第100話「小野寺電器」
翌朝、安西真帆は開店前の売場で、前日の保留案件の一覧を印刷した。
二十三件。
そのうち八件は、見積もりまで出したものの、家族確認や日程返答待ちで成約に進んでいない。残りは、下見待ち、追加工事見積もり待ち、現地条件の確認待ち、工事会社からの折り返し待ちだった。
販売実績だけを見れば、緑町店は好調だった。
だが、保留案件の一覧を見ると、売上票とは違う店の姿が見えた。
エアコンは売れている。
けれど、買う手前で止まっている部屋もある。
「副店長、朝礼です」
亀田が声をかけた。
「先に行ってて。すぐ行く」
安西は一覧をクリアファイルに入れた。
その上に、萩原が置いていったなずな書房の見取り図を重ねる。書棚の位置、閉店後の作業希望、奥の棚の赤丸。
売場の画面には、出てこないものばかりだった。
*
小野寺電器のシャッターは、半分だけ開いていた。
安西が訪ねたのは、午前十時すぎだった。ホクトデンキの開店直後は売場が忙しい。だが、その日は店長に事情を話し、一時間だけ外に出た。
小野寺は店の奥で、古い蛍光灯の箱をまとめていた。美和は伝票ファイルを段ボールに入れている。
「お忙しいところ、すみません」
安西が言うと、小野寺は手を止めた。
段ボールの横に腰を下ろし、安西を見る。
「どうしました」
安西は、クリアファイルを出した。
「なずな書房さんの件です。閉店後でないと脚立を立てられないと伺っています。通常枠にはないので、本部確認になります」
「でしょうね」
「小野寺さんなら、どうされますか」
小野寺は、すぐには答えなかった。
棚の上に置いてあった古い台帳に手を置いたが、すぐには開かなかった。代わりに、その横の薄いファイルを取る。
「台帳そのものはお見せできません。これは、ホクトデンキさんで扱った案件と、萩原さんから話を通していいと言われた分だけ、見せても差し支えない範囲で書き出したものです」
小野寺はファイルを開いた。
そこには、きれいとは言えない字で、日付と短いメモが並んでいた。
『なずな書房 奥棚上 閉店後のみ脚立可。裏口から入る。棚移動は萩原さん立会い』
『数年前の七月 ドレン詰まり。閉店後作業。翌朝確認』
『夏前に一度連絡。紙の本が多い棚、湿気注意』
安西は、黙って文字を追った。
「これ、全部のお客様にあるんですか」
「全部ではありません。何度も行くところだけです」
小野寺は、別の用紙をめくった。
『S様 一階六畳。庭側配管。見積もりはご家族確認後。雨後は縁側下ぬかるむ』
『T様 二階和室。分電盤古い。専用回路要確認。駐車は南側空地、事前連絡』
『Y様 室外機、隣家境界注意。奥様同士で先に声かけ』
名前は伏せられていたが、安西には内容だけで分かった。
田島。
山岡。
「ここに書いてあったんですね」
「うちの仕事では、必要だったので」
「ホクトデンキの端末には、入っていませんでした」
「でしょうね。私も、全部は入れていません」
小野寺の声に、開き直りはなかった。
むしろ、そのことを少し申し訳なく思っているように聞こえた。
「入れた方がよかったんでしょう。量販店さんの仕事を受けるなら、そういう形にしないといけない。そこは、私が古かったんです」
安西は顔を上げた。
「古い、ですか」
「ええ。電話して、分かる人に言えば済むと思っていた。紙の台帳を見れば、自分は分かる。でも、お宅の店では、それでは回らない」
小野寺はファイルを閉じた。
「だから、広域の会社にまとめるのも分かります。若い人が見ても分かる画面にしておくのは、大事です」
安西は、その言葉に少し救われるような気がした。
小野寺は、ホクトデンキを責めていない。大手の仕組みを否定していない。
だからこそ、安西は聞きづらかった。
「でも、このファイルに書き出された判断がないと、今、止まっています」
「そうですね」
小野寺は頷いた。
「買うところは、ちゃんとできたんです。お宅は強い。品物もある。保証もある。年寄りでも、レジで分割や保証の説明を聞ける。うちではできないことも多い」
小野寺は、少しだけ店内を見た。
古い電池、処分予定のリモコン、箱に入ったままの蛍光灯。
「でも、買ったあと、その家で使えるようにするところは、別の仕事です」
安西は、小野寺が閉じた薄いファイルを見た。
そこに書き出されていたものは、顧客名簿ではなかった。
設置できるかどうかの地図だった。
*
午後、安西はエリアマネージャーの篠田に電話をかけた。
「緑町店の安西です。保留案件の件で、ご相談があります」
篠田は、すぐに保留案件の一覧を開いたようだった。
「保留案件が増えていますね。広域工事会社からも、難工事の再訪問が多いと報告が来ています」
「はい。標準工事は回っています。ただ、緑町三丁目と商店街周辺は、事前下見を入れないと当日止まる案件が多いです」
「下見を増やすと、販売単価に影響します」
「承知しています」
安西は、机の上に小野寺の台帳の写しではなく、小野寺に確認したうえで自分で書き直したメモを置いた。
個人情報は入れていない。必要なのは、固有の名前ではなく、判断の型だった。
古い分電盤。
室外機の境界確認。
閉店後しか脚立を立てられない店舗。
家族確認が必要な高齢客。
狭い路地で車が入らない住宅。
「販売時に、地域別の確認項目を追加したいです。該当する場合は、その場で標準工事として予約せず、下見または難工事確認に回します」
「売場の成約率は落ちますよ」
「落ちると思います」
「競合店に流れる可能性もあります」
「あります」
安西は、そこで一度息を吸った。
「でも、成約後に二週間待たせて、結局追加工事で止まる方が、お客様は離れます」
電話の向こうで、篠田が黙った。
「地域の協力工事店を戻したい、という話ですか」
「戻す、というより、下見と難工事判断を別枠で契約できないかと思っています。設置工事そのものを全部お願いするのではなく、地域を知っている業者に、事前確認だけでも正式なメニューとして依頼する形です」
「委託費は上がります」
「はい」
「小野寺電器さんは、契約終了の意向では」
「小野寺さんは、夏の件数を回す体力がないとおっしゃっていました。ただ、無償ではなく、下見や判断の型を業務として依頼する形なら、相談の余地があるかもしれません」
篠田は、少しだけ声を低くした。
「安西さん、個人店に頼り続ける運用に戻すわけにはいきません」
「分かっています」
「属人化は減らす必要があります」
「はい。だから、属人化していた判断を、売場と工事受付に移したいんです」
言ってから、安西は自分の言葉に少し驚いた。
小野寺の代わりを探すのではなく、小野寺が持っていた判断を、仕事として認めることだった。
「一度、資料にしてください」
篠田が言った。
「店舗限定の試行なら、検討します」
「ありがとうございます」
「ただし、販売計画も見直しです。標準工事込みで売り切る前提は変わります」
「はい」
電話を切ると、安西は椅子にもたれた。
楽な提案ではない。店長にも説明が必要だ。売場の販売員にも、新しい確認項目を覚えてもらわなければならない。客にとっては、すぐ成約に進めない、すぐ工事日が決まらない場面も増える。
その日のうちに、安西は簡単な提案資料を篠田へ送り、大貫にも同じものを見せた。返ってきたのは、「販売条件にしない聞き取りなら、店舗裁量で一週間試してよい」という短い了承だった。
小野寺電器への別枠依頼は、別途検討に回す。なずな書房の件は、通常枠ではなく店舗案件として本部確認に上げる。すぐに答えが出るわけではないが、「枠がないので不可」で返す話ではなくなった。
安西はその方針を工事受付へ伝え、萩原にも電話を入れた。すぐに工事日を約束することはできない。ただ、通常枠にないから不可で終わらせず、閉店後対応の可否を本部に確認している。そう説明すると、萩原は少し間を置いてから、よろしくお願いします、と答えた。
聞き取りメモは、その返答を待つあいだに、無理な成約を売場で止めるためのものだった。
それでも、今よりはましだと思った。
買えるだけでは、足りない。
*
翌週、緑町店のエアコン売場には、篠田の返答と店長の了承を受けた暫定の聞き取りメモが置かれた。
古い木造住宅か。
専用コンセントはあるか。
室外機の置き場所は隣家にかからないか。
店舗の場合、脚立を立てられる時間帯はいつか。
高齢の客の場合、見積もりを確認する家族がいるか。
項目は多かった。正式な全店導入ではない。緑町店の売場で、まず一週間だけ試すための紙だった。
亀田は、最初に見たとき、少し顔をしかめた。
「これだけ聞くと、お客様に面倒がられませんか」
「面倒がると思う。でも、当日付かない方がもっと困る」
亀田は、しばらく聞き取りメモを見ていた。
「小野寺さんは、こういうことを全部聞いていたんですか」
「たぶん、聞く前から分かっていたことも多いと思う」
「すごいですね」
「すごい。でも、小野寺さん一人にしか分からないままなのは危ない」
亀田は、納得したような、していないような顔をした。
それでいい、と安西は思った。最初から全部分かる必要はない。自分も、まだ分かっている途中だった。
昼前、売場に年配の男性が来た。
チラシを片手に、展示機を指す。
「このエアコン、今日買えますか」
安西は、男性の手元のチラシを見た。
売価、在庫、ポイント、標準工事込み。どれも間違っていない。
以前なら、すぐに答えていた。
それなら、うちで買えますよ。
安西は一拍置いた。
「はい。商品はございます」
男性がほっとした顔をする。
安西は、聞き取りメモを手元に引き寄せた。
「ただ、先にお宅の設置場所を確認させてください。買っていただいても、当日そのまま付けられない場合があります」
「そんなに難しいんですか」
「難しくないお宅もあります。ですが、緑町は古いお宅も多いので」
男性は少し面倒そうにしたが、椅子に座った。
「じゃあ、下見をお願いできますか。前に付けたのは、小野寺さんだったんだけど」
安西は、ペンを持った手を止めた。
「小野寺電器さんですね。まずは設置場所の状況を伺って、下見が必要なら手配します」
「ええ。あの人なら、うちの裏まで知ってるんだけどね」
「そうですね」
安西は、聞き取りメモの一行目に丸をつけた。
「小野寺さんが見ていたことも、こちらで一つずつ確認します」
売場の向こうでは、白いエアコンが整然と並んでいる。
ホクトデンキの在庫は、今日も十分にあった。価格も、保証も、販売の仕組みもある。
だが安西は、もうそれだけを見ていなかった。
商品が売れること。
工事日が決まること。
その家で、ちゃんと涼しい風が出ること。
そこまで届いて、ようやく買えたと言えるのだと思った。
安西は、男性に向き直った。
「室外機は、今どちらに置いてありますか」
男性が、少し考えてから答え始めた。
安西はその言葉を、端末ではなく、まず紙の聞き取りメモに書き込んだ。
売場の数字は、少しだけ遅くなる。
それでもいい。
小野寺電器のシャッターは、年内には下りる。
けれど、その店が見ていたものまで、閉じてしまう必要はなかった。




