第七話 ジゼル・レンブラントという少女
ジゼル・レンブラントという少女のことを、知っているようで知らない。
そうヴァンデッシュは思う。
レンブラント公爵家の一人娘。元王太子の婚約者その人。
けれどいざジゼルに会って話した時に驚きはしたのだ。
遠目に見た彼女は儚げで今にも消えてしまいそうな危うく、弱々しい雰囲気があった。
人目を奪うほどに美しい容姿も相まってまるで白百合のように繊細で、まるで天使そのもののように無垢で穢れない。
天使のように純真無垢で一片の穢れもない浄らかさを讃えながら、その鮮血に似た緋色の唇は悪魔のような危険な魔力を漂わせている。
銀細工のような繊細で長い睫毛がゆっくりと上下するのを、息を飲んで魅入ってしまった。
あやしい陰影を帯びた瞳は憂いを帯びて、ますます鮮血のように見えた。
背筋が凍るほど神秘的で美しい少女は、そしてどこか蠱惑的で見る者を虜にするほどに。
それを魔性と呼ぶのだと、初めて動く彼を見た時に実感したのだ。
これがジゼル嬢?
こんな、触れれば溶けて消える雪みたいな、手折れてしまいそうな花みたいに儚く美しい人が?
そう感じたのはヴァンデッシュだけではなく、特務課の仲間たちもだった。
人を惹き付ける悪魔のような妖艶さをにじませながらも、ジゼルはどこまでも穢れない百合のように綺麗だったのだ。
その日、レンブラント公爵家の一階の応接間にはぴりぴりした空気が満ちていた。
その場にいるのはヴァンデッシュとジゼル・レンブラント、そして先日公爵家の使用人となったレイチェルとジゼルの義弟アッシェンだ。
発端はヴァンデッシュが特務課に持ち込まれたある違法薬物を売買する男を捕まえ、そして男と繋がっているマフィアをも一網打尽にすることの手伝いを、ジゼルに持ち込んだことだ。
そのために男が近々参加するパーティの情報も手に入れた。
そこで男は取引相手と薬物を受け渡す、と。
だが問題は男をどうやってマフィアと繋がりのあるバイヤーだと公にするか。
その方法で悩んだ時に、男のプロファイリングを読んでいたジゼルが言ったのだ。
「罠を仕掛けてはどうでしょうか?」と。
ジゼルのプランは有効な策であり、またヴァンデッシュたちの力を信用した上での提案だ。
だがそれに異を唱えたのはアッシェンだった。
「駄目だ。
そんなことさせられるか」
「でも、これ以上被害者は出せないわ。
今回で確実に止めなければ」
「あんた」
アッシェンの声は低く、表情も険しい。
だがその気持ちはわからなくもない。そうヴァンデッシュは思った。
なぜならジゼルのプランはジゼルを囮にするものだったからだ。
標的の男は好色家であり、若い美しい女に目がない。
そういった女を薬漬けにして飼う趣味がある。
なら自分を囮にすればいい、とジゼルが言ったのだ。
確かにジゼルの美貌ならば確実に釣れるだろう。
だがそれはジゼルを多少なりとも危険にさらすことだ。
それをアッシェンが受け入れられるはずもない。
「アッシェン」
ジゼルは困ったように眉尻を下げ、ソファに座ったままそばに立つアッシェンを見上げる。
穏やかで優しく、上品なその姿は育ちの良い深窓の令嬢のように儚げだ。
優れすぎた頭脳を除けば、本当にこの美しすぎる少女が特務課の作戦に協力出来るのかと誰もが疑うほどに。
けれどジゼルはアッシェンの頬に手を滑らせ、こう囁いたのだ。
「わたくしを、甘く見てるの?
アッシェン」
清廉な彼女がふと、ぞっとする表情を浮かべた。
美しい白眼を三日月のように細め、優雅に微笑む。
それは背筋が凍るほど神秘的で美しいものだった。
「ヴァンデッシュ卿が認めたわたくしが、この程度の男にどうにかされるような人間だと、あなたはそう思うの?」
「…それは、でも」
「黙って」
今まで自分たちに見せていた柔らかく清廉な笑顔と打って変わった、冷たい微笑を浮かべてジゼルはアッシェンの唇に指を添える。
「わたくしは、ジゼル・レンブラントなのよ?」
レンブラント家の真の後継者。実力で跡継ぎに見出されたこのわたくしが、こんな男にいいようにされると?
そう暗に囁くような言葉だ。
公にはレンブラント家の跡継ぎはアッシェンだ。それは間違いない。
だがいつジゼルが継いでも問題ないように両親は取り計らっている。
それほど、ジゼルの才能は比類ないのだ。
それこそ、法務省特務課──諜報員や政治犯など、治安を維持し、王室にまつわる法務を取り仕切る特殊機関の長が協力を求めるほどには。
ぐっと言葉に詰まったアッシェンに、ジゼルは先程の表情が嘘のように花が綻ぶような笑みになって、
「じゃあ、決まりですね」
と告げた。
そして迎えたパーティ当日。
あるホテルを貸し切ったパーティは盛大なもので、実業家や資産家、企業の社長から要人までが参加している。
その中にあの標的の男もいた。
男はワインを飲みながら会場を歩いていたが、不意によろけてぶつかった少女に最初眉を寄せ、すぐにその美貌に息を呑んだ。
「申し訳ありません。酔ってしまったようで…」
男の欲を煽るような心細げな表情で告げたのはジゼルだ。
男はその天使ですら羨むような美しさに魅入られ、固まっていたがジゼルが「あの?」と首を傾げたために我に返る。
その仕草も男を誘うような甘い色香を孕んでいた。
「初めて見る顔だから驚いたよ。どこのご令嬢かな?」
「父が実業家なのですが最近起業で失敗して、代わりに…」
「ほう…」
いかにも世間知らずの温室育ちの少女といった雰囲気を漂わせ、不安げに、心許ないように振る舞うジゼルに男はこの上なく満足したようだ。
きっと父に手を貸してくれる伝手を探しに来たのだと思ったようだ。
この男は異国の実業家だ。だからこそ公爵令嬢であるジゼルの顔を知らなかった。
「酔ったのならこちらに来なさい。
見てあげよう」
「あ、は、はい…」
男に手を引かれるまま、ジゼルは会場の端にあるソファに腰掛ける。
「それにしても美しい。
名は? なんと言う?」
男はそう言いながらジゼルの腰を抱いた。
「あ、あの」
そのままジゼルの太ももをなぞった手に、ジゼルは頬を赤らめて弱々しく身をよじる。
その抵抗はむしろ男の嗜虐心と征服欲を刺激するもので、男は案の定夢中になってジゼルの身体を抱き寄せた。
「あっ…」
「いい子だ。
起業したばかりならばまだお父上には親しい相手も少なかろう。
私の言う通りにすればお偉方に取りなしてあげるよ」
「…あ、あの、」
「お父上のために、人肌脱いでやろうじゃないか。
もちろん君次第だがね」
「…ほ、本当に…?」
「ああ…」
不安げに男を見上げた白色の瞳に魅入られたように、男はその細腰を両腕で囲い込む。
その瞬間、男の足下に置かれていたアタッシュケースの口が突然開いた。
ジゼルが男の注意を惹き付けている間に、ヴァンデッシュが空気銃で留め具を破壊したのだ。
大きく口を開けたケースから零れたのは一目で薬物とわかる大量の袋だ。
周囲の人間がそれに気づいて騒ぎ出す。男が焦って薬を隠そうとそばにしゃがみ込んだ瞬間にジゼルはその腕から抜け出した。
男は薬を捨てて逃げ出したため、それをヴァンデッシュたちが追う。
ホテルを出た男は路地を通って走っていく。マフィアの黒服たちが邪魔をしたため、ヴァンデッシュたちはすぐに追えない。
「逃がしませんよ」
夜道の途中、男の前に立ちはだかったジゼルを見て男が息を呑んだ。
「おまえもグルか。可愛い顔で誘って来て、ずいぶん好き者じゃないか」
男は笑っているが、余裕はない。だが不意に物音が響いて男とジゼルの注意がそちらに向く。
状況がわからないように戸惑った様子で固まっている女性の姿が路地のそばにあった。
ジゼルが「逃げて」と叫ぶ前に男が大股で女性に近寄り、その身体を抱き寄せてナイフを突きつける。
そのそばにヴァンデッシュたちを足止めしたのとは別のマフィアの黒服たちが集まってきた。
「形勢逆転だな。
こいつを死なせたくないなら、言うことを聞くことだ」
「…っ」
「悪い子にはお仕置きが必要だな。捕まえて薬漬けにして飼ってあげるよ」
「───だから言ったのよ。
アタシは、そんなに優しい人間じゃないわ」
小さく呟いたジゼルに男が目を瞠った時だ。背後から放たれた空気銃の銃弾が男の手からナイフを弾き飛ばした。
一気に男に接近したジゼルが手に持っていた仕込み杖で男の肩を切り裂き、蹴りで昏倒させる。
襲いかかってきたマフィアたちの手から銃を弾き飛ばし、杖の刃でマフィアたちの腕や肩を切り裂いて、まるで踊るように優雅に仕留めていく。
「くそっ…!」
最後の一人が自暴自棄になってナイフを振り上げたが、その肩を杖の刃が深々と突き刺し鮮血が散った。
倒れた男たちを睥睨し、ジゼルは血のついた杖をひゅっと振って息を吐く。
動けなかった。
「凄え…」
仲間の一人が呟いた声が聞こえる。
普段の穏やかで優しく、上品な姿しか知らなかったから驚いた。
身体の動きを止めるほどに、その姿はなにより恐ろしく、背筋が凍るほどに美しかった。
その後日だ。レンブラント公爵邸の客間で、ジゼルとヴァンデッシュが向かい合っていた。
「ヴァンデッシュ卿。
あまりわたくしを当てにしないでいただきたいですわ」
「すまない。君があまりに頼りになるものだから」
ジゼルに苦言を呈され、ヴァンデッシュは苦笑する。
「事実、今回も君の活躍でうまくいっただろう?
本当に魅力的な女性だよ。君は」
そう囁いて、ヴァンデッシュはジゼルの手を取るとその甲に口づける。
「私の唯一の姫君」
「本当に、仕方のない方」
その所作に、ジゼルはくすり、と妖艶な微笑を浮かべた。
不意に部屋の扉が開いて後継者であるアッシェンがヴァンデッシュのそばに立つ。
「ヴァンデッシュ卿。もう、姉さんを巻き込まないでくれ」
「おや、君が彼女を姉さんと呼ぶところを初めて見たな」
揶揄するように言ったヴァンデッシュに、アッシェンの顔が真っ赤に染まる。
それからふいっと顔を背けて、
「呼び方に困っただけだ」
とアッシェンは言い訳した。
「ふむ、そのようだな」
ヴァンデッシュもそれは気づいているが、あえて追求はしなかった。
「だが、君はわかっていない。彼女の真の価値を。
ヴィンセントすらわかっていない。
私だけが知っている」
「だから、婚約者に立候補すると?」
「さあね?」
アッシェンに追求され、ヴァンデッシュは柔く笑んで誤魔化した。
「はっきりしろ」
「君にはわからないさ」
そう、まだわからない。そうヴァンデッシュは思う。
白い百合のような、その上男を酔わせる力を持った彼女の真の姿を。




