研究者の発見を横取りしようとしている」
「仮説段階ですが」
シドウが少し間を置いた。
「俺はその組織を知っているかもしれない」
「え?」
「知っているというより——昔、関わりかけたことがある」
「関わりかけた?」
「二十年前だ。俺が鍛冶師として名前が出始めた頃に、同じような接触があった。匿名の商会を通じて、高報酬の刻印依頼が来た。断った」
「断った理由は?」
「依頼の内容が、武具への刻印ではなかった。人体への刻印だった」
俺は止まった。
「人体への刻印?」
「古代では人体エンチャントが行われていた、という話を聞いたことがある。現代では禁忌とされている技術だ。俺は刻印師ではないが、鍛冶師として金属以外への刻印を試したことはある。だが、人体への刻印は断った」
「そのような依頼を出した組織が、二十年前にもテムザリアにいた?」
「同じ組織かどうかは分からない。ただ、同じ知識体系を持つ者が動いているとすれば——二十年で消えていない可能性がある」
「長く続いている組織だということですね」
「そうだ」
シドウが立ち上がった。
「木下、俺はお前に協力する」
「ありがとうございます」
「礼はいい。理由を言う」
「はい」
「お前が刻んだミスリルの刃に、意味が呼吸していた。あれは人体への刻印に転用できる技術だ」
俺は静かに聞いた。
「もしお前の技術が悪意ある目的で使われれば、何十人、何百人が傷つくかもしれない。俺はそれを許せない。鍛冶師として、武具は人を守るために作るものだ。その逆の目的に使われるのを、見過ごせない」
「シドウさんの理由が分かりました」
「だから、お前を守る側に立つ。それだけだ」
シドウが工具を手に取った。
「今日の作業を始めよう」
「はい」
――――
午後、シドウの工房での作業を終えて、宿に向かった。
宿に戻ると、入口にドレンが待っていた。
「何かありましたか」
「あった。大きな話だ」
食堂の隅に移動した。
「スパイが見つかった」
「スパイ?」
「俺たちの情報が漏れていた原因だ。昨夜、倉庫通りの計画を話した後、誰かがそれを外に流した」
「誰が?」
「ウルだ」
俺は少し止まった。
「ウルさんが?」
「昨夜の計画の話の後、ウルが一人で外に出た。俺は変だと思って尾行した。倉庫通り近くの路地で、あいつが誰かと話しているところを見た。茶色の外套の男だ」
「倉庫通りの見張りと同じ特徴の男ですか」
「そうだ。話の内容は聞けなかったが、様子から情報を渡しているのは明らかだった」
「ウルさんはどこに?」
「今は宿の自分の部屋にいる。気づかれていない。俺が何も言わずに戻ったから」
「カナさんは知っていますか」
「知らない。カナはウルとは別に行動していることが多い。あいつは信用できると思う」
ガルドが静かに言った。
「ウルをどうする」
「まず、昨夜の計画通りに動かない、ということだ。計画を変えて、スパイが流した情報が役に立たないようにする」
「それと、ウルが流した情報の中身を逆手に取れる」
「そうだ。わざと違う計画を話して、相手を誘導する」
「だまし討ちですね」
「こちらの人員が減る。でも、ウルを通じてこちらの意図した情報を相手に流せる」
「ウルを切る前に、カナさんに話す必要があります。カナさんを巻き込むわけにはいかない」
「分かってる。今夜、俺がカナに話す」
「ウルへの対応は?」
ドレンが少し顔を曇らせた。
「昔から知っている仲間だ。信じていた。でも——仕方ない」
「難しい判断ですね」
「俺たちの世界では、よくあることだ。裏切りは珍しくない。ただ、俺のパーティーから出るとは思っていなかった」
「もしかすると、ウルさん自身も脅されている可能性があります」
ドレンが少し止まった。
「どういう意味だ」
「影の商会は、弱みを握る方法に長けているかもしれない。家族がいる、借金がある、隠したい過去がある——そういうものを使って、動かすことができる」
「……ウルには妹がいる」
「それが人質に使われている可能性は?」
「……考えたくないが」
「話し合う余地があるかもしれません。ウルさんに直接聞いてみることを勧めます。ただし、証拠を持った上で、逃げ道がない状態で」
「そうしてみる」
ドレンが深呼吸した。
「お前は冷静だな」
「必死に考えているだけです」
「仲間が裏切っていても、責めないのか」
「責める前に、理由を知りたいと思います。理由によっては、一緒に解決できるかもしれない」
ドレンが少し黙った。
「……お前みたいな考え方をする冒険者は、あまりいない」
「そうですか」
「良い意味でだ」
その夜、ドレンがカナにウルのことを話した。カナは驚いたが、冷静に受け止めた。そして三人でウルを呼び出した。
俺たちは別の場所で待機した。
一時間後、ドレンが戻ってきた。
顔色が複雑だった。
「妹だ。妹が人質に取られていた」
「やはり」
「一か月前から。テムザリアの商会に就職した妹が、ある時から連絡が取れなくなった。その後、ウルに接触があって——情報を流さないと妹を返さないと言われた」
「ウルさんは今どんな状態ですか」
「泣いていた。ずっと一人で抱えていた」
「ウルさんと妹さん、どちらも助ける方法を考えましょう」
ドレンが俺を見た。
「できるか」
「一人では難しい。でも、今こちらには複数の人員と、ギルドとの繋がりがある。それを全部使えば、可能性はある」
「……頼む」
ドレンが頭を下げた。
「任せてください」
俺は短く答えた。
複雑だった状況が、また一段階、複雑になった。でも、方向が見えてきている。
影の商会を追う理由が、一つ増えた。




