第五節「刻まれた言葉」
「我は木下。遠き日より来たりし、言霊を持つ者なり」
最初の一行を読んだ時点で、また洞窟が微かに震えた。
ユナが俺の袖に触れた。
続けて、という意味だと受け取った。
「この世界に来て、幾年が過ぎたか。言葉の力で多くを救い、また多くを傷つけた。力は意思に従い、意思は心に従う。ゆえに、力を持つ者は、まず己の心を知らねばならない」
リリアが震える手でメモを取っていた。
「この洞窟に辿り着いた者よ。おそらく、汝も言葉の力を持つのだろう。そうでなければ、この文字は汝の目には文様にしか見えぬはずだ」
俺は少し止まった。
「……そういうことか」
「どういうことですか?」
「この文章は、言霊師にしか読めない。普通の人が見ても、ただの模様にしか見えないように書かれているんだ」
「だから、長い年月を経ても、解読されずに残っていた?」
「そういうことだと思う」俺は続けた。
「力は己の言葉の深さに比例する。浅い言葉には浅い力が。深い言葉には深い力が宿る。それは技術ではなく、生き様である。汝が何のために言葉を使うかを、常に問い続けよ」
ユナが静かに俺の隣に立っていた。
「さらに続く。……この世界は言葉で作られた。大地も、空も、人の心も。言葉が世界の根にある。ゆえに、言霊師は世界そのものと繋がっている。この繋がりを忘れず、世界を愛せ。愛することが、力の源泉である」
長い沈黙があった。誰も何も言わなかった。
ガルドでさえ、静かに壁の文字を見ていた。
俺は最後の一文を読んだ。
「次の言霊師へ。汝が来ることを、我は知っていた。言葉は繋がる。過去から未来へ。我の言葉が汝に届くなら、我はまだここにいる。——木下」
洞窟が、もう一度だけ小さく震えた。そして、静かになった。
リリアがメモから顔を上げた。
「三万年前の言霊師が……あなたに向けて書いた文章が、ここにあった」
「そうなるな」
「汝が来ることを、知っていたと書いた」
「……信じられないが、そう書いてある」ガルドが長い沈黙の後に言った。
「真、お前はどう思う」
「正直、混乱してます」
「そうだろうな」
「でも……何かが繋がっている、という感覚はある。俺が言霊付与のスキルを持ってこの世界に来たのが偶然じゃないなら、この文章も偶然じゃない」ユナが俺を見た。
「まこと」
「なんだ?」
「三万年前の人も、言葉を届けたかった。届いた」
「そうだな」
「それだけで、十分だと思う」俺はユナを見た。
銀色の髪。 紫の瞳。 真剣な、真っ直ぐな目。
「……そうだな」俺はもう一度、壁の文字を見た。
刻まれた日本語が、ルミナ石の青白い光に照らされている。
三万年。
その時間の重さを俺が実感できるかどうか分からない。でも、確かに届いた。
「リリアさん、全部記録できましたか?」
「はい。一字も漏らさずに」
「よかった」
「これは……本当に、歴史的な発見です。いや、それ以上かもしれません」
「今は依頼の安全確認が先ですね。この先、確認しますか?」
「そうですね。今いる場所はまだ前半区画の範囲内のはずです」ガルドが気持ちを切り替えるように言った。
「石板の件は後でゆっくり話そう。今は仕事を終わらせる」
「了解です」俺たちは再び通路へ向かった。
でも俺は、歩きながらもあの文字を頭の中で繰り返していた。
「汝が来ることを、我は知っていた」三万年前の誰かが、俺のために書いた。
俺がこの世界に来ることを、知っていた。それは何を意味するのか。
「まこと」ユナが隣に来た。
「考えすぎてる?」
「右」
「飯食ったら少し落ち着く」
「そうだな。帰ったら何か食べよう」
「猪の煮込みがいい」
「ガルドさんに頼もう」
ガルドが前から言った。
「聞こえてるぞ。帰ったら奢ってやる」
「本当ですか」
「今日の発見代だ」俺は少し笑った。
洞窟の奥から、また風の音がした。低く、呻くような音。
でも今は、その音が少し違って聞こえた。
嘆いているのではなく。
何かを、伝えようとしているような音に。




