第106話「巡回では足りません」
八月二日、金曜日。
瀬川理央は、東都コミュニティ管理の社員証を総務へ返した。
机の引き出しは、朝のうちに空にしてあった。
私物は少ない。マグカップ、古い卓上カレンダー、予備のストッキング、書き味の悪くなったボールペン。段ボール箱に入れるほどの量ではなかった。
引き継ぎファイルだけが、机の上に残っている。
緑町つばきテラスのファイルには、赤い付箋を三枚貼った。
巡回管理でできること。
巡回管理でできないこと。
専任の管理業務主任者数が不足していること。
その三つを、分けて書いた。
「瀬川さん」
浅倉部長が、通路の向こうから声をかけた。
以前より少し頬がこけている。ここ数日で、東都の事務所には電話が増えていた。
緑町つばきテラスだけではない。日勤管理から巡回管理への見直しを提案していた別の物件からも、説明を求められている。
「元管理員たちが、どこか別の受け皿を探しているそうだ」
「そうですか」
「君が関わっているのか」
「関わっていません」
瀬川は、事実だけを答えた。
少なくとも、東都にいる間、瀬川は候補会社の話には関わっていない。
浅倉はしばらく瀬川を見ていた。
「この時期に辞められると困る」
「分かっています」
「分かっているなら」
「困るのは、私が辞めるからだけではありません」
瀬川は、机の上の引き継ぎファイルを浅倉の方へ少し押した。
「足りないものを、足りているように説明してきたからです」
浅倉は何も言わなかった。
言えば、また同じ言葉になる。
調整中です。
対応できます。
一時的な運用です。
瀬川は頭を下げた。
「お世話になりました」
それ以上は言わなかった。
会社の自動ドアを出ると、夕方の熱気が顔に当たった。
外の空気は重かった。
それでも、社員証のない首元だけが少し軽かった。
*
八月六日、火曜日。
三葉総合管理の会議室には、四人が集まっていた。
藤沢修、成田透吾、井口壮介。
そして三葉総合管理の大原社長だった。
三葉の本社は、駅前の古いビルの三階にある。受付も会議室も、東都ほど整ってはいない。壁際には清掃道具のカタログと、設備点検の予定表が置かれていた。
大原は五十代半ばの男性で、話す前に必ず資料の該当箇所を指で押さえる癖があった。
「結論から言うと、緑町つばきテラスを受けたい気持ちはあります」
大原は言った。
「ただし、『すぐ受けられます』とは言いません。百八十戸の日勤物件です。管理員とフロントを置き、会計処理と緊急時の連絡体制も整える必要があります」
「当然です」
成田が答えた。
「管理組合にも、できることとできないことを分けて説明してください。東都と同じことを繰り返したら、意味がありません」
大原は頷いた。
「三葉は登録済みですが、マンション部門はまだ小さい。今のままでは、緑町つばきテラスを受ける余裕はぎりぎりです。成田さんと井口さんが入ってくれるなら、主任者の体制は組めます。藤沢さんを含めて、日勤管理員の候補が何人かいるなら、現場も組める」
「元東都の管理員で、次を決めていない人がいます」
藤沢が言った。
「ただ、全員がつばきテラスに入れるわけではありません。通勤できる範囲も、勤務日数も違います」
「そこは無理に集めません」
大原は、予定表をめくった。
「契約開始を十二月一日に置くなら、九月から十一月にかけて人を決め、引き継ぎを受けられます。総会前の重要事項説明と、総会後の契約手続きも、その日程なら組めます。十一月一日は無理です。解約予告期間も、体制整備も足りない」
井口が、少し息を吐いた。
「それなら、無理に始めずに済みますね」
「無理をすると、あとで現場にしわ寄せが行きます」
大原は言った。
「うちは大きい会社ではありません。だからこそ、最初からできるように見せる余裕はありません」
藤沢は、その言葉を聞いて、少しだけ表情を緩めた。
できるように見せる余裕がない。
それは、頼りない言葉ではなかった。
「管理組合には、候補会社の一つとして見てもらいます」
成田が言った。
「東都を辞めた人間がいるから三葉で決まり、という話にはしません」
「その方がいいです」
藤沢も頷いた。
「住民の方が選ぶことですから」
大原は、資料の一番上に短く書き込んだ。
『十二月一日契約開始案』
その文字は、まだ細い。
けれど、空いた管理員室に灯りを戻すための、最初の具体的な日付だった。
*
実際には、三葉だけが候補だったわけではない。
宮園たちは、東都から巡回化の提案を受けた時点で、比較用に二社へ概算の見積もりだけは頼んでいた。
七月三十日の臨時理事会のあと、近隣の理事長にも聞き、候補を三社に広げた。
三葉は最後に加わった候補だった。八月六日の打ち合わせでは、大原が概算費用と受け入れ条件を示した。成田たちは主任者体制と日勤管理員の候補を整理した。
八月十六日までに、重要事項説明書を各戸へ配り、説明会の案内も掲示した。
八月中旬には、成田と井口が三葉に所属し、成田が三葉の管理業務主任者として説明に立てる体制も整った。
八月二十四日、土曜日。
緑町つばきテラスでは、午後一時から三葉総合管理による重要事項説明が行われた。成田が管理業務主任者証を提示して説明に立ち、大原が隣で資料をめくった。
説明会後に休憩を挟み、午後二時半からは臨時総会だった。
出席者は、六月の通常総会より多かった。委任状と議決権行使書も集まっている。鈴木昭子の件のあと、住民たちは管理員室の前を通るたびに、閉まった受付窓を見るようになっていた。
壇上には、宮園理事長と理事たちが座っている。
東都コミュニティ管理からは浅倉が来ていた。三葉総合管理からは大原と成田が来ている。成田の名刺には、もう東都の名前はなかった。
宮園は、最初に経過を説明した。
「本日の議案は三つです。東都コミュニティ管理への解約申入れ。三葉総合管理との新しい管理委託契約の締結。そして、理事会への細部調整の一任です。調整できるのは、重要事項説明書に記載された条件の範囲内に限ります。対象は引き継ぎ日程や窓口表記などです。解約予告期間と引き継ぎ期間を踏まえ、十二月一日からの切り替えを想定しています」
会場は静かだった。
「六月の総会で、私たちは管理費の値上げを避けるために巡回管理を選びました。理事会としても、その案を提案しました。ですが巡回管理に変わったあと、管理員室に人がいない時間帯に救急搬送がありました。場所は集合ポスト前です」
宮園は、そこで一度言葉を切った。
「もちろん、管理員がいれば事故を防げた、と断定するものではありません。ただ、日勤管理員が毎日そこにいることで拾えていたものを、私たちは軽く見ていました」
後方の席で、誰かが小さく頷いた。
宮園は資料をめくった。
「候補会社は三社に正式な条件で見積もりを依頼しました。一社は、日勤管理の人員確保が来年以降になるとの回答でした。もう一社は、委託費が現在の東都日勤継続案よりさらに高額でした。三葉総合管理は小規模ですが、十二月一日から平日日勤の体制を戻す案を出しています」
女性理事が補足した。
「藤沢さんをそのまま戻すことだけを条件にはしていません。代務体制、会計処理、緊急連絡、主任者の配置を含めて確認しました」
浅倉は、そこで手を上げた。
「東都としても、改善案をご提示できます。巡回曜日の追加、コールセンターからの連絡強化、清掃担当との連携強化」
宮園は、浅倉の方を見た。
「日勤管理には戻せますか」
「費用は上がります」
「費用が上がることは、今回は理解しています。人を置くなら費用がかかる。それを避けた結果が、今回の巡回化でした」
浅倉は、少し黙った。
「東都さんの専任の管理業務主任者は、今、必要人数を満たしていますか」
会場の視線が浅倉に向いた。
「補充を進めています」
「満たしていますか」
「現時点では、調整中です」
「では、今日の時点で満たしている、とは言えないんですね」
浅倉は答えなかった。
会場の空気が、六月とは違っていた。
前回は、値上げを避けたいという気持ちが沈黙を作っていた。
今日は、何を避けたせいで何を失ったのかを、全員が見ている。
質疑の最後に、宮園は一枚の紙を取り出した。
鈴木本人はまだ退院したばかりで、総会には来ていない。娘から、本人の了承を得て預かった文書だった。
宮園は、ゆっくり読み上げた。
「母は、管理員さんに見守ってもらう契約をしていたわけではありません」
「それは分かっています。でも、母が毎朝ポストまで行くことを知っている人が、建物の中にいました。その人がいなくなることを、私たちは金額の差としてしか見ていませんでした」
会場が静まり返った。
「巡回が悪いと言いたいわけではありません。巡回で足りる建物もあると思います」
宮園は、管理員室の方を一度見た。
「でも、この建物には、巡回では足りません」
その言葉のあと、議長である宮園が採決に移った。
反対はあった。
管理委託費は上がる。十一月末までの引き継ぎ期間も必要になる。三葉は大手ではない。不安がないわけではなかった。
それでも、議案は可決された。
東都コミュニティ管理との契約は、十一月末をもって終了する。
十二月一日から、三葉総合管理が管理を引き継ぐ。
管理員業務は、平日日勤と土曜午前に戻す。
宮園は、採決結果を読み上げたあと、深く息を吐いた。
「管理会社を変えます」
今度の声には、怒りよりも責任があった。
九月になると、瀬川も三葉総合管理に移った。
緑町つばきテラスの担当に入ることは、東都在籍中に三葉の選定へ関わっていないことを理事会へ説明したうえで決まった。
*
緑町つばきテラスだけでは終わらなかった。
近隣のマンション理事長同士の情報交換会で、東都コミュニティ管理の名前が出た。
日勤管理から巡回管理へ切り替える提案を受けていた物件が、同じように説明を求めた。
「巡回にすると、管理員室は何曜日の何時に空くのか」
「日勤管理員が拾っていた日常対応は、何が消えるのか」
「専任の管理業務主任者は、法定人数を満たしているのか」
どれも、以前なら細かすぎる質問として流されていたかもしれない。
だが、東都はもう、簡単に「対応できます」とは言えなかった。
一方、東都では八月上旬から足元が崩れていた。
浅倉は更新時期の近い物件や日勤固定の物件を優先して、体制見直しの可能性を説明し、協議を始めていた。
所管窓口への報告と、是正計画の作成に追われる日が続いた。
相談というより、指導に近かった。
専任主任者が不足している事実。
二週間以内に適合させられなかった経緯。
足りない体制のまま、管理組合へどのように説明しているのか。
書面で問われるたび、浅倉の「一時的な運用」は通らなくなった。
瀬川が抜けたあとの専任主任者は、坂井社長と片岡の二人だけだった。百四組合を抱え続ける数字ではない。
九月に一人、資格者の採用は決まった。
それでも三人では、受託管理組合を九十までしか持てない。
百四組合を抱え続けるには、まだ足りない。
浅倉は、何度も数字を並べ直した。
管理組合を減らす案。
日勤物件を巡回へ変える案。
外部委託を増やす案。
採用費を上げる案。
だが、現場を減らして数字を合わせようとすれば、今度は管理組合が離れた。
資格者を採ろうとしても、東都の評判を聞いた人材紹介会社からは、以前より返事が遅くなった。
残った管理員たちも、短時間化や巡回班への転換を前に、別の会社へ移っていった。
東都は、処分リスクを抱えたまま、新規受託を止めた。
不足状態を抱えたまま更新を続けることもできない。少なくとも行政処分につながる事態だけは避けるため、各管理組合へ体制不足を説明し、期限を切って受託数を減らす計画を出すしかなかった。
十月末までに、十六組合に早期合意解約の申入れまたは次回更新辞退の書面を出した。
そのうち六つは、日勤固定の主力物件だった。
契約の終了日は物件ごとにずれた。
そのうち十四組合については、管理組合側も次の受け皿を決め、十一月末までに契約終了または他社移管を終えた。ようやく、三人で抱えられる数字まで減った。
新規受託は止まり、マンション管理部門は縮小されることになった。
東都コミュニティ管理は、マンション管理業の新規営業を停止すると社内通知を出した。
既存契約も、更新のたびに他社へ移していく方針になった。
会社の看板が、すぐに消えるわけではない。
清掃の手配や小規模修繕の仲介は残る。
けれど、管理組合の総会で「東都さん」と呼ばれる席は、これから減っていく。
管理員室を空けた結果、空いたのは一つの窓だけではなかった。
*
十二月二日、月曜日。
緑町つばきテラスの管理員室には、朝から灯りがついていた。
藤沢修は、七時四十分に受付窓の鍵を開けた。
窓の内側には、三葉総合管理の小さな名札が置かれている。制服も変わった。胸のロゴも変わった。
それでも、机の位置は同じだった。
電話機の横には、新しい日誌がある。掲示物の予備は右の棚。宅配ボックスの確認表は、引き出しの二段目。
藤沢はゴミ置き場を見て、エントランスへ戻った。
集合ポストの前には、鈴木昭子が立っていた。
杖をついている。
歩く速さは、前より少しゆっくりだった。
「おはようございます、鈴木さん」
藤沢が声をかけると、鈴木は顔を上げた。
「ああ、藤沢さん」
鈴木は、少し笑った。
「戻ってきたのね」
「会社は変わりましたけどね」
「窓が開いているだけで、違うわ」
「寒くなってきましたから、無理しないでください。新聞、下に落ちそうですよ」
「あら、本当」
藤沢は、ポストの下に滑りかけた封筒を拾い、鈴木に渡した。
「ありがとうございます」
「お気をつけて」
鈴木がエレベーターへ向かうのを、藤沢は最後まで見た。
それから管理員室へ戻り、日誌を開く。
正式な記録には、必要なことだけを書く。
集合ポスト前、落とし物対応。
住民から受付再開への声あり。
名前は書かない。
見守りとは書かない。
それでも、明日の朝に見ることは、藤沢の中に残る。
九時を過ぎるころ、瀬川が管理員室に顔を出した。
三葉総合管理の名刺を胸元に下げている。
「初日、どうですか」
「いつも通りです」
藤沢は答えた。
「いつも通りが、一番大変なんですけどね」
瀬川は笑った。
東都にいたころなら、そんな言い方はできなかったかもしれない。
受付窓の向こうを、住民が通っていく。
出勤する人、買い物に出る人、犬の散歩から戻る人、宅配業者。
藤沢は、その流れの端にいた。
目立たない。
呼ばれなければ、名前も出ない。
けれど、窓は開いている。
その朝、緑町つばきテラスの管理員室には、藤沢のいる朝が戻っていた。




