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微かな記憶と踏み出した一歩

いつまでそうしていただろうか。

愛美はふらふらと立ち上がると汗まみれの身体を清めようとバスルームへ向かう。

顔中涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながらも1歩ずつ⸺足を引きずるようにして歩いていたその時だった。

コツン、と何かが愛美の足に当たる。白いボディに青いキャップのそれは⸺かつてどこかで見たことのある吸入薬。

「鵺…忘れ物…?」

ぽつりと呟いたその時だった。本当に微かな記憶が愛美の脳裏をよぎる。

「これ、僕のだいじなものなんだ…。ゼーゼーを止めるお薬…」

そう言って小さな手を開いて見せてくれたのは⸺

「コタちゃん…?」

愛美の頭の中でパズルのピースがはまるかのように断片的な記憶が組み立て上がってゆく。

が、愛美はその薬をテーブルに置いて一言。

「まさか…ね。あの子がこんなお仕事するわけないもん…」

そう独りごちると愛美はバスルームへと消えていった。


ほぼ同時刻。

鵺は夜鷹に連れられてとある豪邸の前にいた。

「ここか…?」

顔をしかめる鵺に夜鷹は軽く笑うとこう答えた。

「そ。俺のお得意様。元々は烏のお得意様だけど、一人じゃ満足できないんだとさ。で、たまにこうして梟には内緒でお手当頂戴してるってわけ。羽振りはいいぞ?一回で100万、ぽんと寄越したこともある。」

その言葉に鵺は思わず生唾を飲み込む。

「けどこれ、梟にバレたら俺もお前もただじゃ済まないぞ…?インソムニアの掟。顧客の共有は代打以外は許されない…。違うか?」

鵺の言葉に夜鷹はフン、と鼻を鳴らすとこう返した。

「日和ってんのか?金が必要なんだろ?可愛い可愛い愛美ちゃんとずっと一緒にいたいんだろ?だったら腹括れよ。」

愛美の名前を出されて思わず鵺は夜鷹を睨みつけたが⸺意を決してその豪邸のインターホンを押した。


中から出てきたのは70代くらいだろうか。白髪の紳士。

「お待ちしておりました。お嬢様がお待ちです。」

その紳士はそう言うと鵺と夜鷹を屋敷内に誘う。

過度な装飾。至るところにある下品なまでの高級な置物。鵺が思わず顔をしかめると、夜鷹は小さな声でこう言った。

「顔に出すな。お嬢様はな、気難しいんだ。気に入られなきゃ話はパアだぜ?」

そうしているうちに紳士はとある一室の前で歩みを止め、一言。

「ごゆるりと。お手当は用意してございますので。」

そう言って去って行った。

夜鷹がその重厚な扉をノックする。

「開いているわよ」と中から女性の声。

夜鷹がドアを開けるとそこには、年齢にして40代くらいだろうか。チャイナドレスに身を包んだ女性が豪華なベッドに腰掛けていた。


「夜鷹。その子…?新しくお手当がほしい子は…」

女性が1歩ずつ近づいてくる。鼻孔にむせ返るほどのムスクの香り。

夜鷹は女性に傅くと、一言。

「そうです。雲雀お嬢様。こちらは鵺。腕は俺と遜色ありません。」

女性⸺雲雀は鵺に近づくと手に持っていた扇子で鵺の顎をクイ、と上げる。

美しいが⸺どこか毒気を持った眼差し。雲雀は鵺の顔を品定めするように見ると一言。

「気に入ったわ。どう楽しませてくれるのかしらね…?」

そう言って高笑いする雲雀を鵺はただ見つめていた。

脳裏を愛美の優しい微笑みがよぎる。

だが、始まってしまったのだ。引き返すことはできない。

鵺は夜鷹と同じように傅くと、一言。

「雲雀お嬢様。どうぞお心のままに。」


外はざわざわと風が吹き、屋敷内の植栽を揺らす。

そのざわめきはまるで鵺の心模様と共鳴しているようであった。

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