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第五節「工房の夜と、リリアの進捗」

その日の午後、約束通りリリアのところに顔を出した。


研究者のアストラ先生の家は、学術区と呼ばれる区画にあった。職人区より静かで、石造りの建物が少し大きい。書庫や研究室を兼ねた家が多い区画だ。


アストラ先生の家の扉を叩くと、リリアが出てきた。


「来てくれましたね」


「約束です。調子はどうですか」


「思ったより早く進んでいます。アストラ先生が石板の写しを見て、すぐに重要性を理解してくれました」


「それは良かった」


「中に入りますか」


「少しだけ」


リリアに案内されて中に入った。玄関から続く廊下に、本棚が並んでいた。天井まで届く高さの本棚に、分厚い本と巻き物が詰め込まれている。


「多い本ですね」


「先生は三十年間、テムザリアで研究を続けています。この本の半分以上が、先生自身の調査記録です」


「三十年か」


「先生が石板の写しを見た時に言ったことが、印象的でした」


「何と?」


「これは一人の人間が書いたものではない、と」


「一人じゃない?」


「石板全体の言葉は確かに一つの意思で書かれています。でも、使われている字の細部に、複数の手が関わっている痕跡がある、と先生は言いました。三万年前の言霊師が、一人ではなく、複数の協力者と一緒に刻んだ可能性があると」


俺は少し止まった。


複数の協力者。言霊師は一人では言霊師になれない——石板の言葉が頭の中で響いた。


「その仮説は、石板の言葉と一致します」


「私もそう思いました。汝の傍にいる者たちが、汝の言霊を本物にしている。三万年前の言霊師にも、傍にいる者たちがいた」


「俺にも今、三人いる」


「そうですね」


リリアが少し笑った。


「先生との作業が進んで、石板の意味の層が深くなっています。表面の言葉だけでなく、その下に込められた構造が見えてきています」


「構造?」


「六か所に分けて刻まれた言葉の順番が、実は単純な一本の道ではないかもしれないということです。分岐がある可能性が出てきました」


「分岐?」


「六つの言葉には、最低二通りの読み方ができる。順番を変えると、全体の意味が変わる。今は仮説段階ですが、先生と一緒に検証しているところです」


「それは重要な発見になりますね」


「なると思います。ただ、まだ論文にできる段階ではありません。もう少し時間がかかります」


「焦らなくていいです」


「ありがとうございます」


リリアが廊下の窓を少し見た。外の光が午後らしい角度で差している。


「木下さんの方は、どうですか。シドウさんとは上手くいきましたか」


「上手くいきました。今日、神話級の刻印が入りました」


「神話級が?」


「ミスリルの刃に二字の複合刻印を入れて、シドウさんに神話級を超えているかもしれないと言われました」


リリアが目を開けた。


「それは……言霊付与が、また段階を上げましたか」


「シドウさんのアドバイスがあったからです。刻む前に意味を整えるという方法を教えてもらいました」


「それは研究的に非常に重要な情報です。記録させてもらえますか」


「もちろんです」


リリアが手帳を取り出した。


「刻む前に意味を整える、というのは具体的にどういう状態ですか」


「目を閉じて、刻む字の意味を頭の中に充填する感じです。斬るという意味の本質を、体で感じてから刻む。意味が充填された状態で刻むと、字と金属の結びつきが強くなります」


「言葉を発する前に、意味を深く理解することで力が増す——それは石板に書かれていたことと一致します」


「同じですね」


「三万年前の言霊師が残した技術と、シドウさんの職人的な直感が、同じ結論に到達した」


「三万年という時間を超えて、同じ原理が繋がっている」


「それが言霊の普遍性だと思います」


リリアが手帳に書き続けた。俺はその横で、アストラ先生の本棚を眺めた。分厚い背表紙が並んでいる。その一冊一冊が、誰かの積み重ねだ。


「また来ます」


「お待ちしています」


「ユナも次回は一緒に来ます」


リリアが頷いた。


「ユナさんと話すと、論文が整理される感覚があります。ぜひ」


「伝えておきます」


アストラ先生の家を出た。街の夕方が始まろうとしていた。


――――


金鹿亭に戻ると、ガルドが食堂でドレンたちと話していた。


昨日初めて話しかけてきた冒険者だ。何人かのグループで席を囲んでいる。


「真が来た。紹介するぞ」


ガルドが手招きした。


「木下真です」


「ドレン。昨日話した男だ。他は俺の仲間のウルとカナだ」


「よろしくお願いします」


「よろしく。聞いたよ、倉庫通りで不審者を追ったって」


「ギルドから情報が広まったんですか」


「こういう街は話が速い。それで、何か分かったか?」


「詳しくはまだ。ただ、一人の男が特定の倉庫を観察していることは確認しました」


ドレンが少し声を低めた。


「俺たちも気になっていたことがある」


「なんですか」


「影の商会というのを聞いたことがあるか」


「初めて聞きます」


「テムザリアの裏で動いている組織だ。表向きは何もないが、商会の形を取って物資を流している。正規のルートでは扱えないものを流している、という噂だ」


俺は少し緊張した。


ダーレムで行方不明になった行商人、呪い刻印のアイテム、倉庫通りの不審者。これらが一つの流れで繋がっているとすれば——


「その影の商会が、倉庫通りと関係があると?」


「はっきりとは言えない。でも、倉庫通りの一部の倉庫は、どこの商業ギルドにも登録されていない。どこの誰の荷物が入っているか分からない倉庫がある」


「ギルドは動いていないんですか」


「動けない。証拠がないから。それに、影の商会が実在するかどうかも確認されていない。噂の段階だ」


「でも、冒険者が一人行方不明になっている」


「そこが、みんなが気にしているところだ。街の中で冒険者が消えた。それが普通じゃない」


ドレンが杯を置いた。


「俺たちより、お前たちの方が動きやすいかもしれない。新しく来た顔だから、目をつけられていない。それに——お前、何か特殊なことができるだろう」


「なぜそう思いますか」


「シドウの工房に通っているという話が職人区で出ていた。シドウが門前払いしなかった相手だ。普通じゃないと思って当然だ」


「観察が鋭いですね」


「冒険者として長く生きるには、観察眼が必要だ」


俺はガルドを見た。ガルドが短く頷いた。信頼していい、という意味だと受け取った。


「状況を整理したいので、少し情報を共有させてください。ダーレムで起きたことを話してもいいですか」


「聞きたい」


俺はダーレムの呪い刻印事件を、簡潔に話した。行商人から買ったアイテムに呪い刻印が施されていたこと、住人が次々と倒れたこと、解除したこと、行商人が消えたこと。


ドレンたちが真剣な顔で聞いていた。


「……それが今、テムザリアに繋がっているかもしれない、ということか」


「可能性として。テムザリアでも小規模な被害があったと、広域ネットワークから情報が来ていました」


「影の商会が、複数の街に呪い刻印を流していた」


「まだ断言できませんが、そういう構造が見えてきています」


ドレンが仲間たちと目を合わせた。


「俺たちも協力できることがあれば、言ってくれ」


「ありがとうございます」


「礼はいい。冒険者が消えたことが気になっている。仲間が消えて、動かないわけにはいかない」


ドレンの声に、静かな怒りが混じっていた。


俺はその声を受け取った。


行方不明になった冒険者の話が、自分事として響いている。それがドレンたちにとっての動機だ。


「一緒に動きましょう。ただし、慎重に。相手が何者か、まだはっきりしていない」


「それは分かっている。俺たちもランクDだ。無謀はしない」


「よろしくお願いします」


食堂が少し賑やかになっていた。夜の時間が始まっている。


ユナが俺の隣に来て、静かに言った。


「テムザリアは、動き始めている」


「そうですね」


「シドウとの仕事も、この調査も、リリアの研究も——全部が動いている」


「同時に動いているのは、大変かもしれませんが」


「大変だが、面白い。言ったろう、複雑な方が面白いと」


「確かに言いましたね」


「覚えていた」


「ユナの言葉は印象に残ります」


ユナが少し口を緩めた。


「……ならいい」


食堂の喧騒の中で、四人——今夜は三人だが——それぞれの時間が流れていた。


シドウの工房で生まれたもの。リリアの研究が深まっていること。ドレンたちとの繋がり。倉庫通りの影。


テムザリアの夜は、複雑な形をしていた。でも、その複雑さの一本一本の糸が、少しずつ俺たちの手に届き始めている感覚があった。


「明日もシドウさんのところに行きます」


「七時に」


「そうです」


「起こしてやる」


「ユナが?」


「わたしも七時には起きる」


「そうでしたね」


「まことは?」


「起きます」


「なら言わなくてよかった」


「でも言ってください」


ユナが少し考えた。


「……また言う」


「ありがとうございます」


ガルドが静かに笑った。


「お前さんたちの会話は、やっぱり密度がある」


「普通の会話だと思いますが」


「お前さんが思っている普通は、普通じゃない」


それが何を指しているか、少し考えた。でも、答えは出なかった。


テムザリアの夜が、静かに更けていった。


第二章「シドウとの邂逅」 了


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