酔ったレオンハルト、のそのあと
自分に寄り添い、にこにこと嬉しそうに笑っているルシアナを見下ろしたレオンハルトは、何とも言えない表情を浮かべると、優しくその頬を撫でる。
「本当にどこも痛いところはないか?」
「まあ。そう何度も確認されなくても大丈夫ですわ。それほどやわな鍛え方はしていませんもの」
レオンハルトを見上げたルシアナは、どこかうっとりとした様子で笑んだ。その顔は艶やかで、本当に不調などまったく感じられない、むしろ元気があり余っているような活力が見て取れる。
(まぁ、確かに……昼近くまで寝ていたことを除けばいつも通り――いや、いつも以上に元気そうではあるんだが……)
昨夜の出来事を思い出しながら、漏れそうになる溜息を呑み込みながら、レオンハルトはルシアナの額に口付ける。
「それなら……少しだけ傍を離れても大丈夫か?」
「もちろんですわ。すぐお戻りになりますか?」
「そうだな……確認したいことがあるだけだから、それほどかからないと思う」
ルシアナはレオンハルトから離れると「わかりました」と頷く。少しも寂しがる様子もなく、むしろ席を外すことを心なしか嬉しそうにしている姿に、レオンハルトのほうが寂しくなってしまう。
(俺の誕生日に、と何か用意してくれているようだから、定期的にこうして傍を離れるようにしているが、快く送り出されるのはやはり少し寂しいな)
ただ少し傍を離れるだけなのに大袈裟だ、という自覚はある。けれどこればかりはもう仕方ないのだと、レオンハルトは軽くルシアナの唇に吸い付くと、部屋を後にした。
静かな廊下を一人歩いていると、すぐに昨夜のこと、そして今朝のルシアナの反応が脳裏に蘇ってくる。
昨夜のルシアナとのやりとりは、当然ながらすべて覚えている。正気に戻った今、あのときの自分を殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られる。最も許せないのは、彼女の首を押さえつけるように掴んだことだ。
(今思い出しただけでも手首を切り落としてやりたい)
自分の手首を掴みながら、心の中で舌打ちしたレオンハルトだったが、目覚めたルシアナが発した言葉を思い出し、ぴたりと足が止まる。
『そのように謝らないでくださいませ、レオンハルト様! その、むしろ……とてもよかったと申しますか……レオンハルト様に急所を押さえられるのはドキドキしましたし……その、わたくしも苦しかったり痛いのは嫌ですが……またいつか、同じようにしてくださいませんか……?』
そう告げたルシアナの目は、これ以上なく煌めいており、嫌だと拒否することができなかった。もちろん、快諾することもできず、「考えておく」という曖昧な返事になってしまったが、彼女はそれだけで満足だったようだ。
目覚めてからはずっとにこにこと機嫌よさそうに笑い、時折、首に触れては嬉しそうな笑みを漏らしている。レオンハルトを見つめる眼差しは情事を思い起こさせるほど蕩けており、両親からの昼餐の誘いは断らざるを得なかった。
(ルシアナが嬉しそうなのは俺も喜ばしいが、あんなことであそこまで喜ばれると言うのもな……)
再び歩みを進めながら、深く息を漏らすと、視界の端で赤い何かが揺らめいた。何事かと勢いよくそちらを振り向けば、ルシアナに加護を与えている精霊、ベルがふわふわと宙に浮かんでいた。
「……ベル様」
見知った顔に安堵しつつ、レオンハルトは彼女に向け頭を下げる。七歳ぐらいの子ども姿をしてはいるが、彼女から漂う風格は、自然と敬服の念を抱かせる。
「いちいちそう畏まらなくていい。頭を上げろ」
「は、失礼いたします」
彼女がルシアナの元を離れて自分のところへ来るのは大変珍しいが何かあったのだろうか、と頭を上げると、ベルは何とも言えない表情を浮かべ、辺りへ目を向けていた。
「少しだけ話したい。他の奴がいない場所へ案内してくれ」
「かしこまりました」
(本当に何かあったのか?)
彼女の表情を見る限り、自分が不興を買ったわけではなさそうだ。そこにほっと息を吐きつつ、レオンハルトは執務室へと向かった。
城全体に保温魔法がかかっているとは言え、薪を焚いていない室内は少し肌寒い。けれど、過ごせないほどではないな、と思っていると、ふと体が温かい何かに包まれる。
(これは……ベル様のお力か?)
窺うように彼女へ目を向ければ、ベルは小さく鼻を鳴らし、ソファへと座った。
「お前はルシーの大切な番だからな。このくらいは当然だ」
「……ありがとうございます」
彼女に対し一度深く頭を下げてから、彼女の向かいに腰を下ろす。すると、彼女は少し悩ましげに眉を寄せながら、口を開いた。
「お前をこうして呼び出したのは、他でもルシーについて話があったからだ」
当然それ以外ないだろう、と頷けば、ベルは「まずは」と軽く頭を下げた。
「ルシーがおかしなことを頼んで……というか、おかしな性癖を目覚めさせてしまってすまない」
「せっ……!」
“性癖”という言葉に思わず声が裏返ってしまったレオンハルトだが、すぐに咳払いをすると、「いえ」と至極落ち着いた声色で言葉を返す。
「その……ベル様に謝罪いただくようなことではございませんから」
「それはそうなんだが、幼いころからあの子を見てきた者として、同じくルシーを愛する者として、お前が少し不憫でな」
「不憫、ですか……」
(と言うか……今更だが、俺たちの私生活は精霊には筒抜けなのか……)
そう意識すると若干恥ずかしいものだな、と思いつつ、ベルの言葉の真意について考えていると、彼女は「おそらくだが」と神妙そうに声を潜めた。
「大切にされすぎた反動がきているんじゃないかと思う」
「大切にされすぎた反動……」
「ほら、ルシーから話を聞いただろ? トゥルエノでは過保護なくらい周りの奴に大事にされてたって」
「はい」
ルシアナが過去の話をしてくれた日のことを思い出しながら頷けば、彼女も小さく頷き返した。
「騎士や射手としての鍛錬は厳しいものだから、そういうときは当然怪我をしたりもしたが、それ以外では本当に大切に育てられたんだ。姉妹の末っ子というのもあって、あの子に構う者は多かった。それに、他の姉妹はたまに喧嘩することもあったが、皆ルシーには甘く、あの子だけ姉妹喧嘩の経験もない」
話に聞くだけも、十分その姿を想像することができた。
姉妹全員が揃っている姿を見たのは披露宴のときだけだが、全員がルシアナを大事にしているのがわかった。
(特にアレクサンドラ第一王女殿下は、ひと際深く、ルシアナを愛していたように思う)
トゥルエノ王国とシュネーヴェ王国で自由に行き来ができるようになったら、ルシアナが家族と会えるようにしなければ、と密かに決意を燃やす。そんなレオンハルトの意識を戻すように、ベルは「いいか?」と真剣な声色で続けた。
「だから、ルシーは少しぞんざいに、というか乱暴に扱われることに憧れを持ってしまっているんじゃないかと思うんだ」
「……なるほど」
端から聞けば少々馬鹿げた内容だが、レオンハルトは真面目に頷き返す。
「彼女の願いは極力叶えたいですが、ルシアナを傷付けるようなことは彼女自身の願いであっても俺は聞けません」
「だからこそ、ルシーはお前に多少手荒に扱われることに喜びを感じるんじゃないか? お前が深くルシーを愛し、ルシーを傷付けないとわかっているからこそ、お前の中に秘められた狂暴性に惹かれるんだと私は推測している」
「狂暴性、ですか」
「お前自身、自覚はしてるだろ? ルシーを何よりも慈しみ、愛する一方で、その内側には醜い欲求がある」
鋭く光る赤い眼差しに、小さく喉が鳴った。
自分の中の愚かで醜い欲求を見透かされてしまっていることが恐ろしく、また当然だという気もした。
「……だからと言って、ルシアナを傷付ける気は――」
「私もお前がルシーを傷付けるとは思っていない。あの子の趣味は変だと思っているし、お前にとって酷な願いであることもわかってる。だが、あれほど嬉しそうにしているのだから、多少はそれを満たしてやるべきだとも思っている」
「……つまり、ベル様のお話しと言うのは……」
「ああ。あの子がこれ以上変な性癖に目覚めないように、お前がうまく加減をしてあの子を満たしてやってくれ。お前のルシーを想う気持ちを軽んじたくはないが、相手のために譲歩するのもまた愛だろう。私の言いたいことは以上だ。じゃあな」
すっきりしたとでもいうように爽やかな表情を浮かべると、ベルは素早く姿を消した。
火の粉のような残滓が煌めく空間を、レオンハルトはただただ呆然と見つめる。
「……」
(いったい何の時間だった……?)
そう思いながらも、レオンハルトはベルの言葉を反芻した。
(突然何を真剣に話されているのだろうとは思ったが……正直、ベル様のお言葉も一理ある。抑圧され続ければいつか爆発してしまう可能性もあるからな。特に閨事に関しては、ルシアナに我慢させていることも多いし……)
いったい自分は何を真剣に考えているのだろう、と思いつつ、こんなことで頭を悩ませられるくらい、今自分は平和な日々を過ごせているのだと、レオンハルトは思わず口元を綻ばせた。




