第107話「今度こそ、AIで変えられる」
黒須康平は、取締役会の議事録を印刷しなかった。
以前なら紙で読んでいた。
画面より紙の方が、数字のずれも、言い回しの弱さも見つけやすい。赤ペンで丸をつけ、必要な行に線を引く。そうしている間に、自分の考えも整理される。
けれど、その日の黒須は、ノートパソコンの画面を開いたまま、しばらく手を止めていた。
議題名は、社内AI活用方針の見直し。
見直し、という言葉は便利だった。
禁止ではない。
撤退でもない。
ただし、進めるとは書かれていない。
本文制作への利用は、通常業務から外す。
企画段階で、責任者、最終判断者、補筆範囲、著者表示、校閲依頼範囲を明記する。
出版物に使う場合は、編集会議とは別に承認を取る。
どれも、黒須自身が会議で受け入れた内容だった。
間違ってはいない。
むしろ、前回の失敗を考えれば必要な線引きだった。
それでも、議事録の文字を追っていると、自分の名前の横に薄い傷が残っているように見えた。
黒須取締役より、再発防止策について説明。
黒須取締役より、AI活用範囲の限定について説明。
黒須取締役より、今後は段階的な検証に限る旨を説明。
説明。
説明。
説明。
黒須は画面を閉じかけ、途中でやめた。
閉じても、消えるものではない。
臨時の取締役会から、三ヶ月近くが過ぎていた。
役員報酬の自主返上は、社内で大きく話題にはならなかった。表向きは処分ではない。掲示されるものでもない。
ただ、人はそういう空気を読む。
黒須が会議でAIという言葉を出すと、誰かが少しだけ姿勢を直す。
否定はしない。
笑いもしない。
けれど、そこには以前と違う間があった。
「本文じゃなければ、使い道はあると思います」
制作管理部の定例会で、黒須はそう言った。
会議室には、編集、営業、制作管理、システム担当が一人ずつ来ていた。大きな会議ではない。今後の業務改善案を拾うための小さな打ち合わせだった。
「例えば、議事録の要約。販促文のたたき台。書店向け案内文の下書き。読者コメントの分類。著者への定型連絡文」
黒須は、画面に項目を出した。
「本文制作に使う話ではありません。人が書く前の材料整理です」
そう言ってから、少しだけ自分の声が硬いことに気づいた。
前回と違う、と先に言いすぎている。
それ自体が、前回の影を濃くしていた。
編集の間宮千尋は、資料を見ながら言った。
「議事録要約とコメント分類は、試してもいいと思います」
「販促文はどうですか」
「案として見るなら。ただ、最終的には編集部と営業で直します」
「もちろんです」
黒須はすぐに答えた。
すぐに答えすぎた、とも思った。
システム担当の相原が、控えめに手を上げた。
「閉域環境で使う前提なら、アカウント数を増やす必要があります。あと、入力するデータの範囲も決めないといけません」
「そこは私の方で整理します」
「整理してから、ですね」
相原の言い方に責める響きはなかった。
それでも黒須には、十分に聞こえた。
整理してから。
前回、黒須が飛ばしたところだった。
会議は荒れなかった。
誰も強く反対しなかった。
議事録要約と読者コメント分類は、小さく試すことになった。
それは前進だった。
だが、会議室を出るとき、黒須は自分の胸の中に残った重さを持て余した。
小さく試す。
段階的に検証する。
事故を起こさない範囲で使う。
どれも正しい。
正しいが、それだけでは会社は変わらない。
雨庭書房の廊下には、刷り上がった見本誌の箱が積まれていた。
紙の匂いがする。
営業部の棚には、書店別の展開写真が貼られている。編集部の席では、著者からの返信を待つ画面が開いている。
出版の仕事には、AIで軽くできる部分がある。
それは間違いない。
けれど、この会社で黒須がAIを語ると、どうしても本文制作の失敗へ戻ってしまう。
短編の数字。
中編の手直し。
止まった長編。
誰の名前で引くのか分からなかった赤線。
黒須は、それを不当だとは思わなかった。
自分がそうしたのだ。
*
その夜、黒須は自席に残っていた。
制作管理部の島村部長は先に帰り、隣の席も空いている。編集部の方から、キーボードを打つ音が細く聞こえた。
黒須は、ノートの左ページに線を引いた。
向いている仕事。
向いていない仕事。
最初は、それだけを書いた。
しばらく考えてから、左側に箇条書きを足す。
繰り返しがある。
過去例がある。
入力項目がそろっている。
禁止事項が決まっている。
人が最後に直せる。
最終成果物ではなく、判断材料として使える。
右側には、別の言葉を書く。
作者性。
物語全体の責任。
長期の伏線。
読者との約束。
誰の名で出すかが先に決まっていないもの。
黒須はペンを止めた。
前回、自分はAIを信じすぎたのではない。
AIに向かない仕事を、向いていることにした。
そう書きかけて、消した。
少し違う。
向いている部分だけを切り出したつもりで、切り出した先にある責任を見なかった。
今度は、そこを間違えてはいけない。
画面には、試験導入用の資料が開かれている。
議事録要約。
読者コメント分類。
販促文案。
便利にはなる。
それは分かる。
だが、その便利さは、雨庭書房の仕事の中心までは届かない。
出版点数の圧力も、作家不足も、編集者の赤字時間も、すぐには変わらない。
黒須は椅子にもたれた。
天井の蛍光灯が、少しだけ白く見えた。
「まだ残っていたんですか」
声をかけられ、黒須は顔を上げた。
宮田涼が、給湯室の方から戻ってくるところだった。手には紙コップを持っている。
「君もだろう」
「明日の打ち合わせ資料だけです」
宮田はそう言って、自分の席へ戻りかけた。
黒須は、その背中に声をかけた。
「宮田くん」
「はい」
「前の企画で、君が一番時間を使ったのはどこだった」
宮田は、すぐには答えなかった。
紙コップを机に置き、少し考える。
「本文を直す時間、だと思っていました」
「今は違うのか」
「違うというか……本文を直していたというより、何を直していいのか決める時間でした」
黒須は、ペンを持ったまま宮田を見た。
「何を直していいのか」
「はい。文章を読みやすくするだけなら、まだ分かります」
宮田は、紙コップの縁を指で押さえた。
「でも、主人公の目的を変えるのか、手紙のルールを変えるのか、著者名で出せる範囲なのか。そこを決めないまま赤を入れると、直しているのか、作っているのか分からなくなりました」
宮田の声は、責めるものではなかった。
ただ、疲れた後に残った事実を並べている声だった。
「つまり、修正の前に判断が必要だった」
「そうです」
宮田はうなずいた。
「AIが出した文章が悪いというより、どこまで任せて、どこから人が決めるのかが曖昧でした」
黒須は、ノートの左ページに目を戻した。
人が最後に直せる。
その一行の横に、もう一つ書き足す。
人が先に判断軸を持っている。
「ありがとう」
黒須が言うと、宮田は少しだけ目を丸くした。
「いえ」
宮田は短く答え、自分の席へ戻った。
黒須は、ノートに書いた一行を見続けた。
人が先に判断軸を持っている。
当たり前の言葉だった。
だが、その当たり前を先に置けなかったから、前回は止まった。
*
翌日から、黒須は雨庭書房の中で使えるAI活用案を、もう一度洗い直した。
議事録要約は使える。
ただし、会議の結論を変えるものではない。
読者コメント分類も使える。
ただし、どの反応を企画へつなげるかは編集部が決める。
販促文案も使える。
ただし、作品の売り方を決めるのは営業と編集だ。
どれも支援にはなる。
だが、仕事そのものを組み替えるほどではない。
黒須は、焦っていたわけではなかった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
それでも、社内でAI活用の話を出すたびに、自分の資料が小さくなっていく感覚はあった。
事故を避けるための線引き。
失敗しないための範囲限定。
社内の空気を乱さないための言い換え。
黒須は、それらを否定できない。
だが、その範囲でできることは、もう見えていた。
雨庭書房では、AIは便利な道具にはなる。
けれど、黒須が考えているほど大きくは動かせない。
その結論を紙に書いた日の夕方、黒須の携帯電話が震えた。
画面には、高瀬という名前が出ていた。
以前、採用広報の冊子制作で一緒になった男だった。今は、地方の中小企業向けに求人広告と採用支援をしている会社で役員をしている。
最後に直接話したのは、その冊子を納品したときだ。年賀の挨拶程度はあったが、電話が来るのは久しぶりだった。
黒須は少し迷ってから、通話ボタンを押した。
「ご無沙汰しています」
「黒須さん、お久しぶりです。突然すみません。今、お時間大丈夫ですか」
「少しなら」
高瀬の声は、以前より少しだけ早口だった。
「求人票の作成で、相談したいことがありまして」
「求人票ですか」
「はい。ただ、その前に一つだけ。先月、AIの業務利用に関する勉強会で、雨庭書房の相原さんと同席しまして」
相原。
定例会で、閉域環境と入力データの範囲を確認していたシステム担当だ。
「黒須さんが、社内のAI活用で何を任せて何を任せないかを整理していると聞きました。詳しい話は聞いていません」
「整理というほどのものではありません」
黒須はそう答えた。
だが、高瀬が自分に電話をかけてきた理由は、それで少し見えた。
「それで、求人票ですか」
「はい。うちの社長が、求人票くらいAIで作れるだろうと言い出しまして」
黒須は、椅子に座り直した。
「どういう状況ですか」
「過去の求人票はあります。応募数もあります。採用できたかどうかも、営業ごとには分かっています」
高瀬は、そこで一度言葉を切った。
「ただ、ファイルがばらばらで、職種名も表記がそろっていません。募集理由も、欠員補充とか増員とか新店舗とか、担当者のメモにしか残っていないものが多い」
高瀬は、そこで少し笑った。
笑い声には、困っている人の硬さが混じっていた。
「その状態で、求人票くらい、ですか」
「現場は反発しています。求人は人を見る仕事だ、AIで作った文章なんて信用できない、と」
そこで高瀬は、少し言いよどんだ。
「ただ、うちはその前で止まっている気がしています」
黒須は、すぐには返事をしなかった。
求人票。
職種。
募集理由。
過去原稿。
応募結果。
修正履歴。
使ってはいけない表現。
頭の中で、項目が並んでいく。
創作ではない。
条件がある。
過去例がある。
禁止事項がある。
人が直せる。
「求人票をAIに完成させたい、という相談ならお勧めしません」
黒須は言った。
電話の向こうで、高瀬が息を止めた気配があった。
「やっぱり、難しいですか」
「難しいというより、危ない。採用に関わる文章です」
黒須は、ノートの端を指で押さえた。
「年齢や性別のように、扱いを間違えれば問題になる表現もあります。応募者を見る基準は、人が持っていなければならない」
「そこも含めて、相談したいんです」
高瀬の声が、少し低くなった。
「うちは、求人票を作る前の情報整理から怪しい。だから、AIを入れるかどうかの前に、仕事の形を見てほしいんです」
「その順番は、大事です」
「でも、社内でそう言える人がいない」
黒須は、ノートの空いているページを開いた。
高瀬の言葉を、そのまま書く。
AI以前。
「資料を見せてもらえますか」
「もちろんです。過去求人と応募結果、クライアントからの修正依頼も出せます。個人情報は抜きます」
「それなら見られます」
黒須は、ペン先でノートを軽く叩いた。
前回、自分は順番を間違えた。
完成物に近いものを先に出し、あとから責任の置き場を探した。
今度は逆だ。
先に、仕事を並べる。
判断軸を置く。
人が直せる形にする。
その上で、AIに向く部分だけを任せる。
「高瀬さん」
「はい」
「たぶん、いきなりAI導入では失敗します」
「そうですよね」
「ただ」
黒須は、ノートの左ページに書いた項目を見た。
繰り返しがある。
過去例がある。
入力項目がそろう。
禁止事項が決まる。
人が最後に直せる。
「順番を間違えなければ、かなり向いている仕事だと思います」
電話の向こうで、高瀬が小さく息を吐いた。
「一度、来てもらえませんか」
黒須は、すぐには答えなかった。
雨庭書房の窓の外は、もう暗い。
向かいのビルの明かりが、いくつか残っている。
ノートパソコンの画面には、社内AI活用方針の議事録が開いたままだった。
その隣に、黒須のノートがある。
AI活用。
求人票。
AI以前。
黒須は、ノートの端に一行書いた。
今度こそ、AIで変えられる。
それから、すぐ下にもう一行足す。
ただし、AIの前に仕事を整える。
「分かりました」
黒須は言った。
「資料を見に行きます」




