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冷たい石床の感触と、全身を苛む激痛。



どこかの地下牢に囚われた俺は、魔力を奪う呪符のせいで、指一本動かすことすらままならずにいた。



魚人の瞳は、鮮度の高いうちに加工しなければ価値が落ちる。

だからこそ奴らはぎりぎりまで俺を生かしているが、それも時間の問題だ。



だが、悔いはなかった。ルミナが逃げ延びてくれた。アスタの元へ。

あいつなら、絶対にルミナを見捨てない。根拠のない、しかし確固たる信頼が俺の胸にはあった。



その時、地上から「ズガァァァン!」と、ここ地下まで揺れるほどの凄まじい地鳴りが響いた。

何事だ。敵の襲撃か? だが、この地響きは尋常ではない。

まるで天災が拠点を踏み荒らしているかのようだ。



やがて、通路の奥から微かに甘い香りが漂ってきた。



見張りの男たちが「なんだこの煙――」と声を漏らした直後、肉体を打突する鈍い音が響き、男たちが崩れ落ちる気配がした。



「ふぅ……私だって少しは薬草に詳しいんだから。人間に効く眠り香よ!…… ざまあみろだわ!」



牢の前に現れたのは、フードを被った小柄な影。

松明の光に照らされたその横顔を見て、俺は息を呑んだ。



「アスタ……? なぜ、お前がここに……ルミナ、は……」


「お兄ちゃん!」


「ルミナ……無事、だったか……」



姉のようにルミナの手を引くアスタの姿に、俺は自分の目を疑った。



ただの人間であるはずの彼女が、なぜこの最奥の監獄まで潜入できている?



アスタとルミナの服や頬は、ドロドロの地下水路を這い進んできたせいで酷く汚れていた。呼吸も荒い。



普通なら怯えて足がすくむような闇と悪臭の中を、この少女はただ、俺を助けるためだけに、必死に駆けてきてくれたのだ。



アスタは俺の痛々しい傷跡を見て、その綺麗な瞳に激しい怒りを宿した。



だが、すぐに小さく首を振って冷静さを取り戻し、牢の魔導錠に向き合った。



「人買いの分際で、嫌らしい罠を仕掛けるじゃない……。でも、この程度の術式パズルなら、お母さんの本にあった基礎問題の応用よ!」



アスタは小さく呟きながら、信じられない手際で魔導錠の複雑なパズルを紐解いていく。



その細い指先は微かに震えていた。怖いのだ。



当然だ、彼女は戦闘能力のないただの人間なのだから。



それでも、俺を救うために必死に頭脳をフル回転させている。

パキィンと音がして、解錠困難と思われた魔導錠が鮮やかに開かれた。



「やったわ!」



そしてアスタが俺の呪符を剥がそうと、迷わず牢内に飛び込んでくる。



――だが、その瞬間だった。



「アスタ、後ろっ!! 撃たれるっ……!!」



少し後ろに控えていたルミナの、悲鳴のような叫び声が地下牢に響き渡った。



見れば、気絶していたはずの見張りの一人が、死に体に鞭打って魔術銃の銃口をアスタの背中に向けていた。

パチパチと凶悪な電撃が凄まじい速度で集束していく。



「――っ!」



アスタはルミナの声にハッと振り返り、確実にその凶器を視界に捉えた。



逃げる時間は、あったはずだ。

左右のどちらかに飛び退けば、彼女だけでも確実に攻撃をかわせるだろう。



しかし、アスタは逃げなかった。



それどころか、彼女は両手を大きく広げ、まだ身動きの取れない俺を覆い隠すように、その小さな背中で立ちはだかったのだ。



(何をしている……っ!? 避けろ、アスタ……!!)



声にならない悲鳴が喉の奥で爆発する。



魔力もない、ただの人間の少女が、直撃すれば命に関わる電撃魔法を、俺を庇うためだけにその身で受け止めようとしている。



恐怖に身を竦ませながらも、その瞳には「絶対にどかない」という、強い意志が宿っていた。



バチィィィン! と激しい放電音が鳴り響き、引き金が引かれようとした、その刹那――。



「おやおや、うちの可愛い娘に、随分と物騒なものを向けるじゃないか」



風すら置き去りにする速度で、アスタと銃口の間に滑り込んできた影――アスタの父親だ。



男は笑顔のまま、見張りの手首を軽く叩いた。



それだけで、一級品の魔術銃が粉々に砕け散り、見張りは衝撃で今度こそ完全に意識を失った。



寸前のところで父親に救われ、「へ……?」と間の抜けた声をあげて床にへたり込むアスタ。



その姿を見つめながら、俺の心臓はこれまでにないほど激しく警鐘を鳴らしていた。



(こいつは……バカなのか……!?)



己の無力さも顧みず、誰かのために平気で盾になろうとする。

あの時、父親が来なければアスタは確実に無事では済まなかった。



どこまで優しく、どこまで無鉄砲で、どこまで危なっかしい少女なのだろうか。



さらに、その後ろから平然と歩いてくる母親からは、以前感じた以上の底知れない魔力の揺らぎが感じられる。



この夫婦、やはりただの田舎者ではない。

おそらく、表に出れば世界の勢力図を塗り替えかねないほどの怪物級だ。



しかし、アスタは全く気づいていない様子で、「お父さん、お母さん! 無事で良かった……!」と、涙を浮かべている。



違う。この親たちは、必死の足止めどころか、地上にいた連中を文字通り『全滅』させてここにいるのだ。



だがそれ以上に、俺の胸を強く打ったのはアスタのその姿だった。



さっきまで自分が撃たれそうになっていた恐怖など、もう頭からすっかり抜け落ちているのだろう。



ただただ、大好きな両親が怪我もなく無事だったことが嬉しくて、ボロボロと大粒の涙を流して安堵しているのだ。



そして、その眼差しは俺へも向いている。



ルミナを、里の仲間を、そして俺の命を救ってくれた恩人。



しかし同時に、自分の危うさにはどこまでも無自覚な、放っておけない、人間の少女。



まだ魔力の影響でかすむ視界の向こうで、アスタが立ち上がろうとしてふらりと足元をよろめかせた。



その瞬間、俺は自分でも無意識のうちにボロボロの腕を伸ばしてアスタの身体を支えようと手を伸ばしていた。

結局、俺の身体が動くより先にアスタの父がその背中を支えたが、俺の手は虚空を掴んだまま、しばらく微かに震えていた。



「お父さん、お母さん、他にも捕らえている人たちがいるわ! 私はルミナとこの人たちを逃がす。疲れているかもしれないけど、悪い人たちはまとめて縛り上げて警備隊に突き出しちゃおう! もうちょっと手伝ってくれる?」



アスタの的確な指示に、怪物夫婦は「さすがアスタだね」「勿論だわ!」と嬉しそうに頷き、嬉々として悪党どもを縛り上げていく。



俺はアスタの父に肩を借りながら、前を歩くアスタの後ろ姿を見つめていた。



ルミナと笑いあう、泥だらけの小さな背中。



最初は大切な妹にちょっかいを出している怪しい人間だと思っていた。

何度突き放しても笑いかけ、見返りなど一度も求めず、ただルミナを、そして俺たちを案じ続けた少女。



あの時から、俺は少しずつ彼女という人間が気になっていたのかもしれない。

なのに、今は、誰よりも気高く、美しい――。



「さあネヴィスさん、終わったらうちで美味しいハーブティーを飲んで、ゆっくり休んでね!」



振り返って、太陽のように笑うアスタに、俺は胸の奥が熱くなるのを感じながら、静かに、しかし心を込めて言葉を返した。



「……あぁ。感謝する、アスタ」



きっと、この先も俺は、この少女に何度も救われるのだろう。





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