第六節「新しい朝」
翌朝、俺は早めに目が覚めた。
窓を開けると、ダーレムの朝が広がっていた。
霧はない。
空気が澄んでいて、遠くの山がよく見える。
昨日とは違う景色だ。でも、昨日とは同じ街だ。
こういう何気ない朝が好きだと思った。
日本にいた頃の朝は、「また始まった」という感覚だった。
この世界の朝は、「また来た」という感覚がある。
違いは小さいようで、大きい。
「まこと」
廊下から声がした。
ドアを開けると、ユナが立っていた。朝食前なのに、もう起きている。
「早いな」
「眠れなかった」
「石板のことを考えていたか?」
「少し」
ユナが答えた。
「昨日、リリアが見せてくれた文字をずっと考えていた」
「どんなことを?」
「まことと同じ名字の人が、三万年前にここにいた。それは、まことがここに来ることを
知っていたから?それとも、たまたま同じ名字?」
「俺も分からない」
「でも、どちらにしても意味がある気がする」
「そうだな」
ユナが俺を見た。
「まことは、この世界に来た理由が分かったら、どうする?」
「分からない。でも……」
俺は少し考えた。
「理由を知ることで、何か変わると思う。良い方向に変わる気がしている」
「なぜ?」
「今までは、自分がここにいることが偶然なのか、必然なのか、分からなかった。
でも、もし石板と繋がりがあるなら、必然の部分があることになる。それが分かれば、進む方向が見えてくる気がする」
ユナが少し間を置いた。
「まことが迷わなくなるなら、いい」
「俺、迷ってるように見えてたか?」
「迷ってはいない。でも、立ち止まることがある。考えすぎて、動けなくなる時がある。
そういう時、まことの顔が少し曇る」
「よく見てるな」
「隣にいるから」
俺は少し笑った。
「ユナには全部バレてるな」
「全部ではない。でも、大事なことは分かる」
「大事なこと?」
「まことが本当に困っている時と、そうじゃない時。本当に嬉しい時と、表面だけ笑っている時」
「そんなに分かるのか」
「……分かる」
ユナが少し目を逸らした。
「毎日見ていると、分かるようになる」
俺はしばらく何も言えなかった。毎日見ている、か。
その言葉の意味を、どう受け取れば良いのか分からなかった。でも、温かかった。
「ありがとう、ユナ」
「別に」
「礼を言われるのが苦手なのは知ってる。でも言いたかった」
ユナが小さく「……うん」と言った。
階段の下から、料理の匂いが漂ってきた。
「朝飯だな」
「行く」
「待ってくれよ」
俺たちは並んで階段を下りた。
食堂に入ると、ガルドがすでに大きな杯のスープを前に座っていた。
「早いな、二人とも」
「眠れなかったから」
「ユナが先だ。俺は後から起きた」
ガルドが少し目を細めた。
「朝に二人で話してたのか」
「少し」
「そうか」
ガルドはそれ以上聞かなかった。ただ、口の端をわずかに上げた。
しばらくして、リリアが食堂に下りてきた。手にノートを持っている。
「おはようございます。
昨夜、石板の転写を清書しました。今日、木下さんに確認していただけますか」
「もちろんです」
リリアがノートを開いた。昨日の木の板に刻まれていた文字が、丁寧に紙に写されている。
「我、言葉もて世界を愛す——言霊師 木下」
改めて見ると、その文字の形が気になった。
日本語の「言」という漢字。「葉」という字。「愛す」という言葉。
崩れているが、確かに読める。
「この字体……かなり古い書き方をしていますね」
リリアが言った。
「現代の日本語の字体とは違う?」
「違います。もっと崩して、もっと丸みがある書き方です。でも、意味は同じです」
「三万年前に書かれたとして……その間に字体が変化したということ?」
「そうかもしれません。あるいは、書いた人が意図的に古い書き方を選んだのかもしれません」
古い書き方を選んだ。なぜそんなことを、と思う。
でも、考えてみれば——
もし未来の誰かに読ませようとして書いたなら、変化しにくい形を選ぶかもしれない。
「もしかして、この字体が最初の形で、現代の日本語がそこから変化していったのかもしれない」
俺が言うと、リリアが目を大きくした。
「逆方向の考え方ですね。言語が古代から現代へ変化していくのではなく、
古代の言語が現代に残った可能性」
「俺の言語の先祖が、三万年前にここで使われていた言語だとしたら……
俺がここで言霊を使えることにも、説明がつく気がする」
「木下さん……それは、非常に重要な仮説です」
リリアがノートに何かを書き始めた。
「記録します。後で詳しく聞かせてください」
「俺も正確なことは言えませんが、一緒に考えてみましょう」
ガルドがスープを飲みながら言った。
「俺には難しい話だが、お前たちが楽しそうにしてるのは分かる」
「楽しいですよ、本当に」
「良いことだ。知りたいことを知ろうとする人間は強い」
ユナが頷いた。
「同意」
四人の朝食が始まった。
パンが焼きたてで、外がカリッとしている。スープが温かい。
窓の外に、ダーレムの朝が広がっている。
今日から、新しい出発だ。
石板の謎。三万年前の言霊師。その先にある答え。
俺はまだ、何も知らない。
でも、知りたいという気持ちはある。
そして今、その謎を一緒に追いかけてくれる仲間がいる。
「今日の依頼、どうしますか?」
リリアが聞いた。
「ギルドに確認しに行きましょう。ここ周辺で古代遺構に関係する依頼があれば、
一石二鳥ですし」
「そうしましょう」
「食べ終わったら行くか」
ガルドが残りのパンを口に入れながら言った。
ユナが静かに食事を続けている。時々、俺の方を見る。
俺も時々、ユナを見る。言葉は交わさなくても、何かが伝わる気がする。
それが言霊の萌芽なのか、ただの気のせいなのかは分からない。
でも、悪くない朝だと思った。
「まこと」
ユナが俺を呼んだ。
「なんだ?」
「今日も、いい日にしよう」
「右」
「昨日より、もう少しだけいい日に」
「毎日そうしていこう」
「そうしよう」
ユナがパンを一口食べた。
食堂に光が差し込んでいる。
四人の影が、テーブルの上に重なって伸びていた。
――――
食事を終えて、四人でギルドへ向かった。
ダーレムの朝市が始まっていて、石畳の道に露店が並んでいる。
果物の山。香辛料の袋。手作りの道具。
いろんなものが並んでいて、歩くだけで飽きない。
ユナが果物の露店の前で立ち止まった。
昨日買ったサーベルフルーツの店とは違う露店だ。
「これ、なんですか?」
ユナが店主に聞いた。小さな赤い実が、山積みになっている。
「それはルビー・ベリーですよ。甘くて少し渋い。ジャムにするのに向いてます」
「そのまま食べられますか?」
「食べられますよ。渋みが少し残りますが」
ユナが俺を見た。
「食べてみたい」
「買おう」
俺が銅貨を払うと、店主が紙袋に入れてくれた。
ユナが一粒、口に入れた。
少し考える顔をした。
「……渋い」
「そう言ってたぞ」
「でも、後から甘い」
「ジャムにすると旨いらしいぞ」
「作れる?」
「俺には無理だ」
「リリアは?」
リリアが少し困った顔をした。
「料理は……あまり得意ではなくて」
「ガルドは?」
「野営での料理しかできん。ジャム作りは分からん」
ユナが少し考えた。
「宿の親父に頼もう」
「そんなことを頼めるのか?」
「聞くだけなら無料」
俺は笑った。
「そうだな」
ユナが残りのルビー・ベリーを袋ごと持って、歩き始めた。
「今日の夜、ジャムになってるといいな」
その言葉が、なんとなく好きだと思った。
今日の夜が楽しみになるようなことを、ユナは自然に作り出す。
俺はその背中を見ながら、改めて思った。
この世界に来て良かった。
コンビニの蛍光灯の下じゃ、こんな朝はなかった。
「まこと、遅い」
ユナが振り返った。
「今行く」
俺は歩みを速めた。
ギルドへの道を、四人で並んで歩いた。
朝の光が、石畳に降り注いでいる。
ダーレムの一日が、動き始めていた。




