第102話「そこまで契約に入っていません」
六月二十二日、土曜日。緑町つばきテラスでは、午後一時から管理委託契約更新に関する重要事項説明会が開かれた。
瀬川理央は、管理業務主任者証を提示し、契約期間、管理事務の内容、管理員業務の実施方法、委託費を順に説明した。平日日勤から週三回の巡回管理に変わることも、資料の該当箇所を示しながら読み上げた。
説明会が終わると、休憩を挟み、午後二時半から通常総会に入った。
出席者は三十人ほどだった。
残りは委任状と議決権行使書。議案書と、重要事項説明書を含む東都コミュニティ管理の説明資料は事前に各戸へ配られており、長机の上にも同じものが並んでいる。
瀬川は、壁際の補助席に座っていた。
正面には宮園理事長。その隣に浅倉部長が座り、淡い灰色のスーツの袖を整えている。
議案は、管理委託契約の更新だった。
日勤管理を続ける案と、巡回管理に変更する案。
議案書には両方の金額が載っている。だが、理事会として提案しているのは、巡回管理へ切り替える案だった。
ここからは、理事会案を審議する時間だった。
宮園理事長が顔を上げた。
「管理費の値上げを避けるため、理事会では巡回管理案を軸に検討しました」
宮園理事長は、理事会案の趣旨を説明した。
声は落ち着いていたが、いつもより少し硬い。
「日常清掃は現行の頻度を維持します。管理員業務は週三回の巡回に整理し、緊急時はコールセンターで受け付けます」
浅倉が補足した。
スクリーンには、巡回記録アプリの画面例と、コールセンターの受付時間が映っている。
「今の藤沢さんは、どうなるんですか」
後方の席から声が上がった。
六十代くらいの女性理事だった。瀬川は顔を覚えている。前回の理事会で、藤沢の今後について質問していた人だ。
浅倉は、すぐに答えた。
「契約形態が変わりますので、当社内で配置を調整します。藤沢には、別途説明いたします」
「毎朝いてくれるわけでは、なくなるんですよね」
「巡回管理ですので、週三回の訪問となります」
「じゃあ、ちょっとしたことは誰に言えばいいんですか。ポストのところで、いつも声をかけてくれるでしょう。あれで助かっている人もいると思うんです」
室内が少し静かになった。
瀬川は手元の資料に目を落とした。
そこにあるのは、清掃状況確認、掲示物対応、共用部目視確認、点検立ち会い調整という文字だった。
声をかける、という項目はない。
「ご相談やご連絡は、コールセンターでお受けします」
浅倉が言った。
「それは、困ったあとに電話する場所ですよね」
別の男性が言った。
「困る前に気づいてくれる人がいなくなる、という話ではないんですか」
浅倉は一呼吸置いた。
答えを探したのではない。柔らかく聞こえる言い方を選んでいるように見えた。
「個別の見守りや生活状況の確認は、管理委託契約の業務には含まれていません」
会場の空気が、ほんの少し冷えた。
「そこまで契約に入っていません」
浅倉は、続けてそう言った。
言葉としては正しい。
正しいからこそ、瀬川は顔を上げられなかった。
宮園理事長が、浅倉の言葉を受けて補った。
「もちろん、不安があることは分かります。ただ、日勤を続ける場合の増額も大きい。修繕積立金の見直しも近い中で、管理費をどう抑えるかは、避けて通れません」
その説明に、反論は出なかった。
不満が消えたわけではない。
ただ、管理費が上がると言われれば、誰も簡単には強く言えない。
採決は、議案書どおり進んだ。
出席者の中には反対もあった。棄権もあった。
それでも、委任状と議決権行使書を合わせると、巡回管理への変更案は承認された。
拍手はなかった。
宮園理事長が、淡々と結果を読み上げた。
「第六号議案、管理委託契約更新の件は、承認されました」
瀬川は、議案書の端を指で押さえた。
紙は薄い。
けれど、そこに書かれた一行で、管理員室に人がいる朝が終わる。
*
翌週の月曜日、藤沢修は管理員室で掲示板用の告知を受け取った。
瀬川が持ってきた書面には、七月一日から管理員業務を巡回管理へ変更すること、巡回日は月曜、水曜、金曜を予定していること、緊急連絡はコールセンターで受け付けることが書かれていた。
藤沢は、最後まで黙って読んだ。
「決まったんですね」
「はい」
瀬川はそれ以上の言葉をすぐに出せなかった。
「藤沢さんの今後については、会社から改めて個別説明があります」
「電話で少し聞きました。正式な説明はこれからだそうですが」
藤沢は書面を机に置いた。
怒っている顔ではなかった。困った顔でもない。どこか、前から分かっていたことを確認したような顔だった。
「ほかの物件の代務か、巡回班に入るか。そういう話でした」
「条件までは、まだ」
「ええ。そこはこれからなんでしょう」
藤沢は小さく笑った。
その笑い方が、瀬川には少し苦しかった。
管理員室の窓の向こうを、住民が通っていく。
買い物袋を提げた女性が、藤沢に軽く会釈した。藤沢は立ち上がり、窓を開けて声をかける。
「佐伯さん、宅配ボックスの荷物、下の段に入っています。表示が残っていました。重そうでしたから、気をつけてください」
「あら、ありがとう。見落としていたわ」
「台車を使いますか」
「助かるわ」
女性がエレベーターへ向かったあと、藤沢は窓を閉めた。
「こういうのも、契約に入っていないんでしょうね」
声は穏やかだった。
責める言い方ではなかった。
瀬川は、答えられなかった。
「でも、入っていないなら、会社は削れます。削れるものは、いつか削られる」
藤沢は、机の引き出しから小さなメモ束を取り出した。
日々の気づきをその場で書いた走り書きだった。住民の名前が入っているものもある。正式な日誌ではなく、会社に引き継ぐ資料にもできない。
「設備や業者対応に必要なものは、日誌に移してあります」
「はい」
「点検業者の来訪、宅配ボックスの不具合、ゴミ置き場の注意。会社が必要だと言うものは、全部残します」
藤沢はメモ束を二つに分け、個人名のある紙を機密廃棄用の封筒に入れた。
「個人名のあるものは、持ち出しません。置いてもいきません」
藤沢は封筒の口を閉じ、管理員室の機密廃棄箱に入れた。
「残せるものより、残せないものの方が、少し多かっただけです」
*
その日の夕方、東都コミュニティ管理の会議室で、勤務を終えた管理員向けの配置説明会が開かれた。
集まったのは、日勤物件を担当している管理員たちだった。
全員ではない。勤務の都合で来られない人もいる。だが、椅子に座った顔ぶれを見るだけで、瀬川には空気の重さが分かった。
浅倉が前に立ち、資料を配った。
「今後、日勤固定の契約は順次見直しが入ります。清掃は維持しますが、管理員業務については巡回化、短時間化を提案する物件が増えます」
管理員たちは黙って聞いていた。
「皆さんには、巡回班への転換、ほかの物件への代務、短時間勤務への変更をお願いする場合があります」
最初に手を上げたのは、白髪の男性だった。
「巡回班というのは、一日に何件回るんですか」
「物件によりますが、二件から三件を想定しています」
「移動時間は」
「シフト内で調整します」
「今の物件は、自転車で通えるから続けていました。三件回るとなると、駅をまたぐんでしょう」
浅倉は資料に目を落とした。
「詳細は個別に調整します」
別の女性が言った。
「短時間になるなら、収入も減りますよね」
「勤務時間に応じた賃金となります」
「それだと、続けられません」
その声に、何人かが小さく頷いた。
藤沢は、後ろの席で静かに聞いていた。
腕を組んでもいない。資料に書き込みもしない。ただ、浅倉の説明が終わるのを待っている。
「契約が変わる以上、会社としても配置を変えざるを得ません」
浅倉が言った。
「皆さんの経験は評価しています。ただ、従来と同じ働き方をすべて維持するのは難しい」
「経験を評価しているなら、どうして総会の前に現場へ聞かなかったんですか」
藤沢が初めて口を開いた。
会議室が静かになった。
「藤沢さん」
浅倉の声が少し低くなる。
「会社としては、契約内容に基づいて説明しています」
「契約に入っていない仕事は、仕事ではないんですか」
「そういう意味ではありません」
「では、何だったんですか」
浅倉は答えなかった。
藤沢はそれ以上追わなかった。
資料を閉じ、膝の上に置く。
「私は、巡回班には入りません。この条件なら、退職します」
浅倉が眉を動かした。
「まだ個別条件を提示していません」
「条件の問題ではありません。一つの建物を月曜、水曜、金曜に二時間だけ見て、毎朝の違いまでは分かりません」
藤沢は、ゆっくりと言った。
「私は、それをできる仕事だとは言えません」
*
説明会のあと、成田は喫煙所の前で井口壮介を待っていた。
成田は煙草を吸わない。
井口も吸わない。
それでも、社内で立ち話をしていても不自然に見えない場所は、そこくらいだった。
「藤沢さん、辞めるな」
井口が言った。
「たぶん、何人か続く」
「だろうね」
成田は会議室の方を見た。
扉は閉まっている。中ではまだ、浅倉が残った管理員と個別面談の時間を調整しているはずだった。
「会社は、管理員を減らせば数字が合うと思ってる」
「数字だけなら合うよ」
井口は苦く笑った。
「契約書の項目も埋まる。巡回記録も残る。コールセンターの受付履歴も出る」
「でも、建物を知っている人がいなくなる」
「そこは契約に入っていないから」
井口の言葉は、冗談の形をしていなかった。
成田は、胸ポケットから折り畳んだ紙を出した。
退職届だった。
二人とも専任の管理業務主任者として数えられているフロント社員だ。管理組合の数に応じて事務所に置かなければならない資格者である。退職が決まれば、ただの欠員では済まない。
井口は驚かなかった。
「もう書いてたのか」
「昨日」
「早いな」
「遅いくらいだ」
成田は紙を戻した。
「俺はこの会社の名前で説明に行くのがもうきつい。管理組合に安くできます、品質は変わりませんって言うたびに、自分の言葉が薄くなる」
井口はしばらく黙っていた。
「俺も出す」
「いいのか」
「いいも悪いもない。今日の説明を見て残る理由が一つ減った」
井口はポケットのスマートフォンを出した。
画面には名前だけ知っている会社をいくつか控えたメモが映っていた。
「転職先を探すとしても、小さい会社なら今より整っていない部分も多いぞ」
成田が言った。
「整っていない方が、まだ話せる」
井口は画面を消した。
「少なくとも、現場を知らないふりをする会社には行きたくない」
成田は小さく頷いた。
会議室の扉が開き、藤沢が出てきた。
鞄を肩にかけ、受付の方へ歩いていく。
誰かに怒鳴ることもなく、会社を責めることもなく、ただ少し背中を丸めていた。
成田はその背中を見送った。
その日のうちに、二人は別々に人事へ退職届を出した。
管理員室から人が消える。
その前にこの会社からも人が消え始めている。
まだ浅倉はそれを数字として見ていなかった。




