サイドストーリー『老兵は算盤を叩く 〜ジョン・グラハムの独白〜』
**サイドストーリー『老兵は算盤を叩く 〜ジョン・グラハムの独白〜』**
「――騎士道、だと? 笑わせるな」
冷めた麦酒をあおりながら、ジョン・グラハムは作戦卓の羊皮紙に黒いペンで線を引いた。
齢六十を超えた老兵の身体には、数え切れない傷跡が刻まれている。百年戦争の泥沼を這いずり回り、身分も血統もない一兵卒から、五万の軍勢を率いる連合軍最高司令官へと登りつめた男。全欧州の貴族が『白い死神』と恐れるのは、剣技ゆえではない。その頭の中に収まった、冷酷な「算盤」ゆえだった。
「名誉のために死ぬのは愚者の仕事だ。戦とは、かけた費用に対していかに多くの戦果を回収するか、というだけの商売に過ぎん」
卓を囲む若き連隊長たちは、冷淡な言葉に声を失っていた。
グラハムの命じた作戦は、凄惨を極めていた。進軍路上にある自国の村々を焼き払い、井戸に泥を投げ込み、糧食をすべて持ち去る「焦土作戦」である。血統を誇る貴族ならば「自領を汚す不名誉」と拒むであろう悪手。だがグラハムにとっては、何の痛痒もない合理的な一手だった。
「帝国の若造どもは『敵が逃げた』と喜び、我が軍を追ってくる。そして焦土で補給が切れ、飢えたところを包囲して喰う。実に簡単な足し算だ」
グラハムは自嘲気味に笑った。
この半世紀、相手にしてきたのは頭の固い大貴族ばかりだった。誇りと面目に縛られ、煽ればたやすく罠に飛び込んでくる豚ども。戦場に「自分と同じ言葉を話す者」など、ただの一人もいなかったのだ。
――その退屈は、一通の報告で吹き飛ぶことになる。
「……何? 帝国軍が、焦土の手前で進軍を止めただと?」
遠眼鏡を覗いていたグラハムは、片眉を跳ね上げた。
報告によれば、帝国全軍の指揮権を握った『黒狼旅団』のアラン・デュ・ボスクは、焦土の境界線でぴたりと足を止め、頑強な「巨大補給陣地」の建設を始めたという。
「……クックック、ハハハハハ!」
グラハムは腹を抱えて笑い出した。
「素晴らしい! あの青二才、我が焦土作戦の狙いを一瞬で見抜き、誘いには一切乗らず、自ら物流の拠点を築いて長期戦に持ち込む気か!」
力押しでも、感情的な追撃でもない。相手もまた、戦場を「盤面と数字」として捉える合理の人間。同業者の匂いがした。
「『黒狼』アラン・デュ・ボスク……噂通りの男だな。騎士道の腐臭が漂うこの戦場で、ようやく算盤の叩ける奴と巡り会えたわ」
グラハムは即座に頭の中の計算を切り替えた。
(進んで来ぬなら、こちらから仕掛けるまで。狙うは奴の生命線、後方からの巨大補給部隊だ。精鋭の軽騎兵で補給線をずたずたにしてやれば、いくら黒狼とて干上がらざるを得まい)
グラハム自ら軽騎兵五百を率い、夜陰に紛れて後方へ迂回する。完璧な急襲。完璧な手応え。
数日後の早朝、渓谷沿いに帝国軍の「第五補給部隊」が現れた。馬車百台。積まれているのは膨大な小麦粉と干し肉。護衛はわずか数十名。
「甘いぞ、アラン。補給網を広げすぎれば、どこかに必ず隙ができる」
号令一下、五百の軽騎兵が襲いかかった。逃げ惑う護衛兵。次々と火を放たれる馬車。
勝った、とグラハムが確信した、その瞬間――
プシューッ!
馬車から噴き上がったのは、煙幕と硫黄の臭いだった。同時に、渓谷の前後で巨大な鉄格子が落ちる。
(……なっ!?)
崖の上を見上げると、黒い胸甲をまとい、冷ややかにこちらを見下ろすアラン・デュ・ボスクの姿があった。
「あなたが補給部隊ばかり狙うことは、百も承知でした。だから本物の補給線は遠回りの別ルートを通し、この目立つ街道には、火薬と煙幕を詰めた偽の馬車を走らせたのです」
音声管を通したような冷徹な声が、渓谷に響く。グラハムの背を、冷たい汗が伝った。
(罠……! 補給部隊そのものが、俺を誘い出す巨大な餌だったのか!)
だが、本当の衝撃はそれだけではなかった。
「グラハム閣下。あなたは『敵の補給を断つ』ことに集中するあまり、ご自身の補給から目を離しておられた」
アランが指し示した遥か後方、グラハムの本陣の方角から、真っ赤な炎と黒煙が上がっていた。
「あなたが軽騎兵を率いて出張っている間に、手薄になった兵糧庫を、我が別動隊が襲撃させていただきました」
「……ッ!」
グラハムは息を呑んだ。
兵糧攻めを仕掛けたつもりが、その裏をかかれ、囮に引きつけられている間に、己の命綱を断たれたのだ。
(そうか……奴は最初から、俺が自ら軽騎兵を率いて出てくる確率まで計算に入れていたのか……!)
崖の上から、クロスボウと火砲の雨が降り注ぐ。崩れ落ちる部下たちの中で、グラハムは血の味を噛みしめながら、不敵に笑った。
「ハハハ……ハハハハハッ! 見事だ、アラン・デュ・ボスク!」
怒りも悔しさもなかった。あったのは、己の算盤を遥かに上回る計算で叩きのめされた者の、プロとしての清々しい感服だけだった。
(俺には『敵の補給を断つ』盤面しか見えていなかった。だが奴は、俺の思考の癖と本陣の防衛力まで数値に置き換え、一網打尽にする盤面を描いていたのだ)
数名の部下に庇われ、命からがら渓谷を脱出する。振り返れば、硝煙の立ち込める崖の上で、アランが静かに佇んでいた。
(……時代が変わったな)
グラハムは黒い大剣を見つめ、深く息を吐いた。
(誇りや身分で戦う時代は終わった。俺のような老兵の時代もな。これからは、あの恐ろしい青年が描く『絶対的な計算の世界』が訪れるのだ)
敗北の冷たい風を受けながら、老将ジョン・グラハムは、新しい時代の王の誕生を確信し、満足げに目を閉じた。
(サイドストーリー・完)
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