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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
第23章『巡回で十分です』

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第103話「管理員室は空いています」

 七月一日、月曜日。緑町つばきテラスの管理員室の受付窓には、一枚の案内が貼られていた。


『管理員業務は巡回管理へ変更となりました。ご用件は下記コールセンターまでご連絡ください』


 その下に、電話番号と受付時間が印刷されている。

 管理員室の中は暗かった。机の上には電話機と日誌、掲示物の予備が残っている。だが、受付窓の向こうに藤沢修はいない。


 瀬川理央は、エントランスの端に立ち、その紙を見ていた。


 契約上は、何も間違っていない。

 総会で承認されたとおり、この日から管理員業務は巡回管理に変わった。日常清掃は現行頻度のまま。巡回日は月曜、水曜、金曜。各回二時間程度。


 その日、巡回担当の河合は午前十時に来た。

 五十代の男性で、ほかにも二棟を担当している。挨拶は丁寧だった。スマートフォンの巡回記録アプリを開き、管理員室の鍵を開け、日誌を確認する。


「掲示板、ゴミ置き場、宅配ボックス、共用部。写真を撮って、チェックを入れればいいんですね」


「はい。何かあれば、備考欄に入れてください」


 瀬川が言うと、河合は頷いた。


「分かりました。大きい物件ですね」


「百八十戸です」


「二時間だと、駆け足になりますね」


 河合は悪気なく言った。

 瀬川は、すぐに返事ができなかった。


 河合は仕事をしていないわけではなかった。

 掲示板の期限切れの紙を一枚外し、宅配ボックスにエラー表示がないことを確認し、ゴミ置き場の扉の閉まりを見た。エントランスとエレベーターホールをひと回りし、それぞれ写真を撮ってアプリに入力する。


 十一時五十八分。

 巡回記録に、異常なし、と表示された。


 瀬川はその画面を見た。

 異常なし。


 文字は、きれいに残る。

 だが、朝の人の流れは、そこには残らなかった。



 翌朝、管理員室の受付窓は閉まったままだった。


 八時を過ぎると、通勤通学の波は一度引き始めていた。

 エントランスでは、オートドアの開く音が間を置いて響く。宅配業者の台車が奥の通路へ消え、集合ポストの前には短い空白ができていた。


 ただ、受付窓は開かない。

 外側に貼られた案内の紙だけが見える。

 受付窓からなら、集合ポストの前は斜めに見える。けれど、エントランスを急いで横切るだけなら、そこは少し奥まった場所だった。

 清掃担当が来るのは、もう少しあとの時間だった。


 鈴木昭子は、八時十五分を少し過ぎたころ、三階から下りてきた。

 薄い紫色のカーディガンを着て、左手に小さな手提げを持っている。火曜日は整形外科へ行く日だった。


 集合ポストの前で、鈴木は一度立ち止まった。

 ポストの扉を開ける。中から新聞と封筒を取り出し、いつものようにその場で少しだけ分けようとした。


 封筒が一枚、床に落ちた。


 鈴木はそれを拾おうとして、膝を曲げた。

 そのまま、身体が横へ傾いた。


 大きな音ではなかった。

 手提げが床に落ち、新聞が広がり、封筒が滑っただけだった。

 鈴木は、集合ポストの列の前にうずくまるような形になった。立ち止まって見なければ、落とし物を拾っているようにも見える。


 一人、エントランスを急ぐ住民が通り過ぎた。

 その人は集合ポストの奥まった側には目を向けず、そのままオートドアへ向かった。


 しばらくして近くを通った男性は、最初は落とし物だと思った。

 だが、鈴木が床に手をついたまま動かないのを見て、足を止めた。


「大丈夫ですか」


 返事はなかった。


 男性は管理員室の方を見た。

 閉まった受付窓の外側に、案内の紙が貼られている。


『ご用件は下記コールセンターまでご連絡ください』


 男性は一瞬迷い、それからスマートフォンを取り出して一一九番にかけた。


 救急車が来るまでの間、住民が数人集まった。

 誰かがタオルを持ってきた。誰かが鈴木の手提げを拾った。別の住民が、掲示されているコールセンターの番号にも電話をかけた。


「管理員室、誰もいないの?」


「巡回になったんでしょう」


「今日、巡回の日?」


「分からない」


 その会話の間も、管理員室の受付窓は閉まっていた。


 コールセンターにつながった住民は、早口で状況を説明した。


「三階の鈴木さんが、集合ポストの前で倒れています。救急車は呼びました。管理会社にも連絡した方がいいと思って」


 受話器の向こうの声は丁寧だった。


「ご連絡ありがとうございます。救急対応を優先してください。担当者へ申し伝えます」


「管理員さんは」


「本日は巡回予定日ではございません」


「じゃあ、誰か来られますか」


「担当部署に連絡いたします」


 悪い対応ではなかった。

 だが、その場にいる声ではなかった。



 コールセンターの受付履歴を瀬川が確認するより早く、携帯が鳴ったのは午前九時を少し過ぎたころだった。


 相手は宮園理事長だった。


「緑町つばきテラスの宮園です。いま、鈴木さんが救急搬送されました」


 瀬川は椅子から立ち上がった。


「鈴木さん、ですか」


「三階の鈴木昭子さんです。集合ポストの前で倒れていたそうです。住民が見つけて、救急車を呼びました」


 集合ポスト。


 その言葉で、瀬川は管理員室の位置を思い浮かべた。

 受付窓。集合ポスト。宅配ボックス。ゴミ置き場へ向かう導線。


「現在の状況は」


「意識は戻ったようです。ただ、足を痛めているかもしれないと。娘さんには連絡がつきました」


「分かりました。すぐ伺います」


 電話を切ると、隣の席の成田が顔を上げた。


「つばきテラス?」


「はい。鈴木さんという高齢の方が、集合ポストの前で倒れました」


 成田は一瞬だけ目を閉じた。


「巡回日じゃない朝か」


「そうです」


 瀬川は鞄を取った。

 そのとき、浅倉が奥の席から声をかけた。


「瀬川さん、どこへ行く」


「緑町つばきテラスです。住民の方が救急搬送されました」


「救急なら、住民が呼んだんだろう」


 浅倉は言った。

 声は落ち着いていた。


「状況確認は必要です」


「管理員業務に、個別の見守りは入っていない」


 瀬川は足を止めた。


 その言葉は、総会でも聞いた。

 そこまで契約に入っていません。


「見守りの話ではありません」


 瀬川は言った。


「管理員室を空けたことで、現場対応がどう変わったかの確認です」


 浅倉は少し眉を寄せた。


「言い方に気をつけて。巡回管理は総会で承認された契約だ」


「はい。だからこそ、実際に何が起きたかを確認します」


 成田が静かに立ち上がった。


「俺も行きます」


「成田さんは別件があるだろう」


 浅倉が言った。


「あります。でも、これは行きます」


 瀬川は何も言わなかった。

 成田の横顔が、いつもより遠く見えた。



 緑町つばきテラスに着くと、集合ポスト前には、新聞と封筒が脇へ寄せられていた。


 救急車は出たあとだった。

 瀬川は、新聞の端が少し折れているのを見て、足を止めた。


 管理員室の受付窓は閉まっている。

 外側に貼られた案内の紙だけが、白く目立っていた。


 宮園理事長は、集会室の前で待っていた。

 顔色が悪い。


「すみません、急に呼び出して」


「いえ。鈴木さんのご家族は」


「娘さんが病院へ向かっています。命に別状はないようですが、しばらく入院になるかもしれないと」


 瀬川は頷いた。


 女性理事も来ていた。

 前回、藤沢の今後を尋ねた人だ。彼女は管理員室の受付窓を見たまま、低い声で言った。


「ここ、いつも藤沢さんが開けていましたよね」


「はい」


「鈴木さん、火曜日の朝はよく出かけるんです。藤沢さんも、気にしていたんだと思います。前に、集合ポストの前で声をかけているのを見ました」


 瀬川は、すぐには答えられなかった。


「今日も藤沢さんがいたら倒れなかった、とは言えません」


 女性理事は、そう言ってから唇を噛んだ。


「でも、受付窓から見える場所です。もっと早く気づいたと思います」


 誰も、巡回管理が違法だとは言っていない。

 誰も、コールセンターが不要だとは言っていない。


 ただ、管理員室が空いていた。

 その事実だけが、エントランスの真ん中に置かれていた。


 宮園が、ゆっくりと言った。


「総会では、清掃は変わらないと聞きました。掲示物も、宅配ボックスも、コールセンターで対応できると」


「はい」


「それは嘘ではなかったんでしょう」


 瀬川は頷いた。


「嘘ではありません」


「でも、なぜ増額を避けられるのかまでは、考えていませんでした」


 宮園は、管理員室の受付窓を見た。


「人がいなくなる、という意味を、金額ほど真剣に考えていなかった」


 瀬川は鞄の中の資料を握った。

 理事会で説明した言葉。総会で読み上げた言葉。契約別表に入れた言葉。


 どれも間違いではなかった。

 間違いではない言葉だけで、足りないものを隠していた。


「臨時理事会を開きます」


 宮園が言った。


「管理会社から、今回の件について説明してください。巡回管理で何ができて、何ができないのか。今度は、金額ではなく、具体的に聞きたい」


「分かりました」


 瀬川は答えた。


 瀬川はスマートフォンを取り出し、前日の巡回記録を開いた。


 緑町つばきテラス。

 掲示板、異常なし。

 ゴミ置き場、異常なし。

 宅配ボックス、異常なし。

 共用部、異常なし。


 瀬川は画面を見つめた。


 異常なし。


 その記録は、正しかった。

 昨日の午前十一時五十八分には、たしかに異常はなかったのかもしれない。


 でも、今日の朝、管理員室は空いていた。


 そのことを記録する項目は、どこにもなかった。

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