Insomnia
時刻は23時を少し回ったところ。
烏はバー Moonlightのドアを開けてそのまま地下に続く階段を降りていく。
そこには細い月にフクロウの装飾が施された木製の重厚な扉があった。細い月に刻まれたInsomniaの文字。
ここがインソムニアの本部であった。
烏がドアを開けるやいなや⸺待ち構えていた梟に喉元を掴まれ壁に叩きつけられる。
梟は怒りの滲んだ目でもがく烏に向かってこう言った。
「烏。我々の存在意義はなんだ?」
烏は何とか答えを返そうとするが、喉元を抑えつけられぱくぱくと口を動かすことしかできない。
と、その時古めかしい電話の置かれたカウンターからケタケタと笑い声が聞こえた。
「兄さん…それじゃ烏は喋れないよ。せめて手を離してやったら?」
そこには髪を青く染めた青年が面白そうに笑っている。
「青葉梟か。報告のメッセージをお前も読んだだろう?」
梟はそう言いながらもほんの少し烏を掴む手を緩める。
青葉梟と呼ばれた青年は軽い足取りで烏のもとにやってくると彼の被っていた帽子をひょい、と奪いさりこう言った。
「烏くんさぁ…代打とはいえお客さんだよ?泣かせて吐かせた?減給じゃ済まないかもね?」
クスクスと面白そうに笑う青葉梟に対して烏は咽ながらも吐き捨てるように一言。
「この間は…ッ、他の客でうまく行ったんだよ!!だから…!!」
そこまで言ったときだった。
インソムニアのドアが開き、鵺が入ってくる。
その光景を見た鵺は弾かれたように踵を返すとそのままバーMoonlightを飛び出し、夜の道を走って行った。
「鵺…まあいい。今は顧客もいない。好きにさせておくか。」
梟がそう言うのを聞いた青葉梟はさも愉快そうに笑いながら一言。
「兄さんも本当に甘いよね…」
鵺は月が煌々と照らす夜道をひた走る。
何度も通った愛美の家に向けて一直線に。
途中、息が上がりヒュ、という音が漏れるがそんなことには構っていられない。
30分ほど走ったであろうか。
鵺は汗だくで愛美のアパートへと到着した。
チャイムを押すのももどかしく、ドアノブに手をかける。鍵はかかっていない。
鵺はそっと音を立てずにドアを開けると⸺そこには泣きながら吐瀉物の掃除をしている愛美の姿があった。
「愛美…!!」
鵺は靴を脱ぐのも忘れ愛美に駆け寄る。
愛美は虚ろな目でその姿を確認すると、
「鵺…?あは…来てくれたんだ…」と薄く微笑む。
頬に残る涙の痕。鼻につく吐瀉物独特の胃液の匂い。
鵺はそのまま愛美のもとに歩み寄り、震える身体を抱きしめた。
「待って鵺…私その…吐いちゃって…汚いから…!」
愛美は慌てて鵺を振りほどこうとするが、抱きしめるその両腕には力がこもってゆく。
「ねえ鵺!?待って、話を⸺」
そこまで愛美が言ったとき、鵺は腕の力を緩め頬に残る涙の痕を舌でぬぐい去り、そのまま愛美に口づけた。
最初は軽く唇をあてているだけだったがそのうちにそれは深くなり、愛美の口内に熱がこもる。
二人の吐息が荒くなる。
愛美は最初こそ微かな抵抗をしたものの⸺待ちわびていたその男の感覚に溺れていった。
二人の唇が離れる。
頬を赤く染めた愛美に鵺は一言。
「ごめん…。行けなくて…。烏が君にひどいことしたって…聞いた…。」
唇を噛み悔しそうに目を伏せる鵺を見て、愛美の目に再び涙が滲んでゆく。
「違う…違うの…烏さんは…相性が悪かっただけ…心配いらないから…。鵺は…っ…私だけの鵺じゃあないもんね…?」
その言葉を聞いた鵺は再び愛美をぎゅっと抱きしめるとその髪を撫で、何度も小さな声で「ごめん…」と繰り返す。
それを聞いた愛美はとうとう堪えていた涙が溢れ、しゃくりあげながら鵺に気持ちを打ち明けた。
「嫌だった…!!鵺が他の誰かを抱いてることを想像するのも…鵺以外に抱かれるのも…!!わかってる、私は一人の客に過ぎないって…!!でも…っ…でも嫌だった!!嫌だったよぉ…鵺…」
愛美の悲痛な叫びが鵺の胸に突き刺さる。
どうしてこんな形でしか交わることができないのか。
鵺はただ声を上げて泣く愛美を抱きしめ続けるほかなかった。




