第9話 料理人とお嬢様
15年前。
バーモントはアイリスホテルで料理人として働いていた。
15歳のときから本格的に修行に入ったが、メイドをしていた母親について10歳の頃から調理場には出入りしていた。
よく気が利く少年だったので、料理人やホールスタッフたちから可愛がられていたから、そのまま就職したのだ。
バーモントには料理人としての才能があったらしく、厳しい修行にも耐え抜くと徐々に頭角を現した。
20歳になるとスープの担当。22歳ではデザート部門を任され、25歳でついに副料理長へと昇進した。老舗の高級ホテルのメインダイニングを任されることも度々あり、カリフの大金持ちや貴族からその腕を褒めたたえられるほどであった。
バーモントには密かに好きな女性がいた。
それは8歳下のレイラ。
バーモントがお嬢さまと呼ぶ女性だ。
バーモントが15歳で働き始めたころからの知り合い。レイラが14歳になったときには、恋人のように毎日のように親し気に話すようになった。
レイラはホテルを経営するウブロ家の総領娘である。
使用人との交際や結婚など許されるはずがない。
声をかけて来てくるのはいつもレイラからであった。
レイラが16歳になるとお見合いをさせられることについての相談が多くなった。
バーモントはレイラのことが気になってはいたが、それでも相手は自分の手には届かない高値の花。いつも気持ちは押し殺して接していた。
それでも望まぬ結婚のためにお見合いをさせられるレイラの相談に乗っていたのだ。
それは自分が腕を上げ、いつかレイラの父親に認められれば、レイラとの結婚を許してもらおうと思っていたからだ。それには時間が必要である。
「バーモントさん、今度の相手は貴族様ですって。お父様は貴族様にホテルの経営などできるはずがないのに……」
「お嬢様、そこです。断る理由は経営能力がないの1点張りです。そう言えば、きっと旦那様は今回も諦めてくれるはずです」
バーモントは相談に来るレイラに断る理由を助言した。
レイラの気持ちは分からない。
なぜ、そんな重要なことをいつも自分にしてくるのか深くは考えなかったが、レイラの見合いが失敗するたびによかったと胸を撫でおろす自分がいた。
「お嬢さん、料理人は腕で勝負です。腕が良ければどこでも雇ってくれます。そうなれば自由が手に入ります」
「自由……!?」
バーモントはある時そんな話をしたことがある。
レイラが16歳で自分が23歳の時だ。
その時はメインコースのデザート担当を命じられたお祝いで、レイラが銀時計をプレゼントしてくれた時だ。
ホテルの中庭の大きな楠の下であった。
「そうです。自由です。お嬢様も結婚する相手に任せるのではなく、自分が経営して見てはどうでしょうか。そうすれば自由になれると思います」
バーモントはそう持論を話した。自由とは自分を磨き、一人で生きて行けるだけの力を手に入れた者だけがもてるものである。
ウブロ家の令嬢として花や蝶よと大事に育てられていたら、人に左右される人生しか手に入らない。
賢いレイラはバーモントの言うことを理解した。世間知らずの大金持ちの娘がそれを理解できたのは、バーモントを通して下層階級の人々と接していたからだ。
自分がいつの食べている豪華な食事、身に着けている高価な服にアクセサリーは全て自分の父親が稼いでいるものの一部なのだ。
そしてその稼ぎは多くの人の労働によって成り立っている。お金はホテルを利用するお客様の満足によって得られているのだ。
バーモントの言葉を胸にレイラは父親について、ホテルの経営について学んだ。
時にはフロントに立ち、お客のチェックインを手伝い、時には玄関でベルガールをした。
従業員目線でアイリスホテルのホスピタリティを学び、そして改善点を見つけては提案していった。
父親は娘のそんな行動を最初は反対していたが、あまりの熱心さに許し、最後は「お前が男で後継者であったならば……」とため息をついた。
レイラの後継者としての資質を認めながら、最後まで女性の幸せは結婚して子供を産み育てることという枠からは出られなかった。
それが最悪の結果をもたらす。
パープルトン伯爵家との縁組である。
貴族とのつながりを求めたレイラの父親は、パープルトン伯爵家の次男をレイラの婿にすることを承知した。
それが借金まみれで破滅寸前の伯爵家の詐欺であることも知らずに。
「バーモントさん!」
レイラの反対も叶わず、明日が婚礼という日の夜。
レイラはバーモントの下宿の部屋を訪れた。
「お、お嬢さん、こんな時間にどうしたのですか?」
バーモントはレイラの訪問理由が分かっていた。分かっていたから、言葉とは裏腹に心臓は高鳴っていた。
「明日はいよいよ結婚式です。わたしは嫌です。伯爵家の人とはいえ、あんな男の妻にはなりたくありません」
レイラはそう言った。外は雨で傘も差さずにバーモントのところに徒歩で来たのだ。茶髪の髪は濡れて一部はべったりと頬に張り付いている。
「レイラお嬢様、カゼをひいてしまいます。明日の結婚式に熱でも出たらどうするのですか?」
バーモントは乾いたタオルでレイラの頭を拭く。タオルが水分を吸ってベタベタに濡れる。不意にレイラの両手がタオルで拭くバーモントの手を握る。
「バーモントさん、わたしを連れて逃げて」
「えっ……」
バーモントはその言葉に衝撃を受けて言葉を失った。しかし、その言葉はレイラがこの夜分に自分のところへやって来たことでどこか感じていた言葉である。
「お願い。このままではわたしは好きでもない貴族の男と結婚しなくてはなりません。わたしは嫌です。あなたとどこか小さな宿でもいい、食堂でもいい。あなたと二人で暮らしたい」
レイラはバーモントの胸に頬を寄せた。顔は赤い。勇気を振り絞った精一杯の告白だ。
「お、お嬢さん……」
思わずバーモントは抱きしめようとした。バーモントも同じ気持ちだった。身分違いでなければレイラと所帯をもちたい。
小さくても美味しい食事を出す店を経営して生活できる自信はある。
(だけど今のような贅沢な暮らしは無理だ……それに……)
バーモントは抱きしめる代わりにレイラの両肩を掴み、そっと引きはがした。
「レイラお嬢様……ダメです。俺は旦那様を裏切れない」
レイラの父には料理の腕を認めてもらって副料理長にまでしてもらった恩がある。みんながうらやむ老舗ホテルで修業をさせてもらった恩もある。
そんな恩を忘れ、跡継ぎであるレイラと駆け落ちすることはあまりにも礼に反するとバーモントは思った。
(それに……)
「お嬢様の夢はホテルを今よりも発展させることではないですか。俺と逃げればその夢はかなわなくなる」
「いいのです。あなたと一緒なら……」
レイラはぎゅっとバーモントの胸にしがみつき離れない。
バーモントは目を閉じた。
(ああ……レイラお嬢様……だが……ダメだ)
「レイラお嬢様。早くお戻りにならないと旦那様が捜していると思います。明日は結婚式です。お嬢様の方にはアイリスホテルの従業員の人生もかかっているのですよ」
「バーモントさんは、わたしのことが嫌いなの。わたしがあの貴族の男のものになっていいの?」
「……お嬢様。お嬢様が今まで贅沢に暮らしてこられたのも全てアイリスホテルのためです。このホテルではたくさんの従業員が働いています。そしてホテルを贔屓にしてくださるたくさんのお客様もいます。お嬢様はそれらのために生きねばならないのです」
「……本気で言っているのですか」
レイラの言葉には落胆の色があった。
心がどんどん冷めていくのがバーモントにも分かった。
「分かりました……。無理を言いました。さようなら……」
レイラの瞳から涙がこぼれた。
翌日、結婚式は取り行われた。
バーモントはウェディングケーキを担当した。
終始浮かない顔のレイラとニコニコ笑う新郎の男。
結婚式が終わった後、がらんとした厨房にバーモントはそっと辞表を置いた。
料理人の仕事をやめて兵士に志願したのだ。
レイラの結婚が決まったと聞いた時に決めたことだ。




