第99話「設置日は未定です」
七月に入ると、緑町店のエアコン売場は朝から熱を持った。
開店前の入口には、すでに数人が並んでいる。店内に入ってくる客の多くが、まっすぐエアコン売場へ向かった。梅雨明けが早いとニュースで言っていた。週末には三十五度を超える予報も出ている。
「本日お持ち帰りできる機種もございます」
「設置工事は、最短で再来週のご案内です」
「お部屋の広さは何畳でしょうか」
販売員たちの声が重なる。
安西真帆は、売場と工事受付を何度も行き来していた。売れる。間違いなく売れている。午前中だけで、エアコンは十五台成約した。
ただ、工事カレンダーの空きは、売上の伸びとは同じ速さで増えない。
「副店長、標準工事なら七月十四日が最短です」
亀田が、端末を見ながら言った。
「七月十四日?」
「はい。午前枠は埋まってます。午後なら一件だけ」
「今日、七月三日よ」
「分かってます」
亀田の声にも焦りがあった。
広域工事会社への切り替えは、予定どおり進んでいた。
予約画面は見やすくなった。工事写真もすぐ上がる。報告書の形式も揃っている。標準的な戸建てやマンションの設置は、むしろ以前より管理しやすい。
だから、最初は問題にならなかった。
問題になったのは、標準ではない家だった。
*
「専用回路がないので、本日は取り付けできません」
工事受付の電話口で、広域工事会社の担当者が説明していた。
安西は、隣で別の端末を開いていたが、その言葉に顔を上げた。
「専用回路なし?」
電話を終えた工事受付担当が、頷いた。
「緑町三丁目の田島様です。二階の和室。古い分電盤で、エアコン用の専用回路がありませんでした。電気工事が別途必要です」
「下見は入れていなかったの」
「標準工事で受けています。お客様からは、前にもエアコンが付いていたと」
「前に付いていたなら」
そこまで言って、安西は言葉を止めた。
前に付いていたことと、今の機種を安全に付けられることは同じではない。
「次の工事日は」
「電気工事の見積もりを出して、承認後に再手配です。最短でも二週間後です」
「二週間」
「お客様、かなり怒っています。今日付くと思って休みを取ったそうです」
安西は、田島の注文情報を開いた。
備考欄には「二階和室、既設あり」とだけある。
既設あり。
その四文字では、古い分電盤のことは分からない。
午後には、別の案件が止まった。
「室外機を置く予定の場所が、隣家の敷地に少しかかるそうです」
「お客様は了承しているの」
「お客様は、前からそこだから大丈夫だとおっしゃっています。ただ、工事会社としては隣家の確認なしでは置けないと」
「それは、そうね」
「隣の方が今日は不在です」
安西は、画面を見つめた。
工事会社の判断は正しい。勝手に置くわけにはいかない。事故を避けるためには、手順を守るべきだ。
ただ、その手順を守ると、今日の設置はできない。
夕方には、工事日を尋ねる客が売場にまで溢れた。
「この機種、工事はいつになりますか」
「標準工事で収まる場合なら、最短で七月十四日です」
「在庫はあるんでしょう」
「はい。ただ、設置工事の枠は別になります」
「今日決めても、すぐには使えないのね」
女性は値札から目を離し、連れの男性を見た。
安西は何度も同じ説明をした。
客が悪いわけではない。店員が嘘をついたわけでもない。商品は本当にある。価格も間違っていない。標準工事なら、七月十四日以降に取れる枠はある。
だが、緑町の古い家は、画面上の標準工事に収まらなかった。
*
翌日の昼前、なずな書房の萩原道子が来店した。
小柄な女性で、淡い色のカーディガンを羽織っている。安西は名前を聞いて、前に小野寺電器で出た電話を思い出した。
「奥の棚のところのエアコンですよね」
安西が言うと、萩原は少し驚いたように目を上げた。
「小野寺さんから聞いたんですか」
「前に、小野寺電器さんでお電話を受けているところに居合わせました」
「先週、閉店後に見ていただいたんです。もう部品交換では難しいだろうって」
「買い替えを勧められたんですね」
「ええ。暑くなる前にと思っていたんですが、今日、ようやく来られました。取り付けまでは受けられないから、品物はホクトデンキさんで見た方が早いとも言われて」
萩原は、手に持っていた紙をテーブルに置いた。店内の簡単な見取り図だった。書棚、レジ、奥の読書スペース、小さな事務机。その奥に、問題のエアコンが赤丸で示されている。
「買い替えたいのですが、昼間は脚立を立てにくいんです。お客様が通るので」
「閉店後の工事をご希望ですね」
「はい。小野寺さんは、いつも閉店後に見てくださっていました」
安西は端末を開いた。
工事時間帯は、午前、午後、夕方の三枠。閉店後という項目はない。
「通常の工事枠ですと、最終は十七時から十九時の間になります」
「うちは十九時まで開けています」
「その後の時間帯は、通常枠ではお受けできません。特別対応になるか、本部確認が必要です」
「そうですか」
萩原は怒らなかった。
困ったように、見取り図の赤丸を見た。
「では、休業日に合わせるしかないですね。ただ、七月は読書感想文のコーナーを出していて、休みを増やすのも難しくて」
安西は、返事を探した。
ホクトデンキならエアコンは売れる。希望の機種も在庫がある。延長保証もつけられる。
けれど、閉店後に脚立を立てる枠がない。
「お急ぎですか」
「奥の棚は、午後になるとかなり暑くなります。本を長く置くには、あまりよくないんです」
本。
安西は、売場で扱う商品とは違うものを思った。
エアコンが付かないことで、人が暑いだけではない。本が傷む。店の奥に客が入らなくなる。閉店後にしか脚立を立てられない理由も、ただのわがままではない。
「確認して、折り返します」
「お願いします」
萩原は丁寧に頭を下げて帰った。
安西は、萩原の見取り図を端末の横に置いた。
画面の工事枠には、丸と三角とバツが並んでいる。どれも、売場から見れば分かりやすい記号だった。
そのどこにも、書棚の間に脚立を立てる時間は書かれていなかった。
なずな書房は閉店後。
佐野は事前に家族確認。
田島は古い分電盤。
隣家確認が必要な室外機。
どれも、客の都合と言えばそうだった。
だが、どれも、その家や店でエアコンを使うためには必要な条件だった。
夕方、バックヤードに荷物を置いたところで、売場側から亀田が顔を出した。
「副店長。お客様が、工事日次第で決めたいそうです。在庫はあるって説明したんですが」
安西は頷いた。
売場では、若い夫婦が値札の前に立っていた。小さな子どもが、展示機の下でうちわを持っている。
「この機種、今日決めると、工事はいつになりますか」
夫が聞いた。
安西は、いつものように答えかけた。
けれど、言葉はそのまま出なかった。
安西は、端末を開いた。
「標準工事で収まれば、七月十四日以降です。ただ、設置場所によって工事日が変わります。お部屋と室外機の場所を確認させてください」
「普通のマンションです」
「何階でしょうか。室外機はベランダ置きですか」
「五階です。ベランダに置きます」
「専用コンセントはありますか」
「たぶん」
たぶん。
以前なら、そのまま標準工事で進めていたかもしれない。
安西は、申込画面を開いたまま、確認事項を一つずつ聞いた。専用コンセントが曖昧なままでは、工事日は確定できない。
その間にも、売場では次の客が待っていた。
エアコンは売れている。
数字は、伸びている。
けれど、成約の手前で止まる客も増えていた。
端末の一覧には、見積もり中、要確認、折り返し、下見待ち、という文字が増えていった。
閉店後、安西は一日の販売実績を見た。
目標比、一二八パーセント。
その横に、成約前の保留案件が表示されている。
二十三件。
安西は、画面を閉じなかった。
売れた数と、売れないまま止まっている数が、同じ画面に並んでいた。




