第五話 男爵令嬢レイチェルの顛末
そこは静かな、薄暗い部屋だった。
ある男爵家の当主の書斎。そこに呼び出された令嬢レイチェルは淀んだ目で目の前に座った父の話を聞いている。
「修道院行きが潰されたなら、お前を売りに出す。
50歳の侯爵が妾をご所望だ。
これは命令だ。いいな。レイチェル」
「………はい、お父様」
最早抵抗する意思もなくし、レイチェルは小さく頷いた。
王都の中を走る馬車がある。その中で、密談が行われていた。
「さて、今回は私を何用で呼び出したのかな。
ジゼル嬢」
そう微笑んでアタシに尋ねてきたのはヴァンデッシュ卿だ。
ちなみに例の夜会の後、国王や王妃からは音沙汰がない。
まあ、多分向こうも混乱しているんでしょうね。
まさか喘いでいるのがあなたたちの息子のほうだなんて、ね。
「ある、迷える子羊を救いたいのですわ。
お嫌でしょうか?」
「そんなことはないよ。
君の力になれるならなんなりと」
にこやかな、女性なら誰でも夢中になるだろう微笑を浮かべて答えたヴァンデッシュ卿が付け足すように、
「まあ、またあの快楽を味わわせてくれるなら、だけど」
とうっとりと囁いた。
あら、よっぽどあの夜が良かったのね。開発しすぎたかしら。
「そうね。気が向いたらそのときに」
そう気を持たせて、アタシはひとまず今回の目的を果たそうとする。
「ひとまず、アーバイン侯爵邸に向かいたいの。
付き合ってくださる?」
「もちろん喜んで。レディ」
アタシのお願いに、ヴァンデッシュ卿は恭しく一礼をした。
アーバイン侯爵邸に馬車が到着すると、ちょっとした騒ぎになった。
先触れは出してあったものの、突然だったからだろう。
使用人たちが気遣って案内してくれたが、混乱していたのかてんやわんやだった。
そして通された客間で待っていると、アーバイン侯爵がやってきた。
まあ、いかにも若い女を囲いたがっている中年男らしい風貌。
イケオジみたいな渋みはないわね。残念。
「こ、これはヴァンデッシュ卿、ジゼル嬢、なにか御用でしょうか?」
「こちらに輿入れの話が来ているレイチェル嬢について、お話がありますの」
そう口を開いて、アタシはソファから立ち上がる。
「単刀直入に申しますわ。レイチェル嬢の受け入れを拒否していただけないでしょうか?」
「な、なぜです。いくら妾とはいえ、正式に家同士で結ばれたもので」
「それが気に入らないんですの」
そう、気に入らない。文字通り嫁入り前の女の子を、こんな小汚いおっさんに妾として差し出すなんて。
「レイチェル嬢にはもっと相応しい方がいますわ。
手をお引きになって」
「し、しかし」
もごもごと言い訳をするアーバイン侯爵に、不意にアタシを庇うようにヴァンデッシュ卿が立ち上がった。
「あなたは二つの公爵家を相手にして勝つおつもりかな?
これは、レンブラント公爵家とヴァンデッシュ公爵家の命令だよ」
「は、」
朗々とした口調で宣言したヴァンデッシュ卿に、アーバイン侯爵は気圧される。
「いいね? レイチェル嬢から手を引きなさい」
「…は、ははっ。ご随意に」
「よろしい」
腰を低くして頷いたアーバイン侯爵に、ヴァンデッシュ卿は満足そうに頷いた。
その帰りの馬車だ。
カーテンを引いた薄暗い車内で、ヴァンデッシュ卿が潜めた声で尋ねてくる。
「手を引いたと思うかい?」
「いいえ。あとで隠れてレイチェル嬢を囲うおつもりでしょう。
あとの手段は」
「君は心が広いな」
不意に落とされた声に、アタシは目を丸くする。
「はい?」
「ヴィンセントを誑かした男爵令嬢を救おうだなんて」
感心したように呟くヴァンデッシュ卿は、実は弟を誑かしたレイチェルに対し、あまり良い感情がないのかもしれない。
まあ仕方ないわよね。お兄さんだもの。
「そんな高尚なことをするつもりはありませんわ」
もちろんその意思を否定はしない。これはある意味、アタシのエゴ。
「ただ、わたくしにとって女の子は皆可愛らしい宝石ですの。
望まぬ結婚など、していい女性は一人もいませんのよ」
「それは君も?」
不意に伸びてきた白い手袋を嵌めた手が、アタシのおとがいに指を掛ける。
「君と結婚したら、毎晩あの快楽が味わえると言うなら、私は本気で立候補してもいいんだ」
「あら、そうですの」
恍惚とした表情を見つめて、アタシもうっそりと微笑んだ。
「そうね。わたくしも、あなたをもっと可愛がって差し上げたいわ」
そう囁いて、おとがいに掛けられた手に手を重ねてみせる。
「いけない人だね。ヴィンセントがいながら、私によそ見をするのかい?」
「あら、純潔は許していませんもの。許容範囲ではなくて?
それに、あなたから誘って来たのよ。いけない方」
「そうだね。今のは私が誘惑した。私の不義だ」
あっさり肯定したヴァンデッシュ卿は、アタシのおとがいから手を離し、長い銀の髪を撫でた。
「じゃあ、本当に君を私の妻にしたら、不義ではなくなると思わない?」
「そうね。それも、少し考えて差し上げていいわ」
ほんの少し考えるだけよ。日本人の言う「善処します」と一緒ね。
頷くとは言っていないもの。
「まずはアーバイン侯爵をどう諦めさせるかよ」
「それならいい手段があるじゃないか」
「え」
なにを今更、という顔をしてヴァンデッシュ卿が言う。
「私と同じことをすればいい。
あの快楽を知ってしまえば、女は抱けなくなるよ」
その言葉にしばらく固まってから、アタシは手を持ち上げて打った。
ぽん、と音が鳴る。
(その手があったか!)
「どういうことだ!
アーバイン侯爵から断りの返事が来るとは!」
その数日後、男爵邸では荒れた当主の声が響いていた。
「レンブラント公爵家とヴァンデッシュ公爵家から辞退するよう勧められたそうだが、それでも隠れてレイチェルを囲うと乗り気だったというのに」
「お父様」
気が収まらない様子の当主の書斎に、不意に顔を出したのは外出用の衣装を纏った娘・レイチェルだった。
「レイチェル!」
それを見て、当主は彼女に詰め寄る。
「お前、どんな手段を使った?
アーバイン侯爵になにをした!」
「お父様にはご理解いただけませんわ」
最早一片の情もない表情で、レイチェルは答える。
「ご自分のご利益しか頭にない、お父様には」
そう、理解出来ないのだ、と彼女は淡々と告げる。
「では、長い間お世話になりました」
「待て。どこに行く!」
「それはもちろん、就職先に」
レイチェルは一礼して、部屋の外に置いてあった大きな鞄を手に取る。
「就職先、だと?」
「ええ」
訝しんだ当主に、満面の笑顔で答えた。
「レンブラント公爵家に!」
「というわけで、これからよろしくお願い致します。
ジゼルお嬢様♡」
メイドの仕事着を身に纏って微笑んだレイチェルに、客間で紅茶を飲みながらアタシは少し困った顔になる。
こんな結果になるとは思わなかった。
金子を持たせて、好きな場所に行けばいいと思っていたから、まさかうちに就職したがるなんて。
「適当に手を抜いて過ごしていいのよ?
あなた、実家ではひどい扱いを受けていたそうじゃない」
「だからこそ尽くさせていただくのですわ。
ジゼルお嬢様はそんな環境からわたしを救ってくださった恩人。
お嬢様のためなら例え火の中水の中。
なんでも致しますわ」
使命感に瞳を燃やして、レイチェルは拳をぐっと握る。
「もちろんあのヴィンセントが帰って来たら、お嬢様に相応しくなったかどうか厳しくチェックさせていただきます」
「君は愛の重い人にばかり好かれるねえ」
とは一連の報告を持って来たヴァンデッシュ卿の意見だ。
「その一角を占める方に言われても」
「まあ、そうだね」
「否定なさらないのね」
それもそれで困った話だけど、まあヴァンデッシュ卿のは愛というより愛欲という感じだろうし。
「まあいいわ。
ヴィンセントは、まだ帰って来ないかしら」
そう、アタシは窓の外を眺めた。




