事前準備(五)
「母がずいぶん楽しそうにしていたぞ」
ルシアナの髪に櫛を通しながら、レオンハルトもどこか嬉しそうに目を伏せる。
「それでしたらよかったですわ。本来話し合う予定ではなかったことを、思いつくままお話ししてしまったので……」
「仕事をしに来られたのかと思うほど活き活きとしていた。今年も春になったら王都に来られるそうだ」
「まあ! そうなのですか?」
ぱっと後ろを仰ぎ見れば、レオンハルトは目を細め、ルシアナの頬を撫でた。
「嬉しそうだな?」
「もちろんですわ。お義母様ともお義父様とももっとたくさんお話しして親しくなりたいですもの。もちろん、ゆっくり領地でお休みいただくのが一番だとは思うのですが……」
「そこはあまり気にしなくていいだろう。北方統一などということがなければ、父も母もまだまだ働いていただろうからな」
レオンハルトは最後に髪をひと梳きすると、櫛をしまう。まとまった髪をふわりと広げ、満足そうに口元を緩めるとルシアナの頭上に口付けた。
「母が乗り気だからか、父もずいぶん張り切っている。旧ルドルティ地域全体の一大事業になりそうだ」
レオンハルトはルシアナを抱き上げると、部屋の照明を消しながらベッドへと向かう。
ルシアナはレオンハルトの首に腕を回しながら、なるほど、と思考を巡らせた。
(ルドルティ地域に出る魔物だから、他の領地から魔物を買い取ればその領地はそれだけで収入が増えるわ。駆除の人手をこちらで確保できれば、駆除費や人件費も抑えられるし……氷角雪兎が現れない地域にも恩恵があるように進めれば、確かに旧ルドルティ地域全体を豊かにできるかもしれないわ)
「貴女も楽しそうだな?」
「あっ、申し訳ありません、考え込んでしまって……」
(レオンハルト様にあれこれされるのもずいぶんと慣れてしまったわ)
ルシアナをベッドにそっと下ろすついでに、レオンハルトは軽く口付けを落とした。何度か触れるだけの口付けを繰り返したあと、軽く舌を絡ませる。
「ん……」
(特別なキス……なんだか久しぶりな気がするわ)
ここ数日はレオンハルトが忙しそうにしていたため、夜も一日の出来事を話し合って眠りにつくのが基本だった。軽い口付けはいつも通りあったものの、こうして舌を絡ませるのは数日ぶりだ。
(たった数日で久しぶりだと思うなんて……本当に慣れてしまったわ)
慣れるどころか、なんなら物足りないとさえ感じる。
かつてはこうした口付けがあることさえ知らなかったのに、すっかり欲しがりになってしまった。以前であれば欲張りになっていることを心配したかもしれないが、今はもう素直にこうした欲求を受け入れている。
そのほうがレオンハルトも喜ぶとしっかり教え込まれたからだ。だから、己の欲求に従い、もっと、とねだるように口を開く。
当然応えてくれるだろうと思っていたが、レオンハルトはそれに応えることなく早々に顔を離した。
濡れた唇には、温もりを失ったひんやりとした感覚だけが残される。
欲しいものが与えられなかったことに、ルシアナはむっと眉を寄せる。レオンハルトはそれに小さく笑うと、ルシアナの唇を拭いながら、眉間に口付けた。
「別荘に着いたら飽きるほどしよう。朝も夜も関係なく……そのつもりでいてくれてるんだろう?」
唇に触れるレオンハルトの手に触れながら、ルシアナはこくりと頷く。レオンハルトはそれに目を細めると、ルシアナを抱き締めながら横になった。
レオンハルトはまるで寝かしつけるように、ふわり、ふわりと頭を撫でてくれる。その優しい手つきは確かに心地いいものの、やはり少々物足りない。
(節制、という言い方が正しいのかはわからないけれど、レオンハルト様は別荘で過ごす時間に向けて自制していらっしゃるのよね。何故そのようなことをされているのか、理由はわかっているけれど……)
少しの逡巡ののち、ルシアナはレオンハルトの足に自らの足を絡ませて、じっとシアンの瞳を見上げた。
「別荘まではおあずけですか?」
「ああ。これ以上は俺が耐えられないからな」
「……わたくしが耐えなくていいと言っても?」
「ああ。貴女が何と言おうとこれ以上はしない。無理をさせることがわかっているのに、さらに疲れさせるわけにはいけないからな。こうして我慢しているせいで正直想定以上の負担をかけそうだが……それでも貴女は受け入れてくれるんだろう?」
薄闇のなかで、シアンの瞳が妖しく煌めく。瞳の奥に深い欲望が渦巻いているのが見え、ルシアナは小さく喉を鳴らした。
レオンハルトは、自分よりも遥かに強い欲求を抱えている。それを瞬時に理解させられ、ルシアナはただ小さく頷き返すことしかできなかった。
強く求める彼の眼差しを思い出しただけで、勝手に体温が上がっていく。これ以上レオンハルトの顔が見られず、ルシアナは体を縮こまらせながら、レオンハルトの胸元に顔を埋めた。
彼が別荘でどんな時間を過ごすつもりなのか。
それは、最初からわかっていたことだ。
覚悟はしていたし、そのための準備もしてきた。
けれど、もしかしたら、自分が思っている以上の、とんでもない時間が待っているのではないだろうか。
(……わたくし、生きているかしら)
期待に胸が高鳴る一方で、少々不安にもなる。
もちろん、レオンハルトが自分にひどいことをするとは思っていない。ただ、何度も忠告めいた言葉を繰り返されると、普段以上に激しく求められるのではないか、と心配にもなる。
(どれだけ求められても応える覚悟はしているから、それ自体はいいのだけれど……だんだん応えきれるのか心配になってきたわ。――いえ、応えきってみせるのよ……! そのためにわたくしは部屋でゆっくり休ませてもらっているのだもの! そう! 体力温存のために!)
顔を覗かせていた不安を一気に隅へと追いやったルシアナは、気合いを入れ、レオンハルトを見上げる。
「レオンハルト様。絶対に我慢などなさらないでくださいませ。わたくし、きっと応えてみせますわ……!」
「そうか。頼もしいな」
レオンハルトは、ふ、と目尻を下げると、ルシアナを抱き締める腕に力を込めた。
「こんなに待ち遠しい誕生日は初めてだ。貴女のおかげで俺は様々な感情を知ることができる」
「それはわたくしも同じですわ。レオンハルト様と出会ってから、知らなかったこと、知らなかったもの、知らなかった気持ち、知らなかった自分のこと……本当にたくさんのことを知ることができました」
レオンハルトはどこか感慨深そうに「そうか」と呟くと、ルシアナの額に口付ける。
「これからも多くの時間を二人で過ごしていこう。これまで経験できなかったこと、知り得なかったことを、この国で一つ一つ積み上げていこう。俺と一緒に」
「……!」
まだ出会って間もないころ、自分がレオンハルトに告げた言葉が思い出された。
『わたくしは、これまで経験できなかったこと、知り得なかったことを、ここで、この国で、一つ一つ積み上げていきたいと思っております。……叶うことなら、レオンハルト様と一緒に』
(偶然かしら……? いいえ、レオンハルト様のことだから、きっとずっと覚えていてくださったのだわ)
彼に、丸ごと愛されている。
それをしみじみと実感してしまった。
(本当に、こんなに幸せでいいのかしら。……なんて。レオンハルト様がいらっしゃればわたくしはそれだけで幸せなのだから、そのようなこと考えても仕方ないわ)
すべきなのはそんな考えを抱くことではなく、レオンハルトに出会えたことに対する感謝と、彼への愛をきちんと言葉にして伝えることだ。
「愛しております。レオンハルト様。心の底から」
「ああ。俺も愛してる。ずっと……貴女を愛してる」
どちらともなく顔を近付け、そっと唇を重ねる。
それはまるで誓いの口付けのようで、彼の言葉とともに深く心の奥に沁み込んでいったようだった。
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次回更新は4月5日(日)を予定しています。




