第14話:雨の決戦前夜とぬかるみの罠
**第14話:雨の決戦前夜とぬかるみの罠**
天が底が抜けたような豪雨が、三日三晩にわたって、アルデンヌの広大な平原を叩き続けていた。
視界を遮る雨粒。甲冑の隙間から染み込み、兵士たちの体温を奪っていく冷たい水。
踏み固められていた大地は赤黒い泥流へと変わり、歩くだけで足首まで沈み込む、底なしの泥沼と化していた。
「……酷い雨だな」
作戦天幕の庇の下で、アラン・デュ・ボスクは、降りしきる雨を冷徹な目で見つめていた。
「アラン! 敵だ! 兵糧を絶たれたグラハムの連合軍四万が、狂ったようにこっちへ進軍してきている!」
ぬかるみに足をとられながら、副官のマルクが駆け込んでくる。
「食料のない奴らは、完全に背水の陣だ!『このまま餓死するくらいなら、刺し違えてでも帝国軍の食料を奪う』と息巻いて、全軍で総攻撃を仕掛けてくる気だぞ!」
「そうか。……絶好の好機だな」
アランは薄く口元を歪めた。
「ぜ、絶好だと!? この底なしの泥沼で、四万の大軍とやり合うんだぞ! 馬も走れねえ、歩兵もまともに動けねえ! 混戦になったら、数で勝る向こうが有利じゃないか!」
「普通の戦い方ならな。……だが、俺たちがこの泥の中でどうやって生き残ってきたか、忘れたか?」
アランは、自らの履き古したブーツに目を落とした。
あの日。無能な貴族の指揮のもと、雨のぬかるみの中で一方的に屠られていった騎士たち。泥の中から生き延びたアランは、あの時から「環境」を戦術に組み込むことを知っていたのだ。
「泥は、重装備で突撃してくる敵の勢いを殺す『最高の障害物』だ。……全軍に伝えろ。長槍方陣の配置につけ。火砲には防水の油布を被せ、一滴の雨水も入れるな!」
*
一方、隣国連合軍の本陣。
飢えと恐怖で正気を失いかけた四万の兵が、泥まみれになりながら剣や槍を握りしめていた。
「兵たちよ! 後ろには食う飯もない! 前へ進み、アランの首を取り、奴らの兵糧庫を奪うのだ!」
手負いの老将ジョン・グラハムが、泥に足をとられながらも大剣を抜き放ち、叫ぶ。
「突撃ぃぃッ! 泥を喰らう覚悟で突き進めぇッ!」
四万の死兵が地鳴りのような雄叫びを上げ、泥の平原へ雪崩れ込んだ。
――ズズズ……!
だが、その突撃はあまりにも鈍く、惨めなものだった。
泥沼は、大軍の機動力を完全に奪い去った。重装馬は膝まで沈んで動きを止め、甲冑の歩兵は一歩進むごとに喘ぎ、体力を削られていく。
そこへ、アランの仕掛けた罠が牙を剥いた。
アランは決戦の前日、平原のくぼ地に水路を掘り、雨水を集めて「見えない底なし沼」を各所に作らせていたのだ。
草で隠された泥穴に、先頭の歩兵や騎兵が次々と落ち込む。そこへ後ろから押し寄せた味方が、彼らを踏み潰していった。
「押し寄せる波が、勝手に足元から崩れていくな……」
黒狼旅団の方陣の中央で、マルクが呆然と呟いた。
黒狼旅団の兵たちは、泥に沈みにくい木製のかんじきをブーツの下に履き、高台の硬い地盤に、強固な長槍方陣を組み上げていた。
「よし。泥に足を取られて動けぬ敵に向け――火器隊、射手隊、一斉射撃!」
アランの手が振り下ろされた。
ズドォォォンッ!!
油布で守られていた火砲と小型野戦砲が、雷鳴のような轟音とともに、一斉に火を噴いた。
泥の中で身動きが取れず、ひと塊になった連合軍の密集隊形に、鉄弾と散弾の雨が正確に叩き込まれる。
「ひいぃぃっ! 助けてくれ! 足が抜けないッ!」
「動けない! 撃たれる! 逃げ――」
絶叫と悲鳴が、雨音と泥の中に混ざり合う。
逃げようにも、足は泥に捕らわれている。後ろからは飢えた味方が押し寄せ、前からは容赦のない火薬の威力が襲いかかる。
それはもはや合戦ではなく、ぬかるみの屠殺場だった。
「な……なぜだ……! なぜ我が軍の必死の突撃が、届きもしない……!?」
後方でその惨状を見ていたグラハムは、膝から崩れ落ちた。
飢えに任せた背水の突撃さえ、アランは雨と泥という自然まで計算に入れ、一歩も寄せつけずに封じ込めてみせたのだ。
「グラハム閣下……! もはや限界です! 兵たちが次々と武器を捨てて降伏しております!」
側近が泣き叫ぶ。
泥の中で足止めされ、一方的に撃ち抜かれた連合軍は、戦意を完全に失った。生き残った者たちは次々と泥に膝をつき、白旗を掲げていく。
*
やがて雨が上がり、雲の切れ間から一筋の陽光が、泥まみれの戦場を照らし出した。
四万を擁した隣国連合軍は壊滅した。
『アルデンヌの泥沼決戦』は、アラン・デュ・ボスク率いる黒狼旅団の歴史的な圧勝で幕を閉じたのだ。
泥の中を歩き、傷ついたグラハムのもとへ、アランが静かに歩み寄る。
「……見事だったよ、アラン」
グラハムは吐血しながら、自嘲気味に微笑んだ。
「俺は『兵の怒りと飢え』を武器にしようとした。だがお前は、『雨と泥と人間の限界』を計算に入れて俺たちを潰した。……本当の悪魔は、お前だ」
「悪魔ではありませんよ、グラハム閣下」
アランは冷ややかに見下ろし、静かに言った。
「俺はただ、生き残るために最も効率的な計算をしただけです。……契約通り、あなたの身柄と連合軍の捕虜について、身代金の交渉に入らせていただきます」
全欧州を揺るがした大戦争は、ここに終結した。
そして、皇帝すら凌ぐ圧倒的な勝利を手にしたアラン・デュ・ボスクに、最後の「巨大な選択」が突きつけられようとしていた。
(第14話 完)
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