第104話「二週間以内に」
七月三日、水曜日。
東都コミュニティ管理の第二会議室には、朝から人が集められていた。
瀬川理央が入ると、ホワイトボードには物件名ではなく、人数が書かれていた。
受託管理組合数、百四。
専任の管理業務主任者、五名。
必要人数、四名。
数字だけなら、まだ足りている。
少なくとも、七月八日までは書類上そうなる。
ただ、その先が埋まらないことは、この一週間あまりの確認で見えていた。
浅倉部長は、会議室の前方に立っていた。
いつものように資料を揃え、ペンを一本だけ手に持っている。坂井基晴社長は窓際の席に座り、腕を組んでいた。
管理部の片岡倫也も来ている。普段は会議の端で議事録を取ることが多い男だが、その日は資料を開かず、ホワイトボードの数字だけを見ていた。片岡も管理業務主任者だった。
空いている椅子が二つあった。
成田の席と、井口の席だ。
本人たちは、朝から引き継ぎ資料の整理に回されている。
「成田さんと井口さんの退職は、人事で正式に処理された」
浅倉が言った。
声は低かった。
「六月二十四日に本人たちから退職届が出されていた。退職日は七月八日。意思は固い。引き継ぎ資料は出すと言っている」
瀬川は、手元の資料に目を落とした。
そこには、専任の管理業務主任者一覧があった。
坂井社長。
片岡。
瀬川。
成田。
井口。
五つの名前のうち、二つに赤い線が引かれていた。
「二人が抜けると、三名になります」
片岡が言った。
淡々とした声だった。
「管理組合三十組合につき一名、端数は切り上げです。百四組合なら、必要人数は四名になります」
「分かっている」
浅倉は、すぐに答えた。
「だから、補充を急ぐ」
「この一週間あまり、紹介会社にも社内にも当たった。だが、退職後すぐに専任扱いできる四人目はまだ見えていない」
会議室に、少しだけ紙の擦れる音がした。
誰も、すぐには頷かなかった。
管理業務主任者は、現場の管理員とは違う。
欠員が出たから、明日から代務員を一人入れる、という話では済まない。
管理業務主任者になるには、試験に合格して登録を受け、主任者証を持っている必要がある。さらに、その事務所に常勤し、専らマンション管理業に従事していなければならない。
名刺に肩書を印刷すれば済むものではなかった。
「二週間以内、ですね」
瀬川が言うと、浅倉の目が動いた。
「規定に抵触した場合は、二週間以内に適合させる措置を取る必要があります」
「だから、欠員になってから二週間ある」
浅倉は言った。
その言い方に、瀬川は小さな引っかかりを覚えた。
二週間ある。
猶予がある、という意味にも聞こえる。
その間は足りないままでいい、という意味にも聞こえる。
「適合させるための期間です」
瀬川は言った。
「足りない状態を普通の運用として続けていい期間ではありません」
浅倉は、ペンの尻を指で押した。
「言い方の問題だ。現実には、採用にも調整にも時間がかかる」
「現実のために規定があるんだと思います」
瀬川の声は、自分でも思ったより硬かった。
坂井社長が初めて口を開いた。
「外から採れる見込みは」
浅倉は、別の資料をめくった。
「人材紹介会社に当たっています。主任者証を持っている候補者は二名。ただ、一人は現職の退職時期が九月以降。もう一人は週三日勤務希望で、専任扱いは難しい」
「社内は」
「試験合格者はいますが、主任者証の交付前です。すぐには使えません」
使えません。
その言葉が、瀬川には妙に軽く聞こえた。
人を部品のように扱っているからではない。部品のように扱いたくても、部品ではないから、そう言うしかないのだ。
「管理組合を減らすのは」
片岡が尋ねた。
「契約期間中です。こちらから急に解約できるものではありません」
浅倉は答えた。
「なら、四人目を入れるしかないですね」
「それを探している」
浅倉の声が、少しだけ荒くなった。
瀬川は窓の外を見た。
一昨日の巡回記録は正しかった。
契約上も、説明上も、間違っていなかった。
けれど昨日の朝、緑町つばきテラスの管理員室は空いていた。
その記録と説明の外側で、鈴木昭子は集合ポストの前にうずくまっていた。
*
七月八日を過ぎてからの二週間は、長いようで短かった。
六月の終わりから、求人票は出していた。
紹介会社からの電話も来ていた。
資格者の名前は、確かに何人か上がった。
けれど、この事務所に専任・常勤ですぐ入れる人は見つからなかった。
「九月一日以降なら動けます」
「現職の専任から外れるのは、引き継ぎ後になります」
「重要事項説明の経験はありませんが、資格は持っています」
「週四日なら相談できます」
電話の向こうの言葉は、どれも嘘ではなかった。
ただ、どれも今の東都コミュニティ管理には間に合わなかった。
その間にも、仕事は止まらない。
月次報告書の承認。
理事会資料の確認。
修繕見積の説明。
重要事項説明会の日程調整。
管理組合からの問い合わせ。
成田と井口が抜けた席には、段ボール箱が二つ置かれた。
中には、物件ごとの引き継ぎファイルが入っている。
丁寧に作られていた。
丁寧だからこそ、二人が本当に戻らないことが分かった。
緑町つばきテラスからは、臨時理事会の日程候補が届いていた。
理事の予定が合わず、日程は月末開催で調整がついた。
宮園理事長のメールには、短い文章が添えられている。
『巡回管理でできること、できないことを具体的に説明してください』
瀬川は、その文面を何度も見た。
できること。
できないこと。
それを、会社はいつも「対応できます」と言い換えてきた。
「掲示物は対応できます」
「宅配ボックスは対応できます」
「緊急時はコールセンターで対応できます」
対応できます、という言葉は便利だった。
そこに誰がいるのか。いついるのか。何に気づけないのか。細かく言わずに済む。
今度は、会社そのものが同じ言葉の中に入ろうとしていた。
補充できます。
調整できます。
一時運用で対応できます。
瀬川は、画面を閉じた。
*
七月二十二日、月曜日。
午後五時半を過ぎてから、瀬川はまた第二会議室に呼ばれた。
会議室には、坂井社長、浅倉、片岡がいた。
机の上には、新しい担当割の表が置かれている。
「ひとまず、八月末までこの体制で行く」
浅倉が言った。
瀬川は表を見た。
成田が持っていた管理組合が、片岡と瀬川に振り分けられている。
井口が持っていた管理組合の一部は、坂井社長の欄に入っていた。
無資格のフロント社員は、連絡や書類作成の補助には回せる。だが、重要事項説明や管理事務報告の責任者として名を置ける管理業務主任者は、もう三人しかいなかった。
坂井社長、三十二組合。
片岡、三十六組合。
瀬川、三十六組合。
合計、百四。
「担当が多すぎます」
片岡が言った。
珍しく、声に疲れがあった。
「一時的だ」
浅倉は言った。
「採用が決まるまでの間だけ、三人で分ける」
「三人で分けても、専任者は三人です」
瀬川は表から目を上げた。
「百四組合なら、必要なのは四名以上です」
「だから、採用中だと言っている」
「採用中というだけで、八月末まで三人体制を前提にしていいことにはなりません」
浅倉の顔がこわばった。
「瀬川さん、分かっていて言っているのか」
「分かっているから言っています」
会議室が静かになった。
坂井社長は、腕を組んだまま目を閉じていた。
浅倉は表を指で押さえる。
「引き止められると思っていた」
「藤沢さんたちの退職も、想定外でしたか」
瀬川が言うと、浅倉は返事をしなかった。
「日勤固定の物件を巡回に切り替える。管理員は減る。現場を知っている人も抜ける。それに反発したフロントも抜ける。そこまで、つながっていたんだと思います」
「今は感想を聞いているんじゃない」
「感想ではありません」
瀬川は、鞄の中に入れていた封筒を思い出した。
朝、家を出る前に何度も見た封筒だった。
「緑町つばきテラスの臨時理事会で、私は説明することになっています」
「そうだ」
「巡回管理で何ができて、何ができないのかを、具体的に聞かれています」
「だから、それを説明すればいい」
「この会社が今、何をできない状態なのかも、同じです」
浅倉の眉が動いた。
「管理業務主任者が足りない。採用の見込みも立っていない。なのに、三人の主任者に百四組合を載せた表を作っている」
「表は内部の担当割だ」
「専任者数の不足は、内部の担当割では消えません」
瀬川は、ゆっくり息を吸った。
「この不足を隠す担当割に、私の名前を使うなら、私は同意できません」
「同意って何だ。会社の人事だ」
「名前を置かれて、説明に行くのは私です」
瀬川は、鞄から封筒を出した。
机の上に置く。
退職届。
浅倉は、しばらくそれを見ていた。
「今、それを出すのか」
「はい」
「この状況で」
「この状況だからです」
「最終出社日と引き継ぎは、会社と協議します。ただ、緑町つばきテラスの説明を、足りているふりで済ませるつもりはありません」
瀬川の声は震えなかった。
自分でも少し意外だった。
「私は、足りないものを足りているように説明する側には残れません」
片岡が顔を上げた。
坂井社長も、目を開けた。
浅倉は何か言いかけて、やめた。
会議室の壁に掛かった時計が、六時を少し過ぎていた。
窓の外はまだ明るい。夏の夕方だった。
二週間以内に適合させる。
その言葉は、会社を守るための猶予ではなかった。
足りないものを足りないと認めるための期限だった。
瀬川は、机の上の担当割表を見た。
百四組合。
三名。
数字は、きれいに並んでいる。
だが、どれだけ並べ替えても、足りないものは増えなかった。




