File.XXXVⅢ That depends a good deal on where you want to get to
この世界に来てから、一年以上の時間が過ぎた。
この春、桃音──透子は、通信制高校に入学した。
「全日制に行った方が、オトモダチが出来て楽しいぞ?」
千秋はそう勧めてきたけれど、透子は頑として譲らなかった。
大好きだった陸上は、もう出来ない。
銃で撃ち抜かれた脚は、日常生活で困ることはないけれど、全力疾走は出来なくなった。
そのうえ、千秋から、元の世界の話をする時は気をつけるように言われていた。
たとえば、この世界にはまだスマホがない。
大好きだったバンドグループもいないし、小さい頃に見たテレビ番組だって存在しない。
何を話してよくて、何を話してはいけないのか。
考えながら話すのは、ひどく気疲れしそうで、いっそ誰とも話さないのが一番なのではと考えた。
そういう意味で、通信制高校はとてもよかった。
授業は、動画の視聴とレポート提出のみ。
年に二回、数日間の対面授業に参加する必要はあったものの、それ以外は誰とも会話することなく学習を進めることができる。
ここが異世界だという実感は相変わらずないけれど、目の前の教科書は容赦ない現実を突きつけていた。
歴史が、違う。
この世界は、生まれた世界と基本的には同じだった。
日本語、数学、英語、中学までで習っていた理科だって同じだ。ただ、社会科は違った。
いっそまったく違えばよかったのかもしれないけれど、年号や人の名前、地名がほんの少しだけ違うから、かえって混乱した。
おかげで、社会科のレポートやテストは毎度かなりの苦戦を強いられている。
この日も、スクーリングに参加していた透子は、会場近くのカフェで昼休みを過ごしていた。
自分から積極的に話しかけないせいもあり、昼休みを一緒に過ごすような友達もいない。
そのほうが、気楽でよかった。
昼休み明けの授業は日本史だ。あてられないことを祈りながら、パンケーキを口に運ぶ。
チェーン店の少し薄いパンケーキは、まずくはないけれど、千秋の作る厚くてふかふかしたもののほうがおいしい。
こちらに来たばかりの頃は、食欲のない透子のためによく作ってくれたけれど、最近はあまり作ってくれなくなった。
(お願いしたら、作ってくれるかな)
そんなこと考えながら、最後の一口を飲み込んだ時、それは起きた。
「このくそ暑い日に、ホットなんか頼むわけないだろうが」
隣の席のサラリーマンが声をあげた。
店内の空調は快適だけれど、季節は夏の入口。陽射しも強い。
「申し訳ございません。すぐにお取り替えいたします」
「ふざけんなよ。昼休みが終わっちゃうよ。どうしてくれんの? こんなとこで店員やってるお前と違って、こっちは忙しいんだよ」
言い募る男に、透子は苛々とする。
なにより、注文する時から、男は横柄な態度だった。
コーヒー、とひと言だけ言って、ノートパソコンを取り出していた。
店員の「ホットですか?」と確認する言葉に、「早くして」とだけ答えていたのも耳にしていた。
「やっすい給料で働いてるお前と違うんだからさ」
男の言葉に、さすがに店員の女性も腹に据えかねたのか、「ホットでよろしいか確認したのですが」と口にする。
それが逆鱗に触れた。
男はよりによって、カップのコーヒーを女性目がけてぶちまけようと腕をあげた。
「あのっ」
思わず口を挟んだ。
しまった、と思ったけれど、後に退けないとも思った。
「お姉さんはホットでいいか確認してました。あなたが、早くしてって言って、アイスコーヒーですって訂正してなかったです」
「は? おれに言ってんの?」
心臓がぎゅっと縮こまる。
手錠で繋がれているわけでも、密室でもない。それでも、大人の男の怒気を向けられ、口を噤みそうになる。
でも、悔しさや腹立たしさのほうが上回った。ここで引き下がるのは、嫌だった。
透子は手を握りしめて、もう一度口を開く。
「そうです。お姉さんは悪くないです」
店内はシンと静まりかえって、事の成り行きを見守っている。
それでも、誰かが助けてくれそうな気配はない。
自分で、どうにかしなくてはいけない。
睨み付けてくる男に負けないように、透子も相手を睨み返す。
「くそガキが。生意気なんだよ」
男が透子めがけてカップをぶちまけようと腕を振り上げる。
息を呑んで目を瞑る透子の瞼の向こうに影が差した。
「大人げないですよ」
声がして、そっと目を開ける。
濃いグレーのスーツの背中があった。
それが、彼との出逢いだった。
割って入った彼に気圧されるように、文句を言っていたサラリーマンはそそくさと店を出て行った。
店員のお姉さんが丁寧に謝ってくれるのに恐縮していると、彼は呆れを滲ませたように息を吐くと、「やたらと首をつっこむと危ないよ」と窘めた。
どうやら、彼は店の外にいたらしく、硝子越しに異変に気づいて入店したらしい。
事の成り行きがわからなくても、大の男が少女に向かってカップの中身をかけようとするなんて尋常ではない。
それですぐに、割って入ってくれたとのことだった。
「でも、きみが居てくれてよかったよ。おかげで彼女も珈琲をかけられずに済んだしね」
男の言葉に、店員の女性も力強く頷いて、その日のランチをご馳走してくれた。
『きみが居てくれてよかった』
その言葉は、透子にじんわりと染みこんだ。
この世界に来てから、身の置き所にいつも少し困っていた。
どこに居ても、誰と居ても違和感があった。
千秋は幾度となく「ここに居ていい」と言ってくれたけれど、「居てくれてよかった」と言ってくれた人は誰もいない。
たった、それだけで? と笑う人もいるかもしれない。
でも──ここに居るくらいは許されるかもしれないと思えるようになったのは、間違いなく彼のお陰だった。
その日から、もう一度会いたくて、スクーリングが終わってからも何度かそのカフェに足を運んでみたけれど、彼とは会えないまま高校を卒業した。
彼との再会は、画面越しに、しかもこちらからの一方通行だった。
千秋に頼まれるままに、防犯カメラをハッキングしたり、企業のサーバーから情報を抜いてくるのがすっかり当たり前になった頃のこと。
いつものように、千秋の依頼でハッキングしたカメラの画像。
そこに、あの人が居た。
盗聴器も仕掛け済みだったのか、いくつかのカメラからは音声も拾うことができた。
彼の、声だ。
その時の千秋の依頼は、いつもと少し違っていた。
特定のカメラの画像以外は見てはいけない。そういう指示だった。
「他の場所もハッキングできるし、監視だって手伝えるのに」
その建物の中には、普通よりもたくさんのカメラが設置されていた。
管理システムは一カ所で一括して行われていたから、透子にしてみれば簡単な作業だった。
「監視はこっちの仕事よ」
「手伝えるのに」
口を尖らせて訴える。
本当は、全部のカメラを常に確認しておけば、彼の動向も見られるかもしれない。
そんな下心からの言葉だった。
「あら、お手伝いがしたいの?」
子ども相手にでも言うように、けれどどこか見透かすように千秋が喉の奥で笑う。
「ちーちゃんのそれは、使い分けてるの?」
「それって?」
「女言葉」
近頃、千秋はよく女言葉で話す。
始めの頃は、そうなんですのよ、なんて、ちょっとよくわからない奥様言葉になっていることもあったけれど、最近ではすっかり板についていた。
「今は、使い分けってほどのことはしてない。日頃から使ってる方が自然に使えるからやってるだけだ」
「でもさ、でなくていい時に出たら困らない?」
「それをやらかすなら二流ってことだな」
「……ちーちゃんは一流ってこと?」
「一流になれるように努力してるんじゃない。我ながら努力家だわぁ」
軽い調子で答える千秋に「誤魔化されてる気がする」と膨れると、千秋は仕方なさそうに笑った。
「なら、こうしましょ。指定した場所だけは好きな時に見ればいいわ。でも、そこ以外はアクセスしない。──絶対に、よ」
千秋は、「ルールを守れないおこちゃまなら、仕事を任せられないわ」と真剣な目で続けた。
そのお手伝いで、透子は『彼』が男に口説かれるのも、キスをするのも目撃した。
女とキスした後に、ひどく不快そうに唇を拭ったのも、舌を打って「気持ち悪い」と呟いたのも。
失恋した。そう思った。
なにひとつ始まっていたわけでもないし、あのカフェ以来一度も直接会えてはいなかったけれど、千秋にそれとなく了承をとって、この建物の近くに行ったら彼に会えるんじゃないかと考えていたのに。
数日後、透子は千秋との約束を破って、その建物のすべてのカメラにアクセスした。
建物が爆発したからだ。
暇に任せて、防犯カメラ以外のシステムにもアクセスして覗き見ていたのが功を奏し、防火扉を開け閉めして、火の勢いから彼を庇いながら、外に逃がすことに成功した。
失恋はしたけれど、恩返しはできた。
それで、全部を終わらせたつもりでいた。
「君への気持ちはきっと一目惚れだと思うんだ」
彼が『川村』として、目の前に現れるまでは──。




