3.バスケットに差し入れを詰めて
───頑張って俺を口説き落としてください。
あれから二日ほど呆然と過ごしていたわたしは、三日目になってようやく覚醒した。
びくっと身体を揺らしてしまったわたしに、跪いていた恰幅の良い壮年の男性が驚いた顔でいう。
「聖女様? どうなされましたか?」
「……いいえ。続きを聞かせてください」
慈愛に満ちた声でそう告げる。今は国民の皆さんの訴えを聞く告解タイムだ。聖女の椅子に腰かけたまま、わたしの前で膝をつく信徒の話に耳を傾ける。
段差の下で跪く壮年男性は莫大な財産を持つ高位貴族だ。
『聖女様直々に話を聞いてくださる告解の場』は寄付金が高額な人間から優先される。少しだけ良心は痛むものの、孤児院の運営や子どもたちの教育にはお金がかかるので仕方がない。まぁ、聖女のわたしが金集めなんかしなくていいとジェラルド様にはいわれたものだけど。
この壮年男性の話は長年連れ添った妻が人が変わったように冷たくなってしまったという嘆きだった。おしどり夫婦として有名だったのに、いったいどうしてなのか。妻の態度が酷い。以前の関係に戻りたい。……そんな話をずっとしているのだけど、わたしは知っている。奥さんが冷たくなったのは夫が三十歳も年下の愛人を囲っていることを知ったからだ。神殿にはいろいろな話が入ってくるんだよね。
ただし聖女はいかなる人間も裁くことはない。
ひたすら話を聞いて、最後に慈愛の言葉をかけて終わりだ。素顔を晒すこともない。特殊な技法で織り込まれたヴェールは、わたしの視界を遮ることなく、わたしの顔を隠してくれる。人前に立つときは常にこのヴェールを被っているので、聖女の素顔を知るのは一握りの人間だけだ。
『全身の淡い輝きと左手の聖痕。聖女の証としてはそれで十分でしょう』
『表情を作り続けるのは君が考えているよりずっと疲れるものです。どうしても聖女として働きたいというのならこのヴェールを使用すること。それが俺の絶対の条件です』
『……顔を隠していると相手に悪い気がする? はぁー……、君のその真面目さと善良さは食い物にされるだけです。今すぐ捨てたほうがいい』
襤褸切れのような孤児から一転して聖女として大人たちにあがめられ、贅を凝らした暮らしをさせられて、恐ろしくなった幼いわたしは仕事を求めた。役割を求めた。何でもします! という意気込みをみせた。
そんなわたしにストップをかけて、今の体制を作ってくれたのはジェラルド様だった。実際、働いてみると、この表情を隠してくれるヴェールはとてもありがたかった。浮気を隠して妻を責め立てる男性の話を聞かされて、げんなりした顔になっても大丈夫。声さえ取り繕っておけば問題ない。聖女様が不快な思いをされたなんて騒がれることもない。
『頑張って俺を口説き落としてください』
顔が真っ赤になっても大丈夫……!
わたしはヴェールに隠れたまま、ここにはいないジェラルド様に向かって口をぱくぱくさせた。どういうつもりなんですか。本気でいっているんですか。本気にしますからね!?
二日も呆然と過ごしてしまったけれど、よく考えてみるとこれはチャンスだろう。
今まではあの人との関係が壊れてしまうのが怖くて積極的に動くこともできなかったけど、今回はジェラルド様公認なのだ。あの人のことだからどうせいつもの『庇護しなくては』という考えなのだろうけど、それが甘かったことをわからせてみせようじゃないの。この手でジェラルド様を篭絡してみせる……!
わたしは告解の時間が終わるとすぐに神殿の奥へ引っ込み、馴染みのシスターの一人にお金を積んでお願いをした。
※
それから五日後。
わたしは手土産をバスケットに入れて、王宮にある王弟殿下の執務室を訪れていた。
ジェラルド様が人払いをして、二人きりになったところでヴェールを上げる。
「お忙しいところ失礼します。ジェラルド様、これはあなたの大人な婚約者からの差し入れです。……って、ジェラルド様? なにか疲れてません? また夜遅くまで仕事をされていたんですか?」
そういいながら近づいてジェラルド様を見上げる。普段の三割増して眉間の皺が深くなっている。わたしは手を伸ばしてジェラルド様の眉間に触れた。皺をほぐすように撫でていると、その手をジェラルド様に捕まれた。
「遅いんじゃないですか、モニカ」
「約束通りの時間ですよ?」
「俺を口説き落とすと宣言しておきながら八日も放置するとは、やる気が感じられません。減点十五点です」
「減点!? しかも多い!!」
「プラスの百点になったら俺は君に心奪われたと認めましょう。ちなみにマイナスの百点になったときは……、覚悟をしておいてくださいね?」
ジェラルド様がにっこりと笑う。完全によからぬ笑みだ。
わたしは反社会的組織の若頭に脅されているような心地になりながらも、片手に持っていたバスケットを顔の高さまで持ち上げた。
「ジェラルド様が喜んでくれそうな差し入れを用意するのに時間がかかったんです」
「ふぅん? 君の手作りの焼き菓子ですか? それとも手作りのサンドイッチかな?」
「いえ、今王都で大人気のパティスリー・シャルメの一日十本限定のウィスキーケーキです。朝から並んでも買えないくらいの超人気商品なんですよ。甘すぎない大人向けのスイーツだそうですから、ジェラルド様の口にもきっと合うと……」
わたしはそこまでいって止まった。ジェラルド様の眉間の皺が悪化したからだ。
理由には心当たりがあったので、懸命に言い訳を口にする。
「お察しの通り、これを買いに行ってくれたのはシスターです。わたしは朝のお務めがあるので抜け出せなかったんです。『他人に買ってもらったものを差し入れに?』というお気持ちはわかりますが、ジェラルド様に美味しいものを食べてほしくて」
「俺はそんなことは気にしていません。君が自分で抱え込まず、他人を使うのは良いことだと思っています」
「じゃあなんで不機嫌になっているんですか」
「……君の手作りを期待していたので」
薄い青の瞳が憮然としたようにわたしを見下ろした。
「孤児院への慰問ではいつも手作りの焼き菓子を差し入れているでしょう。俺もあれを食べることができるのかと期待していただけです」
「───っ!!」
えっ、とか、あっ、とか、そんな声しか出てこない。
顔が真っ赤になっているのがわかる。心臓が大きな音を立てている。ジェラルド様にも聞こえてしまいそうなほどだ。
「こっ、孤児院は、聖女の手作りのほうがありがたがられるので……っ。でも、ジェラルド様は御利益なんてないことを知ってるし、わたしなんかの手作りより、美味しいほうがいいと思って……」
「そうですか。では覚えておいてください、モニカ」
ジェラルド様がわたしの耳に唇を寄せて、低い声で囁いた。
「君はすぐ自分を卑下しますが、俺を口説きたいなら、君の愛がこもった手作りのほうがずっと効果があります」
「みっ、耳がおかしくなりそうなので喋らないでください……!」
わたしが押しのけると、ジェラルド様はあっさりと引いた。
そして冷酷に告げた。
「がっかりしたので減点十五点です」
「そんな! これ高かったんですよ!? 点数をつけるのは食べてからにしてください! 絶対ジェラルド様の好きな味ですから!」
「……まぁ、俺の好みを考えてくれたところは加点しましょうか。加点十五点で差し引きゼロです」
「食べ終わる頃には加点100点になってます!」




