第三章「闇ギルドの影」 第一節「接触」
テムザリアに来て、一週間が経った。
シドウの工房への通いが日課になった。朝七時に工房に入り、二時間ほど刻印の作業をする。シドウは多くを語らないが、必要なことは正確に伝えてくる。その言葉のどれも、俺の技術を一段ずつ確かに上げている。
「今日は組み合わせを増やす」
その日の朝、シドウが台に素材を並べながら言った。
「守護を意味する字と、斬る意味の字を合わせてみろ」
「守ると斬るは、意味が反対方向です。相乗効果より、打ち消しになる可能性が高い気がします」
「やってみてから言え」
「了解しました」
俺は「守」と「斬」を端材に刻んだ。刻む前に、それぞれの意味を整える。守る、という意味の本質。壁、盾、包む。次に、斬る意味。断つ、分ける、切り開く。
二字が揃った瞬間——
予想に反して、反発は起きなかった。
代わりに、奇妙な共鳴が生まれた。
「……守りながら斬る、という意味になった?」
「どう感じた」
「守る、という動作の中に、障害を断ち切る意味が混ざった感じがします。防御が、ただ受け止めるだけでなく、脅威を切り離す防御になっている、というような」
シドウが端材を手に取った。
「正確に分かった。これは防御と攻撃の境界を消す刻印だ。盾に刻めば、盾が受け止めるだけでなく、攻撃者の力を返す。鎧に刻めば、着た者が常に守られながら行動できる」
「意味が反対でも、組み合わせ方によっては反発しない」
「そうだ。字の相性は、対義語かどうかではなく、意味が補い合えるかどうかで決まる。守ると斬るは反対方向だが、互いが補完できる。だから共鳴する」
「相性の読み方が、単純じゃない」
「当たり前だ。言葉というのは、単純に足したり引いたりするものじゃない。それはお前の方が俺よりよく知っているはずだ」
「……確かに」
言霊師として、言葉の意味が複雑に絡み合うことは体感していた。でも、刻印として金属に入れる時にも同じ原理が働くとは、まだ完全には理解できていなかった。
シドウが端材をまた台に置いた。
「今日の課題はここまでだ。後は自由に使っていい」
「ありがとうございます」
「礼はいい。帰り際に、一つ伝えておく」
「はい」
「昨日、俺の工房の近くで見慣れない男をみかけた。こちらを観察しているような立ち方だった」
「工房の周辺を?」
「一人だ。茶色の外套を着ていた」
俺は緊張した。倉庫通りで見かけた男と、同じ特徴だ。
「いつ頃ですか」
「夕方だ。お前が帰った後しばらくして。俺が作業の合間に外を見た時に、路地の入口に立っていた。こちらが気づいた瞬間に、消えた」
「その男が何者か心当たりはありますか」
「ない。ただ、俺の工房を観察する理由があるとすれば、お前が来ていることだ」
「俺を通じて、シドウさんを……」
「神話級の武具を量産できる組み合わせだと思えば、狙う理由になる。金のための話だ」
「それは——」
「警戒しておけ、という話だ。今すぐ何かが起きるとは思っていない。ただ、知っておいた方がいい」
「ありがとうございます」
「礼はいい。明日も七時に来い」
工房を出た。
ガルドに話すと、ガルドが少し眉を動かした。
「倉庫通りの男と同じだな」
「特徴が一致します」
「こちらの動きを追っている。工房に通い始めてから、シドウとの関係が見えた。次は接触してくる可能性が高い」
「接触してきた場合は、どう対応しますか」
「状況による。敵意があれば追い払う。交渉の形で来たなら、まず話を聞く。相手が何を求めているか分かれば、こちらの判断材料になる」
「分かりました」
ユナが静かに言った。
「まことを狙っている」
「そうかもしれない」
「嫌だ」
「ユナ?」
「まことが標的にされることが、嫌だ。ダーレムの呪い刻印も、今度の件も——まことの力が原因で、面倒なことが起きる」
「力を持つということは、そういうことだから」
「分かってる。でも嫌だ。嫌だということは、言う」
「……ありがとう」
「礼は不要だ。事実を言っただけだ」
ガルドが静かに言った。
「ユナが嫌だと言っているうちは、まだ大丈夫だ。言葉が出てくる間は、感情が健全だということだ」
「どういう意味ですか」
「嫌なことを嫌と言えなくなった時が、本当に危ない状態だ。今のユナは、正直に感じていることを言えている。それは強さだ」
ユナが少し黙った。
「……そうか」
「そうだ」
三人で金鹿亭に向かって歩いた。
街の通りは今日も賑やかだった。でも、賑やかさの中に、何か別のものが混じり始めている感覚がある。
俺たちを見ている目が、どこかにある。
――――
宿に戻った午後、予想より早く接触が来た。
食堂で昼食を取っていると、見知らぬ男が席に近づいてきた。
三十代に見える。清潔な服装で、商人のような落ち着いた雰囲気がある。外套は灰色だ。茶色ではない。
「木下真さんですか」
「そうですが」
「少しお話しさせていただけますか。商談のご提案があります」
ガルドが男を見た。男はガルドを一瞥したが、特に動じなかった。
「どちら様ですか」
「申し遅れました。テムザリア商会連合の斡旋部門に所属しております、ロードと申します。いくつかの商会から、木下さんのご依頼についてお問い合わせをいただいておりまして」
「依頼?」
「武具への刻印依頼です。シドウ工房で作業されているとお聞きしました。刻印師としてのご依頼を受け付けていただけるか、確認に上がりました」
商談の形を取っている。でも、俺は少し違和感を覚えた。
「俺が刻印師として仕事を受けているという情報は、どこから?」
「ギルドの依頼票を確認いたしました。シドウ工房の刻印相談依頼を受けられたと」
「ギルドの記録は誰でも確認できますか」
「商業ギルドの会員であれば、依頼の受注記録は閲覧可能です」
筋は通っている。でも、昨日シドウが話していた茶色の外套の男が頭から離れない。
「今すぐお返事は難しいです。内容を聞かせてください。その上で、判断します」
「もちろんです。いくつかの商会から、高品質な刻印付き武具を定期的に発注したいとの希望が出ております。数量は月に十本から二十本。報酬は一本あたり金貨五枚からという条件です」
「月に十本から二十本か」
金貨五枚は、冒険者の依頼報酬と比べると大きな額だ。月に二十本なら、金貨百枚になる。
「発注元の商会はどちらですか」
「複数の商会から合同で依頼をいただいています。詳細は契約の際にお伝えします」
「今は教えてもらえない?」
「手続き上、契約前の開示が難しい場合があります。ご了承ください」
「了承できません」
ロードという男が少し目を細めた。
「どういう意味でしょう」
「依頼元が分からない仕事は受けられない。誰に何を作るか分からなければ、刻印の意味も決められない。刻印師として、それは最低限の確認事項です」
「ご要望はお持ちします。ただ、商会名の開示には——」
「開示できないなら、この話はここで終わりです」
ロードがしばらく黙った。
それから、静かに立ち上がった。
「失礼しました。また改めてお話しさせていただけますか」
「その時は、商会名を持ってきてください」
「承りました」
男が食堂を出た。
ガルドが静かに言った。
「断って正解だ」
「そうですね」
「匿名の依頼は、大体が後ろ暗い話だ。商会名を出せない理由がある。影の商会のフロントかもしれない」
ユナが男が出ていった扉を見ていた。
「また来る」
「おそらく。次は条件を変えてくるか、強引な形で来るか」
「どちらにしても、答えは同じだ」
「そうです」
俺は手元のスープを一口飲んだ。
テムザリアに来て一週間。良い方向の動きと、不穏な動きが同時に進んでいる。シドウとの共同作業、リリアの研究の進展、ドレンたちとの繋がり——それに加えて、俺たちを狙う何者かの動きが近づいている。
「ガルドさん、少し動きを変えた方がいいかもしれません」
「どう変える」
「これまでは情報収集を優先してきました。でも、相手がこちらに接触してきた以上、受け身ではなく、こちらから動いた方がいい」
「具体的には」
「倉庫通りの建物を、もう少し調べる。それから、ドレンたちにも情報を共有して、複数の目で動く」
「了解だ。ただし——」
「シドウさんの工房への通いは続ける。あちらの動きに乗せられて、大事なことを止めるのは相手の思う壺だ」
「その判断は正しい」
「まず今夜、ドレンに話します」
「そうしよう」
ユナが静かに頷いた。
食堂の賑やかさは変わらない。でも、俺の中で何かが切り替わった感覚があった。テムザリアの複雑さが、次の段階に入ろうとしている。




