第三節「ダーレムの宿」
夕暮れ前に、ダーレムの街門が見えてきた。
ユナの予言通り、雨は降らなかった。
空はオレンジ色に染まり、門の上に翻る旗が夕風にゆっくりと揺れている。
「こじんまりしているが、いい街だ」
ガルドが目を細めて言う。「昔、ここで仕事をしたことがある。
宿屋の親父が腕のいい料理人でな」
「どんな料理?」
俺が聞くと、ガルドは嬉しそうに答えた。
「猪の煮込みだ。ハーブをたっぷり使って、じっくり時間をかけて煮る。骨まで柔らかくなって、スープが旨いんだ」
ユナが小さく「食べたい」と言った。
リリアも、その言葉で少し表情が柔らかくなった。
ダーレムの街は、ガルドの言葉通りの規模だった。
大きくはないが、清潔感がある。石畳の道が整備されていて、
軒先に花を飾っている家が多い。
人々の表情も、余裕があって穏やかだ。ここは、生活が根付いている街だと感じた。冒険者ギルドも小さかった。
受付に座っているのは五十代の女性で、いかにも地元に根付いた風情だ。
「登録はエルムの里でしてある。活動登録の更新をお願いします」
俺が言うと、受付の女性は帳面を広げて確認した。
「木下真さんとユナさん、ランクFですね。更新は問題ありません」
スタンプを押してもらった。俺たちは宿を探した。
ガルドが案内してくれた宿は、街の中央にある「銀羽亭」という名前だった。
二階建ての石造りで、一階が食堂、二階が客室という構造だ。
「久しぶりだな」
ガルドが顔馴染みの宿主と挨拶を交わしている間に、俺は部屋を確保した。
男性二名で一部屋。
女性二名で一部屋。
リリアも同じ宿に泊まることになり、ユナと同室になった。
荷物を部屋に置いて、俺は食堂に下りた。
夕食の支度がされており、いい匂いがしている。
ガルドの言っていた猪の煮込みだ。大きな鍋が厨房に置かれており、そこから湯気が立ち上っている。
ハーブの香りが食堂全体に広がっていて、俺は思わず腹が鳴った。
席についてしばらくすると、ユナとリリアが並んで下りてきた。
「何か話してたのか?」
俺が聞くと、ユナは短く答えた。
「魔法の話」
「ユナ様の魔法の精度が、非常に興味深くて」
リリアが付け加える。
「下級回復魔法なのに、制御が完璧に近い。普通の術師ならもっと魔力が漏れるはずなのですが、ユナ様はほとんど無駄がない」
ユナは特に反応せず、席に着いた。
「まこと、今日は何を食べる?」
「猪の煮込みが楽しみだ」
そうこうするうちに、ガルドが戻ってきて四人で卓を囲んだ。
宿主が料理を運んできた。猪の煮込み。焼きたてのパン。野菜のスープ。それから地元産のエール。
「では、今日も無事だったことに」
ガルドが杯を上げる。
「乾杯」
俺も倣った。
ユナは杯を少し持ち上げるだけ。リリアはきちんと杯を合わせた。
猪の煮込みは、ガルドが言った通り旨かった。
骨まで柔らかく、スープが深い。ハーブの香りが複雑に絡み合っている。
「旨い……」
俺は思わず呟いた。
ユナが黙って二口目をすすっている。
こういう時のユナは、表情に微妙な変化が出る。目が少し柔らかくなる感じだ。
「日本の鍋に少し似てる」
俺がそう言うと、リリアが首を傾げた。
「ニホン? 先ほど、出身国の文字という話もされていましたが……」
「ああ、俺の出身の地域の言葉で、遠い国の名前です」
誤魔化し方はだいぶ慣れてきた。
「異国の出身なのですか?」
「まあ、そんなところです」
リリアは追求しなかった。
穏やかに頷いて、スープを一口飲む。
ガルドがエールを飲みながら言った。
「リリアさん、あんたは一人旅が多いのか?」
「基本的には。研究は一人でできることが多いので」
「仲間を作ろうとは思わなかったのか?」
リリアが少し考えた。
風の音がする。食堂の窓の外で、夜風が木の葉を揺らしている。
「……信頼できる人間を見つけるのが、難しいと思っていました」
それ以上は言わなかった。
でも、ハーフエルフとして、どちらの社会でも疎外されてきた人生が、その言葉の裏にある気がした。
俺は何も言わなかった。ただ、猪の煮込みをもう一杯すすった。
食事には、言葉より正直なものがある。
美味しいものを一緒に食べる。それだけで、少し近づける気がした。
――――
夕食が終わって、俺は食堂の隅でメモを広げた。
今日見たリリアのメモ。あの文字。
日本語に似ているが、違う。何かが、引っかかっている。
完全に日本語じゃない。でも、全く別の文字でもない。
どこか中間にあるような、不思議な文字列だった。
リリアが静かに俺の隣に来た。
「まだ起きていたのですか」
「少し、考えることがあって」
「あのメモのことですか」
俺は顔を上げた。
「分かりましたか」
「表情を見ていれば。木下さん、あの文字を見た時、動揺していました」
鋭い人だ。俺は少し迷ってから、正直に言うことにした。
「あの文字……俺が書く文字と、どこか共通点があるような気がして」
「どういう点で?」
「線の形。組み合わせ方。文字の雰囲気、と言えばいいのか」
言葉にするのが難しい。でも、確かにそう感じた。
同じ根っこから来ているような感覚。
「……木下さん」
リリアが、俺の目を見た。
「なんですか」
「明日、少し時間をいただけますか。お見せしたいものがあります」
リリアの目が、真剣だった。
「俺に関係することですか」
「関係するかもしれない。でも、確認してみないと分からない」
俺は頷いた。
「分かりました」
リリアが席を立つ前に、一言だけ付け加えた。
「今日、拾っていただいて……本当にありがとうございました。お礼を言いそびれていたので」
「拾ったというか、通りがかっただけです」
「それでも。私が大事にしているものを守れたのは、皆さんのおかげです」
リリアが二階へ上がっていった。
俺はメモを片付けた。
その夜、なかなか眠れなかった。
言霊師。
三万年前の種族。日本語に似た古代文字。これらが、どう繋がるのか。
天井を見ながら考えていると、「まこと」と声がかかった。
隣の部屋の壁越しから、ユナの声だ。
「眠れない?」
「お前も起きてたのか」
「……少し」
しばらく沈黙があった。
「明日のこと、気になる?」
「右。リリアさんが何を持ってるのか」
「リリアは信じていい人」
ユナがそう言った。
「なぜ分かる?」
「目を見れば分かる。あの人の目は、嘘をつかない目」
俺は笑った。
「ユナは人を見る目があるよな」
「まことが分かりやすいだけ」
「それはどういう意味だ」
返事はなかった。
もう寝てしまったのかもしれない。俺は目を閉じた。
あの文字のことを考えながら。
そして、明日のことを考えながら。
眠りに落ちていった。




