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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
第23章『巡回で十分です』

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第101話「巡回で十分です」

 東都コミュニティ管理の第三会議室には、朝から紙の匂いがこもっていた。


 長机の上に、次期管理委託契約の資料が二種類並んでいる。

 一つは、これまで通りの平日日勤管理を続ける案。

 もう一つは、管理員業務を巡回管理に切り替える案。


 瀬川理央は、二つの見積書を見比べた。

 数字だけなら、答えは分かりやすい。


 日勤継続案は、現行契約から二十八パーセント増。

 巡回管理案は、ほぼ据え置き。


 緑町つばきテラスの理事会がどちらに目を向けるかは、最初から見えていた。


「二十八パーセントは、少し大きくありませんか」


 瀬川が言うと、営業部長の浅倉一臣はスクリーンから目を離さずに答えた。


「人件費が上がっている。最低賃金も、代務員の単価も、保険も上がっている。現場を置くなら、それくらい必要だ」


「人件費だけなら、ここまでにはならないと思います」


 瀬川は、見積書の内訳に視線を落とした。

 本部管理費、システム利用料、緊急受付体制強化費。どれも全く不要な費用ではない。だが、日勤継続案の方に厚く乗っている。


 同じ資料を見ていた成田透吾が、ペンの先で机を軽く叩いた。


「この並べ方だと、巡回に流れませんか」


 浅倉は、そこでようやく二人を見た。


「誘導じゃない。選択肢を出している」


 声は穏やかだった。

 ただ、その穏やかさには、もう結論が決まっている人の硬さがあった。


「管理組合が選ぶんだ。日勤が必要だと思えば、日勤案を選べばいい。費用を抑えたいなら、巡回案を選べばいい」


「でも、巡回案だと管理員室は空きます」


「今どき、管理員室に毎日人を置かない物件は珍しくない。コールセンターもある。巡回記録アプリも入る。緊急時は提携会社が動く」


 浅倉は資料を一枚めくった。

 そこには、きれいな図が並んでいた。

 電話を受けるオペレーター。スマートフォンで巡回結果を入力する管理員。二十四時間受付という文字。


「清掃確認、掲示物、業者対応、点検立ち会い。やることを整理すれば、巡回で十分です」


 瀬川は、その言葉をメモ欄に書きかけて、やめた。


 巡回で十分。


 説明資料の見出しとしては、使いやすい。

 けれど、口に出すと、何かが軽くなる言葉だった。



 緑町つばきテラスは、駅から徒歩七分の分譲マンションだった。

 十五階建て、百八十戸。築十八年。エントランスの床は淡いグレーの石で、午前中は東側のガラスから光が入る。


 管理員室は、そのエントランスのすぐ横にあった。

 受付窓の向こうに小さな机と電話機、鍵の保管庫、掲示物の予備、古い来客用スリッパが並んでいる。


 理事会は、集会室で行われた。

 長机をロの字に並べ、中央に資料が置かれている。宮園理事長は、眼鏡を外して見積書を眺めていた。


「日勤を続けると、これだけ上がるんですか」


 宮園が言った。

 六十代前半の男性で、声は穏やかだが、数字を見る目は厳しい。


「はい」


 浅倉が頷く。


「管理員人件費の上昇、代務員手配費、緊急受付体制の維持費を反映しています。従来と同じ品質を維持するには、この金額になります」


「巡回管理なら、今とほぼ同じ」


「はい。日常清掃は現行頻度を維持します。管理員業務は週三回の巡回に整理し、掲示物対応、点検立ち会いの調整、電話受付のコールセンター化で対応します」


 瀬川は浅倉の隣で資料をめくった。

 嘘は言っていない。

 巡回管理でも、契約上の業務は組める。清掃会社との連携もできる。掲示物も貼れる。設備点検の日程調整も、フロントが行えばいい。


 ただ、今の管理員が毎朝そこにいることは、資料のどこにも入っていなかった。


「藤沢さんは、どうなるんですか」


 女性理事が尋ねた。

 藤沢修。緑町つばきテラスを十年以上担当している日勤管理員だ。


「人員配置については、契約変更後に当社で調整します」


 浅倉は、用意していた答えをそのまま出した。


「では、毎日は来ないんですね」


「巡回管理ですので、毎日の常駐ではありません」


「常駐ではなく、日勤ですよね」


 瀬川は思わず口を挟んだ。

 浅倉が横目で見た。


 女性理事は小さく頷いた。


「そうです。藤沢さん、夜はいません。でも朝から夕方まではいるので」


「失礼しました」


 浅倉はすぐに言い直した。


「現在の平日日勤から、週三回の巡回へ変更となります。ただ、緊急時はコールセンターで受け付けますし、設備トラブルは提携会社と連携します」


「宅配ボックスの不具合は」


「巡回時に確認します。急ぎの場合はコールセンターへご連絡ください」


「ゴミ置き場は」


「清掃会社との連携で対応します」


「業者用の共用部鍵の受け渡しは」


「事前予約制にできます」


 質問は続いた。

 浅倉は一つ一つ答えた。

 どれも契約上は通る答えだった。通る答えだからこそ、瀬川は口を挟みにくかった。


 理事会の空気は、少しずつ決まっていく。


 値上げは避けたい。

 管理費を上げれば、総会で必ず反対が出る。

 修繕積立金も近いうちに見直さなければならない。

 それなら、管理委託費は抑えたい。


 誰かが強く巡回案を支持したわけではない。

 誰かが藤沢を不要だと言ったわけでもない。


 ただ、二つの金額が並べられたとき、安い方へ流れていく力は強かった。


「総会には、巡回管理案を軸に出しましょう」


 宮園理事長が言った。


「日勤継続案も参考資料として添付します。ただ、理事会としては、管理費を抑える方向で提案する。それでよろしいですか」


 理事たちは、少しずつ頷いた。


 瀬川は議事録のメモに、総会議案の方向性を書き込んだ。

 管理員業務、平日日勤から巡回管理への変更案。

 週三回。午前または午後、各二時間程度。


 文字にすると、簡単だった。



 翌朝、藤沢修は七時四十分に管理員室のシャッターを開けた。

 勤務開始は八時だが、藤沢はいつも少し早く来ていた。


 小さな窓の鍵を外し、机の上に置いた日誌を開く。前日の設備点検報告、宅配ボックスの問い合わせ、排水管清掃の欠席者リスト。ひと通り目を通してから、藤沢はゴミ置き場へ向かった。


 ゴミ置き場の扉を開けると、湿った段ボールの匂いがした。


「また畳んでないな」


 藤沢は独り言を言い、軍手をはめた。

 段ボールを畳み、資源ごみの奥へ寄せる。袋の口が開いている可燃ごみを結び直す。分別違いの袋には、注意の紙を貼る。


 怒っても仕方ない。

 誰が出したかを探すより、次に同じことが起きないようにする方が早い。


 ゴミ置き場を出ると、藤沢はエントランスへ戻った。

 集合ポストの前を通る。


 そこで、鈴木昭子が立っていた。

 八十代の一人暮らしで、三階の角部屋に住んでいる。毎朝八時すぎに新聞を取り、ポストの前で少しだけ封筒を分ける。火曜日は整形外科、木曜日は娘が来る。藤沢は、そういうことを特別に覚えようとしたわけではない。


 毎朝見ていると、勝手に覚える。


「おはようございます、鈴木さん」


 藤沢が声をかけると、鈴木は少し遅れて顔を上げた。


「ああ、藤沢さん。おはようございます」


 返事はいつも通りだった。

 ただ、ポストの扉を閉める手が、少し遅い。


「今日は通院の日でしたっけ」


「いいえ。今日は何もない日」


「そうですか。少し足元、気をつけてくださいね。昨日、雨が降ったので」


「大丈夫よ。年寄り扱いしないで」


 鈴木は笑った。

 藤沢も笑って、深く追いかけなかった。


 管理員は家族ではない。

 医者でもない。

 ただ、毎朝そこにいるだけだ。


 鈴木がエレベーターへ向かうのを見届けてから、藤沢は管理員室へ戻った。

 机の端に置いた小さなメモ用紙を一枚取り、短く書く。


『鈴木さん、足元少しゆっくり。明日も声かけ』


 それは、契約書に書くような仕事ではなかった。

 報告書に上げるほどの異常でもない。正式な日誌に残すには、少し踏み込みすぎている。


 だが、明日の朝に見るためのメモだった。


 そのあと藤沢は、掲示板の端が浮いているのを直し、宅配ボックスの一番下に入ったままの荷物番号を控え、植栽の根元に落ちていた子どもの水筒を管理員室に置いた。


 九時半になるころには、エントランスを通る住民の顔ぶれが変わる。

 出勤する人、保育園へ向かう親子、犬の散歩から戻る人、宅配業者、点検業者。


 藤沢は、その流れの端にいた。

 目立たない。

 呼ばれなければ、名前も出ない。


 それでも、誰がいつもと違うかは分かった。



 その日の午後、瀬川は会社に戻り、緑町つばきテラスの総会資料用の次期契約案別表を開いた。


 管理員業務。

 勤務形態。

 平日日勤、八時から十七時。


 その行を選択する。


 削除。


 新しい文面を入力する。


 巡回管理、週三回。各回二時間程度。日常清掃は現行頻度を維持。清掃状況確認、掲示物対応、共用部目視確認、点検立ち会い調整。


 瀬川は、そこで手を止めた。


 共用部目視確認。


 その言葉の中に、集合ポスト前で鈴木に声をかける藤沢の姿は入らない。

 宅配ボックスの下段に残った荷物も、掲示板の端の浮きも、ゴミ置き場の段ボールも、項目としては入る。


 でも、毎朝そこを通る人がいることは、項目にならなかった。


「瀬川さん、別表案できた?」


 浅倉が背後から声をかけた。


「はい。いま確認しています」


「急いで。総会資料の締切、明日だから」


「分かりました」


 瀬川は画面に向き直った。

 文字数は減っていた。

 金額も下がっていた。


 契約案としては、整っている。


 それでも、消えたものが何かを、書面は表示してくれなかった。

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