サイドストーリー『血の要塞が落ちた日 〜帝国軍将校の困惑と驚愕〜』
**サイドストーリー『血の要塞が落ちた日 〜帝国軍将校の困惑と驚愕〜』**
「戦とは、誇りと血によって洗われる聖域である」
神聖帝国軍特命将校、グラーフ伯爵は、鏡に映る漆黒の甲冑を満足げに撫で上げた。
代々、帝国軍の重装騎兵として軍功を重ねてきた貴族家系の当主である。彼にとって戦場とは、名誉を手に入れ、皇帝陛下への忠誠を証明する最高の舞台だった。
だが――目の前にそびえる『フェルゼン要塞』を見上げるたび、伯爵の胃には不快な重みがのしかかった。
三方は削ぎ落としたような絶壁。残る一面には分厚い二重城壁。過去に幾人もの帝国将軍が力押しで挑み、夥しい死体の山を築いて散った「血の要塞」である。
「ふん、過去の将軍どもは無能すぎたのだ。我ら精鋭が正面から堂々と突撃し、犠牲を恐れず城門を打ち破る! 三千の死傷者が出ようとも、帝国の威光を示せば安いものよ!」
作戦天幕の卓を叩いて気勢を上げる伯爵に、幕僚たちも感極まったように頷く。ただ一人、腕を組み、冷ややかに見下ろしている男を除いては。
「伯爵閣下。正面突撃など、正気の沙汰ではありませんな」
アラン・デュ・ボスク。金さえ払えばどんな泥仕事もこなすと噂の、一千人の傭兵集団『黒狼旅団』を率いる男だ。農民出身の一兵卒から成り上がったというその青年は、絹をまとった将校たちの中で、不気味なほど浮いた存在感を放っていた。
「貴様、帝国の作戦に口を挟む気か! 傭兵は言われた通りに命を捨てればよいのだ!」
伯爵は激昂した。貴族の栄光のために傭兵が血を流すのは当然の義務。死ぬことこそ、奴らに与えられた唯一の価値ではないか。
しかしアランの眼には、恐怖も敬意もなかった。壊れた計算機を前にした会計士のような、冷淡な呆れだけが宿っている。
「無意味な突撃で兵を死なせるのは、無能の証明です。……二週間ください。一滴の血も流さず、あの要塞を開城させてみせましょう」
「大口を叩くな! 二週間で落ちねば、貴様らを軍律違反で処刑するぞ!」
吐き捨てた言葉を、アランは冷ややかに受け流し、静かに天幕を去っていった。
(愚か者め。あの要塞には一年分の兵糧が蓄えられているのだぞ。二週間で何ができるというのだ)
――そして、不可解な二週間が始まった。
伯爵は、アランがどんな猛攻を仕掛けるのかと注視していた。巨大な投石機を組み上げるのか。闇に紛れて城壁をよじ登るのか。それとも坑道を掘って城壁を崩すのか。
だが、黒狼旅団の動きは、伯爵の常識を遥かに逸脱していた。
「報告! 黒狼旅団、本日も攻城兵器を組み立てておりません!」
「報告! アラン率いる部隊は、城の裏手の渓谷で穴を掘り、腐った動物の死骸や鉱物油を運び込んでおります!」
「……何だと?」
伯爵は頭を抱えた。死骸? 鉱物油? それが戦と何の関係があるというのか。
さらに不気味なことに、アランは夜ごと小さな投石機で、城内へ「紙切れ」を投げ込んでいるという。
「武器ではなく、紙だと? 降伏勧告の矢文のつもりか! あれほどの難攻不落の城が、紙切れ一枚で降るものか!」
伯爵は嘲笑した。名誉ある騎士ならば、城壁が崩れるまで戦うのが筋だ。アランは戦のいろはも知らぬ素人なのだと、そう確信した。
だが――十日が過ぎた頃から、フェルゼン要塞の様子がおかしくなり始めた。
「な……何が起きているのだ?」
遠眼鏡を覗いた伯爵は息を呑んだ。城壁の上の敵兵の動きが、明らかに異常なのだ。整然としていた見張りの姿は消え、甲冑を脱ぎ捨てた兵士たちが、ふらふらと彷徨っている。
「報告します! 城内から絶叫と呻き声が聞こえます! 『水が飲めん』『腹がちぎれる』『城主を出せ』と……!」
「水……?」
伯爵の背に、冷たいものが走った。
アランが渓谷で行っていたこと。それは水路への汚物の投入だったのだ。
要塞の生命線である地下水路を突き止め、毒ではなく「病と異臭」を流し込む。毒ならば、敵は決死の覚悟で打って出てくる。だが、腹を下し、喉が渇き、異臭に包まれた人間はどうなるか。
生きながら精神が蝕まれ、衛生は崩壊し、互いを疑い始める。そこへ夜ごとの「紙切れ」だ。病に苦しむ兵たちの不信を煽る流言飛語が、そこには書かれていたという。
(戦術ではない……! これは、人間の弱みを突いた『殺鼠剤』の撒き方だ……!)
膝が震えるのを、伯爵は抑えられなかった。
剣を交えることもなく、武勇を示す機会すら与えず、城の人間を「ただの虫」のように自滅させていく。
十四日目の朝。
ギギギ、と軋む音を立てて、難攻不落と謳われたフェルゼン要塞の重い城門が開いた。
現れたのは、白旗を掲げ、痩せこけ、嘔吐物と汗にまみれた敵兵たちだった。城主は自らの兵に縛り上げられ、引きずり出されてくる。
帝国の正規兵たちは拍子抜けしたように剣を収め、呆然と立ち尽くした。
「落ちた……本当に、一滴の血も流さずに要塞が落ちた……」
伯爵は馬上で力なく呟いた。数千の犠牲を覚悟していた。名誉ある死闘になるはずだった。それが、一人の野良傭兵の手によって、何のドラマもなく、計算通りに「収穫」されてしまったのだ。
そこへ、干し肉をかじりながら馬を寄せてくる男がいた。
「グラーフ伯爵。約束の二週間です。要塞は開城しました。我が旅団の損害はゼロです」
「あ……アラン……貴様……」
「力押ししか知らぬ者は、城壁の厚さしか見ません。ですが、城を動かしているのは『人』です。人を崩せば、どれほど頑強な城も、ただの巨大な石の檻にすぎない」
その眼差しに、勝利の歓喜はなかった。注文どおりの品を納め終えた職人のような、冷淡な平穏があるだけだ。
(こいつは……怪物だ)
伯爵の胸に、激しい怒りと、それを遥かに上回る根深い恐怖が芽生えた。
身分も誇りも持たず、戦を「ただの損得勘定」として処理する男。こんな奴を野放しにすれば、我ら貴族の価値観そのものが踏みにじられ、灰にされてしまう。
(許せん……! 金貨五百枚など、この野良犬に払ってたまるか! 今夜、必ず暗殺部隊を送り込んで殺してやる……!)
恐怖を振り払うように、伯爵は胸の内で呪詛を吐いた。
――その暗殺計画すら完璧に見抜かれ、返り討ちに遭った挙句、金貨一千枚を脅し取られることになるとは、この時のグラーフ伯爵はまだ知る由もなかった。
(サイドストーリー・完)
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