契約の楔
「どうして俺が…椎名虎太朗だと…?」
剣菱邸に向かうリムジンの中、メイドたちに簡単な手当を受けながら鵺⸺虎太朗は愛美に問いかける。
「吸入器…忘れていったでしょ…?それに…。」
愛美は目を閉じながら言葉を続ける。
「あのときの吸い方でわかった。お薬を少しでも漏らさないようにすぐに吸い込むんだって、コタちゃん言ってた…。あれから20年も経ってても覚えているもんだね…。」
覚えていた。覚えていてくれた。そんな小さな⸺些細な癖を。虎太郎の胸に熱いものが去来する。
雲雀はそんな二人をチラ、と見ながら冷酷に淡々と言葉を発した。
「恋人ごっこもいいけど…家に帰って契約書にサインしたらお前たちは私の物だよ?例え僅かな休息の時間であっても交わることは許さない。分かってるんだろうね…?」
その言葉に愛美は目を伏せたが⸺
「分かっています。助けていただいた分はしっかりとお返しします。」
そう毅然と返した。
雲雀はまた一つ大きな欠伸をすると、
「言い換えれば、だ。家に着くまではお前たちは自由ってこと。言わせるんじゃないよ、全く…」
と視線を虎太郎に移した。
暫しの間。
虎太朗は愛美を抱き寄せると震える唇をゆっくりと塞ぐ。
「待っ…」
愛美は制止しようとしたが、虎太朗はただただ愛美を堅く抱きしめて口づけを深くしてゆく。
雲雀も、メイドたちもそれを黙って見ている。
やがて舌が絡み合い⸺吐息が荒くなる頃には愛美はすっかりと抵抗をやめ虎太朗を受け入れていた。
「…ッは…。」
唇が離れ大きく息をつくと、虎太朗は涙の滲んだ愛美の瞳に、そして未だ震える指先にキスを落としていく。
「何も心配いらない。俺の気持ちに変わりはないし何より…愛美、お前と一緒にいられるのなら本望だ。」
虎太郎の言葉に愛美の目に再び涙が溜まってゆくが、愛美はそれをカーディガンでぐい、と拭い雲雀にこう言った。
「覚悟はできました。至らぬこともあると思います。でも…やれることは何でも。」
雲雀はそれを聞くと一言、
「あ、そ。まあせいぜい頑張ることだね…」
そしてリムジンは剣菱邸へと消えていった。
広い邸宅の一室。先代剣菱家当主の書斎に二人は通された。机には2枚の契約書。
「これにサインをしたらもうお前たちは私のもの。そうそう、スマートフォンも没収。専用端末を持ってもらう。以前盗みを働こうとした不届き者がいたのでね…最後に連絡したい者がいれば今のうちに。」
淡々とそう言って雲雀は、
「じゃ。あとは任せた。」
と白鷺に言って自室に引き返していった。
愛美はメッセージアプリを開き、佐江にメッセージを送る。
「ごめんなさい。しばらく会えなくなります。でもわたしは大丈夫だから。」
それを送信してすぐに電源を切り、スマートフォンを白鷺に渡す。
虎太郎は暫し逡巡して⸺誰にもメッセージを送ることなく白鷺にスマートフォンを手渡した。
白鷺は悲哀を含んだ目で二人を見て口を開く。
「愛美さん…お嬢様に掛け合えば、或いは⸺いえ、万に一の確率ですが…」
愛美はゆっくりと首を横に振るとこう返した。
「いいんです。最愛の人と一緒にいられるのなら…」
その目にもう迷いはない。
白鷺はふう、と息をつくとこう答えた。
「分かりました。ではサインを。」
契約書の署名欄に二人の名前が刻まれてゆく。
ゆっくりと、確かに。
白鷺はそれを見届けると内線をかけ⸺程無くして初老の女性が姿を表した。
白鷺が口を開く。
「メイド長の鶴峯です。愛美は彼女から一切のことを習うように。虎太郎は私についてきなさい。」
つい数分前までつけられていた敬称も外れた。それは二人が剣菱家の家具へとなった証でもあった。




