第105話「管理会社を変えます」
七月三十日、火曜日。
緑町つばきテラスの集会室には、総会の日より少ない人数が集まっていた。
長机はロの字に並べられている。
正面に宮園理事長と理事が三人。端の席には、前回の総会で藤沢修のことを尋ねた女性理事も座っていた。
東都コミュニティ管理から来たのは、浅倉部長と瀬川理央だった。
瀬川の胸には、まだ東都コミュニティ管理の社員証が下がっている。
退職届は受理され、最終出社日は八月二日で調整がついていた。残された出勤日は少ない。それでも、緑町つばきテラスの担当者として、この臨時理事会には出席することになった。
浅倉は、いつものように資料を揃えていた。
紙の端はそろっている。説明の順番も整っている。だが、今日はその整い方が、かえって薄く見えた。
「本日は、先日の救急搬送の件を受け、巡回管理の運用についてご説明します」
浅倉が口を開いた。
「まず、鈴木様の件につきましては、当社としても大変心配しております。ただ、救急対応自体は住民の方が適切に行ってくださり、コールセンターにもご連絡をいただいています。巡回管理の体制においても、緊急連絡の窓口は機能していました」
宮園理事長は、すぐには頷かなかった。
「今日は、責任を押しつけるために呼んだわけではありません」
宮園は、手元の資料を閉じた。
「ただ、総会では『巡回管理でも対応できます』と聞きました。その対応という言葉の中身を、もう一度確認したいんです」
浅倉は、少しだけ表情を固くした。
「もちろんです」
瀬川は、持参した資料を開いた。
そこには、巡回管理で行う業務と、日勤管理のときに現場で発生していた対応を分けて書いてある。
「巡回管理で確実に行えるのは、巡回日に巡回員が現地にいる時間帯の確認です」
瀬川は、ゆっくり説明した。
「掲示板の確認、ゴミ置き場の目視、宅配ボックスのエラー確認、共用部の写真記録、点検業者との事前調整。これらは契約に入れられます」
「火曜日の朝は」
女性理事が言った。
「今回のような火曜日の朝は、誰が見るんですか」
「巡回予定日は月曜、水曜、金曜です。火曜日の朝に、管理員室へ人がいる予定はありません」
瀬川は答えた。
浅倉が横で息を吸ったが、止めなかった。
「清掃担当の方は来るんですよね」
「日常清掃は維持されます。ただ、清掃担当者は管理員室に常駐するわけではありません。清掃の開始時間も、日によって前後します。集合ポスト前を継続して見る役割ではありません」
女性理事は、唇を結んだ。
「コールセンターは」
別の理事が尋ねた。
「連絡を受けて、担当部署へつなぐ窓口です。現場で異変を見つける機能ではありません」
「では、藤沢さんがしてくれていたことは」
宮園が言った。
「鈴木さんの様子を見る。宅配ボックスの荷物に気づく。ゴミ置き場の癖を覚えている。そういうことは」
瀬川は、資料の端に指を置いた。
「日勤管理員が毎日同じ建物にいることで、結果として拾えていたことです。個別の見守りを契約業務としてお約束していたわけではありません。ただ、巡回管理に切り替えると、その頻度と精度は落ちます」
集会室が静かになった。
浅倉は、そこで口を挟んだ。
「管理委託契約上、個別の生活状況確認までは業務に含まれていません」
「それは分かりました」
宮園は、浅倉を見た。
「ですが、含まれていないものが消えるとは、総会のときに十分説明されていなかったと思います」
浅倉はすぐに答えなかった。
瀬川は、小さく頭を下げた。
「説明は足りませんでした」
「瀬川さん」
浅倉の声が低くなった。
「会社としての説明は、資料に沿って行っています」
「はい。資料に沿っていました」
瀬川は顔を上げた。
「でも、資料に沿っていたことと、十分だったことは同じではありません」
宮園は、しばらく瀬川を見ていた。
それから、別の紙を取り出した。
「もう一つ確認します。今後、東都さんはこの物件を継続して担当できますか」
「もちろんです」
浅倉が答えた。
少し早かった。
「社内体制を整え、引き続き管理業務を行います」
「担当者は変わるんですか」
宮園が続けた。
瀬川は、胸の社員証を見下ろした。
「私は、八月二日を最終出社日として退職します」
女性理事が顔を上げた。
宮園の表情も変わった。
「瀬川さんも、ですか」
「はい」
浅倉が資料を閉じた。
「個別の人事については、この場で詳しくお話しすることではありません」
「個別の人事だけなら、そうかもしれません」
瀬川は言った。
「ですが、管理業務を継続できる体制に関わることです」
浅倉の視線が鋭くなる。
それでも、瀬川は言葉を止めなかった。
「成田と井口は七月八日付で退職しました。二人とも管理業務主任者でした。現在、東都コミュニティ管理のこの事務所では、受託管理組合数に対する専任の管理業務主任者数が不足しています」
部屋の空気が、はっきり変わった。
「法定人数を満たしていない、ということですか」
宮園が尋ねた。
「はい」
瀬川は答えた。
「この点を問題ないと説明すれば、管理体制について事実と違う説明になります。二週間以内に適合させる措置が必要でしたが、期限はすでに過ぎています」
「瀬川さん」
浅倉が強く言った。
「それ以上は、社内で確認してから」
「確認済みの数字です」
瀬川は、浅倉を見た。
「百四組合に対して、必要な専任主任者は四名以上です。現在、名簿上残っているのは三名です。私が退職すれば、さらに減ります」
誰も、すぐには口を開かなかった。
宮園は、机の上で両手を組んだ。
「浅倉さん」
「はい」
「この状態で、管理は続けられる、と説明できますか」
「補充を進めています」
「決まってはいないんですね」
「調整中です」
「それは『できる』ではなく、『できるようにしたい』です」
浅倉は返事をしなかった。
女性理事が、小さく息を吐いた。
「私たちは、管理費が上がるのが嫌で巡回案を選びました。でも、安くなる理由を、ちゃんと見ていませんでした」
宮園は頷いた。
「理事会だけで管理会社を変えることはできません。契約の解約手続きも、引き継ぎも、臨時総会も必要です」
浅倉が顔を上げた。
「では」
「それでも、管理会社変更を検討します。すでに取っている概算も含めて候補会社を比較し直し、必要な見積もりをそろえて、臨時総会に出せる形にします」
宮園は、静かに言った。
「明日から変えるとは言いません。ですが、変えるための手続きを始めます」
集会室の窓の外で、夕方の光が少し薄くなっていた。
管理員室の受付窓は、今日も閉まっている。
瀬川は、その窓を見た。
空いている場所は、もう一つだけではなかった。
*
同じ夜、藤沢修は駅前の小さな喫茶店にいた。
六月下旬の管理員向け配置説明会のあと、成田から一度連絡があった。東都を離れる管理員の行き先について、話だけでも聞かせてほしい、という内容だった。
その後も、短いやり取りだけは続いていた。藤沢のところにも、「巡回班には移れない」「短時間勤務では続けられない」という相談が何件か来ていた。
向かいの席には、成田と井口が座っている。
二人とも、もう東都コミュニティ管理の社員ではない。だが、手元に置いたノートには、物件名や必要な体制の数字が並んでいた。
「会社を一から作るのは、無理があります」
成田が言った。
「登録、財産的基礎、事務所、専任主任者、会計の体制。すぐに管理組合を受ける形にはできません」
「分かっています」
藤沢は頷いた。
「だから、今ある会社に入れてもらう方がいいと思いました」
井口が顔を上げる。
「心当たりがあるんですか」
「一つだけ」
藤沢は、折り畳んだメモを出した。
そこには、会社名が一つ書かれている。
三葉総合管理。
「ビル清掃や設備管理が中心の会社だと聞いています」
成田が、会社名を見て言った。
「はい。大きな会社ではありません。マンション管理も、まだ十数組合くらいだそうです」
「緑町つばきテラスを受けるには、小さいですね」
「小さいです」
藤沢は、素直に認めた。
「でも、マンション管理業者の登録は持っているそうです。それに、部門を広げたい気持ちはあると聞きました」
「登録の有無は、こちらでも確認します」
成田が言った。
「聞いた話だけで、管理組合に名前は出せません」
「誰からですか」
井口が尋ねた。
「知り合いです。今は、三葉総合管理が見ているビルで清掃に入っている方です」
成田は、メモに視線を落としたまま黙った。
「現場の話を聞く会社だと」
藤沢は続けた。
「少なくとも、その人はそう言っていました」
「資格者だけが入っても駄目です」
成田が言った。
「現場管理員も、会計も、フロントも要ります。百八十戸の物件を受けるなら、巡回だけではなく日勤を組める人も必要です」
「だから、私一人の話ではありません」
藤沢は言った。
「東都を出る管理員が何人かいます。まだ次を決めていない人もいる。建物を見てきた人たちが、ばらばらに辞めて終わるよりいい。話を聞いてくれる会社に行けるなら、その方がいい」
井口は、背もたれに少し身体を預けた。
「主任者が二人、現場管理員が数人。三葉にとっては、マンション部門を広げる材料になる」
「ただ、こちらの都合だけでは動けません」
成田が言った。
「三葉が受けられるか、管理組合が選ぶか、東都との解約がどうなるか。全部、別の話です」
「はい」
藤沢は頷いた。
「だから、まず話を聞いてもらえるかだけです」
瀬川の名前は、誰も出さなかった。
まだ東都の人間だ。巻き込むには早い。
藤沢は、携帯電話を取り出した。
登録してある番号を探す指が、少しだけ止まる。
「その人には、私から聞いてみます」
発信ボタンを押すと、呼び出し音が鳴った。
成田と井口は、黙って待っていた。
ゼロから会社を作る話ではない。
いまある会社に、足りない人が合流できるかどうかの話だった。
呼び出し音が三度鳴り、相手が出た。
「山本さん、夜分にすみません。藤沢です」
藤沢は、背筋を少し伸ばした。
「少し、現場の話を聞いてくれる会社を探しています」
窓の外を、帰宅する人の影が通り過ぎた。
管理員室に灯りが戻るには、まだいくつもの手続きが必要だった。
それでも、その夜、三葉につながる最初の連絡だけはつながった。




