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第四節「神話級・二重刻印」

シドウの工房に通い始めて四日目の朝、作業台の上に見慣れないものが置かれていた。


俺の短剣だった。


いつの間に持ち出したのかと思ったが、すぐに気づいた。昨日、確認のために工房に置いてきた短剣だ。それが、昨日とは少し違う状態になっていた。


「触れてみろ」


シドウが言った。


俺は短剣を手に取った。


重さが変わっていた。軽い。刃の表面が、昨日より滑らかになっている。柄の握り具合が、手に吸いつく感じに調整されている。


「磨いてくれたんですか」


「整えた。刃の角度が少しずれていた。柄の太さも、お前の手に合っていなかった」


「気づいていませんでした」


「使う人間が気づかなくても、職人には見える。良い刻印を入れるなら、受け皿の状態が大事だ」


「ありがとうございます」


「礼はいい。ここから本番だ」


シドウが別の台に移動した。そこに、今日の素材が準備されていた。


鋼の短剣の刃と、ミスリルの刃。二本分だ。


「今日はお前の短剣と同じ形で、二本作る。一本は鋼、一本はミスリル。どちらにも二字刻印を入れてほしい」


「『斬』と『速』ですか」


「それでいい。ただ、今日はもう一つ条件がある」


シドウが俺を見た。


「刻む前に、字の意味を頭の中で整えろ。刻む瞬間だけでなく、刻む前の時間から力を込め始める。それをやってほしい」


「刻む前から?」


「鍛冶師は、炉で金属を熱している間から、完成形を頭の中に持っている。金属が炉の中にある段階から、形を与え始めている。刻印も同じじゃないかと思った」


俺は少し考えた。


刻む前から力を込める。言霊として考えれば、それは——言葉を発する前に、意味を深く理解してから発声する、というのと同じ感覚かもしれない。


「試してみます」


「時間はかかっていい」


俺は鋼の刃を手に取った。


目を閉じた。「斬」という字の意味を、頭の中に広げた。斬る、という行為。刃が空気を切り、何かを断ち切る。その意味が持つ鋭さ、清潔さ、決断の瞬間。


一分ほど、そのままでいた。


意味が体に充填されていく感覚が、じわりとあった。


目を開けて、刃に「斬」を刻んだ。


違った。


これまでの中で、明らかに違う感触があった。刃への刻印が、吸い込まれるというより、迎えに来る感覚だ。字を描く指先から、意味が自然に流れていく。


刻み終えた瞬間、刃が光った。


これまでより強い光だった。


「……」


シドウが声を出さなかった。台の端に腰をかけて、腕を組んで見ている。


俺は続けた。「速」を刻む前に、また目を閉じた。速い、という意味の本質。遅れのない動き、瞬間の凝縮、時間を縮める意思。


刻んだ。


二字が揃った瞬間、先日とは比べ物にならない相乗効果が起きた。刃の中で、二つの意味が絡み合っている感覚があった。お互いを呼び合い、お互いを深める。


「できた」


俺は静かに言った。


シドウが立ち上がった。刃を受け取った。


また、シドウが止まった。


昨日は感動の沈黙だった。今日は違う。評価の沈黙だ。職人が仕事を見る、静かで厳密な時間だ。


「……分かるか」


シドウが低く言った。


「何がですか」


「この刃に、神話級の刻印が入っている」


「神話級、ですか」


「通常の一を超えると、品質がランク分けされる。神話級はその最上位だ。俺はこれまでに実物を三度しか見たことがない。全部が古代の遺物だった」


「今の俺の刻印が、神話級に?」


「ただ刻んだだけではない。刻む前に意味を整えた。その差だ」


シドウが台に刃を置いた。


「鍛冶師として、これを言う。お前は今日、自分のスキルの本来の使い方に一歩踏み込んだ」


「シドウさんのおかげです」


「俺が教えたのは外形だけだ。刻む前に整える、という行為の意味を掴んだのはお前だ。それはお前の中から出てきたものだ」


俺は刃を見た。銀白色の光が、静かに揺れている感じがした。


「もう一本、ミスリルでやってみます」


「やれ」


ミスリルの刃を手に取った。


温かい感触。生きている金属。


今度は目を閉じる前に、ミスリルの感触を十分に確かめた。この金属が持つ性質を感じる。微量の魔力。他の金属にはない、受け入れる性質。


「斬」の意味を整えた。「速」の意味を整えた。


それから刻んだ。


刻み始めた瞬間に、鋼とは全く違う感触があった。ミスリルは刻印を受け入れるだけでなく、意味を自ら増幅させている感覚がある。刻んでいる間中、字が意味を呼吸しているような感じだ。


「斬」が完成した。「速」を刻み始めた。


「速」を刻む最後の一画の瞬間——


工房の中の空気が、一瞬変わった。


俺だけでなく、ガルドとユナも感じたらしかった。ガルドが少し身構えて、ユナが目を開けた。


静かになった。


刃が光った。鋼の時の数倍の光だ。工房の壁に、銀白色の光が広がって、すぐに消えた。


「……」


誰も言葉を出せなかった。


シドウが刃を受け取った。


受け取った瞬間に、シドウの体が少し揺れた。よろめいたわけではない。衝撃を受けた体の、微かな揺れだ。


「シドウさん?」


「大丈夫だ」


シドウが刃をゆっくりと台に置いた。そして、その場に立ったまま、長い間何も言わなかった。


ガルドが俺に視線を向けた。俺は首を横に振った。待つ、という意味だ。


三分ほどして、シドウが口を開いた。


「これは——神話級を超えている」


「え?」


「神話級より上の評価を、俺は持っていなかった。四十年間、神話級が最上位だと思っていた。でも、これはその上にある」


「シドウさんが見てきた古代の遺物よりも、ということですか」


「比べものにならない。古代の遺物は確かに神話級だったが、この刃のようには——意味が生きていなかった」


「意味が生きている?」


「ミスリルが意味を増幅している。金属と言霊が、互いに呼応している。古代の遺物はどれも、意味が刻まれた静物だった。これは違う。意味が呼吸している」


シドウが俺を見た。


「お前は今日、古代でも作られていなかったものを作った」


俺は言葉が出なかった。


「言い過ぎではありませんか」


「俺が四十年積み上げた目で言っている。言い過ぎではない」


シドウが深く息を吸った。


「木下、俺と組んでくれるか」


「組む、とは?」


「正式な共同作業だ。俺が最高の金属を準備する。お前が最高の刻印を入れる。そうして作られたものが、どこまで到達するか——俺は、それを見てみたい」


「やりましょう」


俺は間を置かずに答えた。


シドウが少し驚いたように俺を見た。


「即答か」


「シドウさんが四十年追いかけてきたものに、俺が合流できるなら——それ以上の機会はないと思いました」


「……分かった」


シドウが短く頷いた。


そのまま振り返って、作業台に向かった。


俺たちには見えないが、背中が少し違う形をしていた。何かが軽くなったような、何かが始まったような背中だ。


ガルドが小声で言った。


「お前さん、また誰かの四十年を動かしたな」


「偶然です」


「偶然じゃない。意味を整えてから刻もうとしたのは、お前の判断だ。偶然じゃない」


俺はミスリルの刃を見た。


呼吸している意味、とシドウは言った。


その言葉が、言霊師としての俺の何かと、深いところで繋がっている気がした。


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