第101話「巡回で十分です」
東都コミュニティ管理の第三会議室には、朝から紙の匂いがこもっていた。
長机の上に、次期管理委託契約の資料が二種類並んでいる。
一つは、これまで通りの平日日勤管理を続ける案。
もう一つは、管理員業務を巡回管理に切り替える案。
瀬川理央は、二つの見積書を見比べた。
数字だけなら、答えは分かりやすい。
日勤継続案は、現行契約から二十八パーセント増。
巡回管理案は、ほぼ据え置き。
緑町つばきテラスの理事会がどちらに目を向けるかは、最初から見えていた。
「二十八パーセントは、少し大きくありませんか」
瀬川が言うと、営業部長の浅倉一臣はスクリーンから目を離さずに答えた。
「人件費が上がっている。最低賃金も、代務員の単価も、保険も上がっている。現場を置くなら、それくらい必要だ」
「人件費だけなら、ここまでにはならないと思います」
瀬川は、見積書の内訳に視線を落とした。
本部管理費、システム利用料、緊急受付体制強化費。どれも全く不要な費用ではない。だが、日勤継続案の方に厚く乗っている。
同じ資料を見ていた成田透吾が、ペンの先で机を軽く叩いた。
「この並べ方だと、巡回に流れませんか」
浅倉は、そこでようやく二人を見た。
「誘導じゃない。選択肢を出している」
声は穏やかだった。
ただ、その穏やかさには、もう結論が決まっている人の硬さがあった。
「管理組合が選ぶんだ。日勤が必要だと思えば、日勤案を選べばいい。費用を抑えたいなら、巡回案を選べばいい」
「でも、巡回案だと管理員室は空きます」
「今どき、管理員室に毎日人を置かない物件は珍しくない。コールセンターもある。巡回記録アプリも入る。緊急時は提携会社が動く」
浅倉は資料を一枚めくった。
そこには、きれいな図が並んでいた。
電話を受けるオペレーター。スマートフォンで巡回結果を入力する管理員。二十四時間受付という文字。
「清掃確認、掲示物、業者対応、点検立ち会い。やることを整理すれば、巡回で十分です」
瀬川は、その言葉をメモ欄に書きかけて、やめた。
巡回で十分。
説明資料の見出しとしては、使いやすい。
けれど、口に出すと、何かが軽くなる言葉だった。
*
緑町つばきテラスは、駅から徒歩七分の分譲マンションだった。
十五階建て、百八十戸。築十八年。エントランスの床は淡いグレーの石で、午前中は東側のガラスから光が入る。
管理員室は、そのエントランスのすぐ横にあった。
受付窓の向こうに小さな机と電話機、鍵の保管庫、掲示物の予備、古い来客用スリッパが並んでいる。
理事会は、集会室で行われた。
長机をロの字に並べ、中央に資料が置かれている。宮園理事長は、眼鏡を外して見積書を眺めていた。
「日勤を続けると、これだけ上がるんですか」
宮園が言った。
六十代前半の男性で、声は穏やかだが、数字を見る目は厳しい。
「はい」
浅倉が頷く。
「管理員人件費の上昇、代務員手配費、緊急受付体制の維持費を反映しています。従来と同じ品質を維持するには、この金額になります」
「巡回管理なら、今とほぼ同じ」
「はい。日常清掃は現行頻度を維持します。管理員業務は週三回の巡回に整理し、掲示物対応、点検立ち会いの調整、電話受付のコールセンター化で対応します」
瀬川は浅倉の隣で資料をめくった。
嘘は言っていない。
巡回管理でも、契約上の業務は組める。清掃会社との連携もできる。掲示物も貼れる。設備点検の日程調整も、フロントが行えばいい。
ただ、今の管理員が毎朝そこにいることは、資料のどこにも入っていなかった。
「藤沢さんは、どうなるんですか」
女性理事が尋ねた。
藤沢修。緑町つばきテラスを十年以上担当している日勤管理員だ。
「人員配置については、契約変更後に当社で調整します」
浅倉は、用意していた答えをそのまま出した。
「では、毎日は来ないんですね」
「巡回管理ですので、毎日の常駐ではありません」
「常駐ではなく、日勤ですよね」
瀬川は思わず口を挟んだ。
浅倉が横目で見た。
女性理事は小さく頷いた。
「そうです。藤沢さん、夜はいません。でも朝から夕方まではいるので」
「失礼しました」
浅倉はすぐに言い直した。
「現在の平日日勤から、週三回の巡回へ変更となります。ただ、緊急時はコールセンターで受け付けますし、設備トラブルは提携会社と連携します」
「宅配ボックスの不具合は」
「巡回時に確認します。急ぎの場合はコールセンターへご連絡ください」
「ゴミ置き場は」
「清掃会社との連携で対応します」
「業者用の共用部鍵の受け渡しは」
「事前予約制にできます」
質問は続いた。
浅倉は一つ一つ答えた。
どれも契約上は通る答えだった。通る答えだからこそ、瀬川は口を挟みにくかった。
理事会の空気は、少しずつ決まっていく。
値上げは避けたい。
管理費を上げれば、総会で必ず反対が出る。
修繕積立金も近いうちに見直さなければならない。
それなら、管理委託費は抑えたい。
誰かが強く巡回案を支持したわけではない。
誰かが藤沢を不要だと言ったわけでもない。
ただ、二つの金額が並べられたとき、安い方へ流れていく力は強かった。
「総会には、巡回管理案を軸に出しましょう」
宮園理事長が言った。
「日勤継続案も参考資料として添付します。ただ、理事会としては、管理費を抑える方向で提案する。それでよろしいですか」
理事たちは、少しずつ頷いた。
瀬川は議事録のメモに、総会議案の方向性を書き込んだ。
管理員業務、平日日勤から巡回管理への変更案。
週三回。午前または午後、各二時間程度。
文字にすると、簡単だった。
*
翌朝、藤沢修は七時四十分に管理員室のシャッターを開けた。
勤務開始は八時だが、藤沢はいつも少し早く来ていた。
小さな窓の鍵を外し、机の上に置いた日誌を開く。前日の設備点検報告、宅配ボックスの問い合わせ、排水管清掃の欠席者リスト。ひと通り目を通してから、藤沢はゴミ置き場へ向かった。
ゴミ置き場の扉を開けると、湿った段ボールの匂いがした。
「また畳んでないな」
藤沢は独り言を言い、軍手をはめた。
段ボールを畳み、資源ごみの奥へ寄せる。袋の口が開いている可燃ごみを結び直す。分別違いの袋には、注意の紙を貼る。
怒っても仕方ない。
誰が出したかを探すより、次に同じことが起きないようにする方が早い。
ゴミ置き場を出ると、藤沢はエントランスへ戻った。
集合ポストの前を通る。
そこで、鈴木昭子が立っていた。
八十代の一人暮らしで、三階の角部屋に住んでいる。毎朝八時すぎに新聞を取り、ポストの前で少しだけ封筒を分ける。火曜日は整形外科、木曜日は娘が来る。藤沢は、そういうことを特別に覚えようとしたわけではない。
毎朝見ていると、勝手に覚える。
「おはようございます、鈴木さん」
藤沢が声をかけると、鈴木は少し遅れて顔を上げた。
「ああ、藤沢さん。おはようございます」
返事はいつも通りだった。
ただ、ポストの扉を閉める手が、少し遅い。
「今日は通院の日でしたっけ」
「いいえ。今日は何もない日」
「そうですか。少し足元、気をつけてくださいね。昨日、雨が降ったので」
「大丈夫よ。年寄り扱いしないで」
鈴木は笑った。
藤沢も笑って、深く追いかけなかった。
管理員は家族ではない。
医者でもない。
ただ、毎朝そこにいるだけだ。
鈴木がエレベーターへ向かうのを見届けてから、藤沢は管理員室へ戻った。
机の端に置いた小さなメモ用紙を一枚取り、短く書く。
『鈴木さん、足元少しゆっくり。明日も声かけ』
それは、契約書に書くような仕事ではなかった。
報告書に上げるほどの異常でもない。正式な日誌に残すには、少し踏み込みすぎている。
だが、明日の朝に見るためのメモだった。
そのあと藤沢は、掲示板の端が浮いているのを直し、宅配ボックスの一番下に入ったままの荷物番号を控え、植栽の根元に落ちていた子どもの水筒を管理員室に置いた。
九時半になるころには、エントランスを通る住民の顔ぶれが変わる。
出勤する人、保育園へ向かう親子、犬の散歩から戻る人、宅配業者、点検業者。
藤沢は、その流れの端にいた。
目立たない。
呼ばれなければ、名前も出ない。
それでも、誰がいつもと違うかは分かった。
*
その日の午後、瀬川は会社に戻り、緑町つばきテラスの総会資料用の次期契約案別表を開いた。
管理員業務。
勤務形態。
平日日勤、八時から十七時。
その行を選択する。
削除。
新しい文面を入力する。
巡回管理、週三回。各回二時間程度。日常清掃は現行頻度を維持。清掃状況確認、掲示物対応、共用部目視確認、点検立ち会い調整。
瀬川は、そこで手を止めた。
共用部目視確認。
その言葉の中に、集合ポスト前で鈴木に声をかける藤沢の姿は入らない。
宅配ボックスの下段に残った荷物も、掲示板の端の浮きも、ゴミ置き場の段ボールも、項目としては入る。
でも、毎朝そこを通る人がいることは、項目にならなかった。
「瀬川さん、別表案できた?」
浅倉が背後から声をかけた。
「はい。いま確認しています」
「急いで。総会資料の締切、明日だから」
「分かりました」
瀬川は画面に向き直った。
文字数は減っていた。
金額も下がっていた。
契約案としては、整っている。
それでも、消えたものが何かを、書面は表示してくれなかった。




