第103話「管理員室は空いています」
七月一日、月曜日。緑町つばきテラスの管理員室の受付窓には、一枚の案内が貼られていた。
『管理員業務は巡回管理へ変更となりました。ご用件は下記コールセンターまでご連絡ください』
その下に、電話番号と受付時間が印刷されている。
管理員室の中は暗かった。机の上には電話機と日誌、掲示物の予備が残っている。だが、受付窓の向こうに藤沢修はいない。
瀬川理央は、エントランスの端に立ち、その紙を見ていた。
契約上は、何も間違っていない。
総会で承認されたとおり、この日から管理員業務は巡回管理に変わった。日常清掃は現行頻度のまま。巡回日は月曜、水曜、金曜。各回二時間程度。
その日、巡回担当の河合は午前十時に来た。
五十代の男性で、ほかにも二棟を担当している。挨拶は丁寧だった。スマートフォンの巡回記録アプリを開き、管理員室の鍵を開け、日誌を確認する。
「掲示板、ゴミ置き場、宅配ボックス、共用部。写真を撮って、チェックを入れればいいんですね」
「はい。何かあれば、備考欄に入れてください」
瀬川が言うと、河合は頷いた。
「分かりました。大きい物件ですね」
「百八十戸です」
「二時間だと、駆け足になりますね」
河合は悪気なく言った。
瀬川は、すぐに返事ができなかった。
河合は仕事をしていないわけではなかった。
掲示板の期限切れの紙を一枚外し、宅配ボックスにエラー表示がないことを確認し、ゴミ置き場の扉の閉まりを見た。エントランスとエレベーターホールをひと回りし、それぞれ写真を撮ってアプリに入力する。
十一時五十八分。
巡回記録に、異常なし、と表示された。
瀬川はその画面を見た。
異常なし。
文字は、きれいに残る。
だが、朝の人の流れは、そこには残らなかった。
*
翌朝、管理員室の受付窓は閉まったままだった。
八時を過ぎると、通勤通学の波は一度引き始めていた。
エントランスでは、オートドアの開く音が間を置いて響く。宅配業者の台車が奥の通路へ消え、集合ポストの前には短い空白ができていた。
ただ、受付窓は開かない。
外側に貼られた案内の紙だけが見える。
受付窓からなら、集合ポストの前は斜めに見える。けれど、エントランスを急いで横切るだけなら、そこは少し奥まった場所だった。
清掃担当が来るのは、もう少しあとの時間だった。
鈴木昭子は、八時十五分を少し過ぎたころ、三階から下りてきた。
薄い紫色のカーディガンを着て、左手に小さな手提げを持っている。火曜日は整形外科へ行く日だった。
集合ポストの前で、鈴木は一度立ち止まった。
ポストの扉を開ける。中から新聞と封筒を取り出し、いつものようにその場で少しだけ分けようとした。
封筒が一枚、床に落ちた。
鈴木はそれを拾おうとして、膝を曲げた。
そのまま、身体が横へ傾いた。
大きな音ではなかった。
手提げが床に落ち、新聞が広がり、封筒が滑っただけだった。
鈴木は、集合ポストの列の前にうずくまるような形になった。立ち止まって見なければ、落とし物を拾っているようにも見える。
一人、エントランスを急ぐ住民が通り過ぎた。
その人は集合ポストの奥まった側には目を向けず、そのままオートドアへ向かった。
しばらくして近くを通った男性は、最初は落とし物だと思った。
だが、鈴木が床に手をついたまま動かないのを見て、足を止めた。
「大丈夫ですか」
返事はなかった。
男性は管理員室の方を見た。
閉まった受付窓の外側に、案内の紙が貼られている。
『ご用件は下記コールセンターまでご連絡ください』
男性は一瞬迷い、それからスマートフォンを取り出して一一九番にかけた。
救急車が来るまでの間、住民が数人集まった。
誰かがタオルを持ってきた。誰かが鈴木の手提げを拾った。別の住民が、掲示されているコールセンターの番号にも電話をかけた。
「管理員室、誰もいないの?」
「巡回になったんでしょう」
「今日、巡回の日?」
「分からない」
その会話の間も、管理員室の受付窓は閉まっていた。
コールセンターにつながった住民は、早口で状況を説明した。
「三階の鈴木さんが、集合ポストの前で倒れています。救急車は呼びました。管理会社にも連絡した方がいいと思って」
受話器の向こうの声は丁寧だった。
「ご連絡ありがとうございます。救急対応を優先してください。担当者へ申し伝えます」
「管理員さんは」
「本日は巡回予定日ではございません」
「じゃあ、誰か来られますか」
「担当部署に連絡いたします」
悪い対応ではなかった。
だが、その場にいる声ではなかった。
*
コールセンターの受付履歴を瀬川が確認するより早く、携帯が鳴ったのは午前九時を少し過ぎたころだった。
相手は宮園理事長だった。
「緑町つばきテラスの宮園です。いま、鈴木さんが救急搬送されました」
瀬川は椅子から立ち上がった。
「鈴木さん、ですか」
「三階の鈴木昭子さんです。集合ポストの前で倒れていたそうです。住民が見つけて、救急車を呼びました」
集合ポスト。
その言葉で、瀬川は管理員室の位置を思い浮かべた。
受付窓。集合ポスト。宅配ボックス。ゴミ置き場へ向かう導線。
「現在の状況は」
「意識は戻ったようです。ただ、足を痛めているかもしれないと。娘さんには連絡がつきました」
「分かりました。すぐ伺います」
電話を切ると、隣の席の成田が顔を上げた。
「つばきテラス?」
「はい。鈴木さんという高齢の方が、集合ポストの前で倒れました」
成田は一瞬だけ目を閉じた。
「巡回日じゃない朝か」
「そうです」
瀬川は鞄を取った。
そのとき、浅倉が奥の席から声をかけた。
「瀬川さん、どこへ行く」
「緑町つばきテラスです。住民の方が救急搬送されました」
「救急なら、住民が呼んだんだろう」
浅倉は言った。
声は落ち着いていた。
「状況確認は必要です」
「管理員業務に、個別の見守りは入っていない」
瀬川は足を止めた。
その言葉は、総会でも聞いた。
そこまで契約に入っていません。
「見守りの話ではありません」
瀬川は言った。
「管理員室を空けたことで、現場対応がどう変わったかの確認です」
浅倉は少し眉を寄せた。
「言い方に気をつけて。巡回管理は総会で承認された契約だ」
「はい。だからこそ、実際に何が起きたかを確認します」
成田が静かに立ち上がった。
「俺も行きます」
「成田さんは別件があるだろう」
浅倉が言った。
「あります。でも、これは行きます」
瀬川は何も言わなかった。
成田の横顔が、いつもより遠く見えた。
*
緑町つばきテラスに着くと、集合ポスト前には、新聞と封筒が脇へ寄せられていた。
救急車は出たあとだった。
瀬川は、新聞の端が少し折れているのを見て、足を止めた。
管理員室の受付窓は閉まっている。
外側に貼られた案内の紙だけが、白く目立っていた。
宮園理事長は、集会室の前で待っていた。
顔色が悪い。
「すみません、急に呼び出して」
「いえ。鈴木さんのご家族は」
「娘さんが病院へ向かっています。命に別状はないようですが、しばらく入院になるかもしれないと」
瀬川は頷いた。
女性理事も来ていた。
前回、藤沢の今後を尋ねた人だ。彼女は管理員室の受付窓を見たまま、低い声で言った。
「ここ、いつも藤沢さんが開けていましたよね」
「はい」
「鈴木さん、火曜日の朝はよく出かけるんです。藤沢さんも、気にしていたんだと思います。前に、集合ポストの前で声をかけているのを見ました」
瀬川は、すぐには答えられなかった。
「今日も藤沢さんがいたら倒れなかった、とは言えません」
女性理事は、そう言ってから唇を噛んだ。
「でも、受付窓から見える場所です。もっと早く気づいたと思います」
誰も、巡回管理が違法だとは言っていない。
誰も、コールセンターが不要だとは言っていない。
ただ、管理員室が空いていた。
その事実だけが、エントランスの真ん中に置かれていた。
宮園が、ゆっくりと言った。
「総会では、清掃は変わらないと聞きました。掲示物も、宅配ボックスも、コールセンターで対応できると」
「はい」
「それは嘘ではなかったんでしょう」
瀬川は頷いた。
「嘘ではありません」
「でも、なぜ増額を避けられるのかまでは、考えていませんでした」
宮園は、管理員室の受付窓を見た。
「人がいなくなる、という意味を、金額ほど真剣に考えていなかった」
瀬川は鞄の中の資料を握った。
理事会で説明した言葉。総会で読み上げた言葉。契約別表に入れた言葉。
どれも間違いではなかった。
間違いではない言葉だけで、足りないものを隠していた。
「臨時理事会を開きます」
宮園が言った。
「管理会社から、今回の件について説明してください。巡回管理で何ができて、何ができないのか。今度は、金額ではなく、具体的に聞きたい」
「分かりました」
瀬川は答えた。
瀬川はスマートフォンを取り出し、前日の巡回記録を開いた。
緑町つばきテラス。
掲示板、異常なし。
ゴミ置き場、異常なし。
宅配ボックス、異常なし。
共用部、異常なし。
瀬川は画面を見つめた。
異常なし。
その記録は、正しかった。
昨日の午前十一時五十八分には、たしかに異常はなかったのかもしれない。
でも、今日の朝、管理員室は空いていた。
そのことを記録する項目は、どこにもなかった。




