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ここ数週間、妹のルミナの様子がおかしかった。
「ふふ。 アスタからお土産もらっちゃった……!」
今も自室の机で、人間の街で流行っているらしい紅茶を淹れて、嬉しそうにはにかんでいる。
魚人の国において、「七色(混色)」の目を持つルミナは周囲から不当に扱われてきた。
俺がどれほど『藍色』の瞳を持つ者として国の役目を果たし、彼女を守ろうとしても、周囲の冷たい視線が彼女の心を常に曇らせていた。
それなのに、最近のルミナは、まるで水面に差し込む朝日のように生き生きと輝いている。
(誰だ……『アスタ』とは、一体何者だ)
不審に思った俺は、ある日、静かにルミナの後を追った。
ルミナが向かったのは、我ら魚人が滅多に近づかないはずの、人間の領域である陸の海岸だった。
岩陰に身を潜め、海風の向こうへ視線を走らせた俺は、思わず目を見張った。
そこにいたのは、ルミナと、見慣れない人間の女だった。
二人は並んで座り、人間が取り出した何やら大きな箱から食べ物をつまみながら、実になじんだ様子で笑い合っている。
(人間だと……!? 危険だ、ルミナが人間に騙されている!)
胸の奥に、焦燥が広がった。
人間など、魚人の美しい瞳を狙って襲ってくる強欲な存在でしかない。
己の瞳が、警戒で一気に険しさを増す。
今すぐ乱入してルミナを引き離すべきか。
しかし、あまりに無防備に笑うルミナの笑顔を前に足が鈍り、しばらく岩陰から様子を見ることにした。
万が一、あの人間が牙を剥けば、その瞬間に仕留める。
そう自分に言い聞かせ、影から二人の逢瀬を監視し続けることが、いつしか1ヶ月程もの間、俺の張り詰めた日課になっていた。
――だが、今日の会話は、看過できる一線を越えていた。
「……私みたいに色がたくさん混ざっている『七色』の目は、力が弱くて、出来損ないって嫌がられるの……」
「ええっ!? じゃあ何!? 私のこの、光を全部吸い込んじゃう真っ黒な魔女の目、もしかして魚人の国に行ったらもてはやされちゃう感じなわけ!?」
ルミナが、我が一族の情報をペラペラと話している。
それだけならまだしも、あのアスタという人間は「今すぐ魚人の国に移住しちゃおうかな!」などと笑い飛ばしたのだ。
(移住だと……!? これ以上、あの人間が我らの国に興味を持ち、深く関わってくるのは危険すぎる)
人間の探究心や欲に火がつけば、隠れた少数人数の国の平穏なんて一瞬で崩壊する。
アスタとやらがこれ以上、魚人の国に興味を持たないよう、ここで明確に釘を刺し、引き下がらせねばならない。
俺は、ルミナがいつものように海へと帰るのを待ち、あのアスタという人間が一人になったタイミングを見計らって、その前に立ちはだかった。
「……おい、人間」
低く冷徹な声が周囲の空気を一瞬で凍りつかせる。
強大な魔力が漏れ出ているのか、海風さえもピタリと止まり、辺りには息苦しいほどの威圧感が立ち込めていた。
「私の妹に、これ以上気安く近づくな。これ以上は、我ら兄妹の話であり、魚人の国の問題だ。部外者であるお前が首を突っ込むようなことは、二度と考えるな。……命が惜しければ、今すぐ消えろ」
二度とこちらの世界に興味を持つなという、非情な通告。
これで人間は恐怖し、引き下がる――はずだった。
しかし。
目の前の人間の女――アスタは、俺の放つ圧倒的な殺気と魔力を前にして、怯えるどころか、全く気にする様子もなく、スッと背筋を伸ばしたのだ。それどころか、あえて私の瞳をまっすぐに見つめ返し、毅然と言い放った。
「言いたいことはそれだけですか? 悪いけど、ルミナは私の大事な友達なんです。誰に何を言われようが、私たちはこれからもここで会うし、お喋りもするわ」
「……っ」
俺は、ほんの僅かに眉をひそめた。
自分に堂々と意見する人間が存在すること自体が計算外だったが、何より、至近距離からこちらを射抜いた彼女の瞳に、かすかな違和感を覚えた。
それは、光のすべてを底なしの深淵へと吸い込んでいくような、完璧なる【漆黒】。
一色(単色)の濃さこそが尊ばれる我が魚人族において、混じり気が一切ないこの圧倒的な『黒』は、古い文献や伝説にしか存在しないとされる【究極の単色】である。
だが、これは人間だ。
ただの、光を持たない濁った黒に過ぎないはずだ。
それなのに、なぜこれほど引き込まれるような深みがあるのか。
(……なんだ、この人間の目は。なぜ、これほど……)
湧き上がる奇妙な疑問に、視線が一瞬だけ、彼女の瞳に縛り付けられる。
「アスタ、忘れ物しちゃ――ってネヴィスお兄ちゃん!?」
その時、波音が響き、一度は帰ったはずのルミナが血相を変えて戻ってきた。
俺と人間の張り詰めた空気を察したルミナは、後ろめたそうにしながらも焦った様子で俺を睨みつけた。
「お兄ちゃん、内緒にしていてごめんなさい。でもひどいこと言わないで!! アスタは私を助けてくれた、とっても優しいお友達なの!」
「ルミナ、言い訳は後で聞く。人間に近づくな。私はお前を危険から……」
「なんで聞いてくれないの?お兄ちゃんの分からず屋!!」
妹を悲しませるつもりはなかった。
冷静に諭そうと言葉を紡いだが、ルミナはさらにポロポロと涙をこぼし、俺の弁明を聞こうともせずアスタの背中に隠れてしまう。
ルミナは元来、純粋で心優しい性格だ。
予期せぬ妹の涙。
これ以上ここで問答を続けては、ルミナの心をさらに傷つけ、頑なにさせるだけだ。
何より、目の前のアスタという人間に、これ以上こちらの動揺を悟られるわけにはいかない。
「……これ以上の問答は無意味だな」
俺は乱れかけた思考を瞬時に抑え込み、冷徹な氷の仮面を貼り直した。
アスタへと冷ややかな一瞥をくれる。
「だが人間、忠告はしたぞ」
それだけ言い残すと、俺はあくまで冷静な態度を崩さぬまま、逃げ回る妹の手を何とか掴んで海へと飛び込み、その場を後にした。
冷徹に釘を刺そうとした俺の目論みは、アスタの予想外の強い意志と、その奇妙な瞳の残像を脳裏に残したまま、静かな一時退散に終わったのだった。




