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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
第21章『学生スタッフで十分でしょ』

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第96話「学生がいたから」

 四月五日、午前十一時。

 蓮見大学三号館の大講義室前には、まだ参加者の姿は少なかった。受付開始まで二時間ある。だが、廊下にはすでに長机が並び、案内板が立ち、受付用の名簿が五十音順に分けられていた。


「受付は予定どおり、十三時から開けます。来賓の方は二階の来賓控室へ。一般参加者はこの列で受けます」


 橘真琴は、スタッフに短く指示を出していた。

 声は落ち着いている。誰がどこに立つか、どのタイミングで案内板を動かすか、遅刻者が出た場合はどの扉から入れるか。篠原が口を挟む前に、必要なことはほとんど決まっていった。


「車椅子の参加者の方は、前方左側の席にご案内します。付き添いの方がいる場合は隣に一席空けてください」


「はい」


「控室の飲み物は常温と冷蔵、両方置いてあります。佐伯先生には常温を先に出してください」


 篠原は、その言葉に少しだけ顔を上げた。

 森下のメモが、橘のファイルに入っている。

 一月に森下が気づいていたことが、今回は業者の確認事項になっていた。


「ありがとうございます」


 篠原が言うと、橘は軽くうなずいた。


「共有いただいたメモが細かかったので、助かりました」


 それは、褒め言葉だった。

 だが篠原には、少し痛かった。



 十三時になると、参加者が一気に増えた。

 受付は乱れなかった。橘のスタッフは、名簿確認、資料配布、会場案内を手際よく進めていく。列が伸びかけると、すぐに案内板の位置を変え、学内関係者を別の列に誘導した。


「こちらでお名前をお願いします」


「資料は一部ずつお取りください」


「会場内は自由席です。前方からお詰めください」


 声の出し方も、動きも、きれいだった。

 篠原は廊下の端で、何度もうなずいた。外部業者に頼んだ判断は、少なくとも運営面では間違っていない。


 そう思った矢先、受付の横で年配の男性が足を止めた。


「篠原先生のゼミでは、今日のテーマは卒論でも扱えるんですか」


 受付スタッフは、すぐに篠原の方を見た。


「恐れ入ります。内容に関するご質問は、篠原先生におつなぎします」


 手順どおりの対応だった。

 男性は篠原の方へ案内された。


「先生、うちの市でも地域FMとの連携を考えていましてね。学生さんは、実際に調査に入ったりするんですか」


「テーマによります。過去には、地域FMと災害情報を扱った卒論もあります」


「その学生さんの発表資料は見られますか」


「個人の卒論なので、公開はしていません。ただ、関連する公開セミナーの資料なら、後日ご案内できます」


「なるほど。前回は受付の学生さんが、どの資料を見ればいいか教えてくれたんですが」


 男性は悪気なく言った。

 篠原は、少しだけ言葉に詰まった。


「今年は学生スタッフがいないんです」


「そうですか。残念ですね」


 男性はそう言って、会場へ入っていった。

 その背中を見送りながら、篠原は次に声をかけられた。


「すみません。自治体職員向けの研修として参加証明を出していただくことはできますか」


「それは地域連携センターに確認します」


「前回の動画はどこかで見られますか」


「確認します」


「篠原ゼミに興味がある学生なのですが、見学できますか」


「今年度は、所属学生がいません」


 最後の質問をした三年生らしい女子学生は、目を丸くした。


「いないんですか」


「はい」


「人気ゼミだと思っていました」


 篠原は返事ができなかった。

 その学生は「ありがとうございます」とだけ言って、会場へ入った。


 受付は止まっていない。

 資料も足りている。

 参加者の列も、きれいに流れている。

 だが、篠原の周りだけが少しずつ詰まっていった。


 質問が来る。

 確認する。

 答える。

 また呼ばれる。


 前回は、この前段階で学生たちが受け止めていたのだと、篠原はようやく肌で分かった。

 答えていたのではない。

 全部を自分のところまで来させないように、ほどいていた。



 講演会は、予定どおり十四時に始まった。

 学長の挨拶、来賓紹介、基調講演。進行は大きく崩れなかった。橘のスタッフは扉の開閉にも気を配り、遅れて来た参加者を後方の席へ静かに案内した。


 篠原は司会席に座りながら、何度も進行表を見た。

 時間は守られている。

 音響も問題ない。

 登壇者の水も足りている。


 形は、整っている。


 だが、質疑応答の時間になったとき、会場の空気が少し硬くなった。


「それでは、会場からご質問を受けたいと思います」


 篠原が言うと、橘のスタッフがマイクを持って通路に立った。

 動きは正確だった。質問者が手を挙げれば、すぐに向かえる位置にいる。


 けれど、最初の手が挙がらない。


 前回なら、森下が一つ目の質問を用意していた。

 会場が静かなら、学生の視点から聞ける問いを出す。専門家同士の話に寄りすぎたときは、参加者が入りやすい質問に戻す。そういう役割を、篠原は正式に頼んだ覚えがない。

 だが、彼女はやっていた。


「では、私から一つ補足を兼ねて」


 篠原は自分で質問を出した。

 登壇者は丁寧に答えた。悪くない。だが、会場の温度はなかなか上がらなかった。


 二つ目の質問は、自治体職員の男性から出た。

 三つ目は、地域FMの関係者から出た。

 どちらも内容は良かった。講演としては成立している。


 それでも、篠原は足元のあたりが落ち着かなかった。

 学生の声がない。

 会場のどこにも、学んでいる途中の誰かが、今の話を自分の言葉にしようとしている気配がない。


 大学の講演会なのに、大学の中で次に受け取る人間が見えなかった。



 閉会は、予定より五分早かった。

 参加者は大きな混乱もなく退場し、来賓も控室に戻った。橘のスタッフは、残った資料を束ね、忘れ物を確認し、案内板を片付けていく。


「本日はありがとうございました」


 篠原が言うと、橘は業務完了報告書を差し出した。


「大きなトラブルはありませんでした。参加者数は二百三十二名です。途中退席は十七名、車椅子の方の誘導も問題ありません」


「助かりました」


「ただ、内容に関するご質問はかなり多かったです。受付で二十一件、閉会後に十三件、篠原先生か地域連携センター様へおつなぎしています」


「そんなにありましたか」


「はい。弊社では回答できないため、すべて大学様側へ戻しました」


 橘は淡々と言った。

 その報告は正確だった。


「運営上、次回も同規模で実施されるなら、内容説明ができる大学側スタッフを別に配置された方がいいと思います」


「大学側スタッフ」


「はい。教職員の方でも、学生さんでも。弊社スタッフは誘導と受付はできますが、大学の中身までは説明できませんので」


 篠原はうなずいた。

 橘は、最後まで何も間違えなかった。



 翌週、アンケート集計が届いた。

 講演内容の満足度は高かった。登壇者への評価も良い。運営についても、「案内が丁寧」「受付がスムーズ」といったコメントが並んでいる。


 成功。

 そう書こうと思えば、書ける数字だった。


 だが、自由記述欄には別の言葉も残っていた。


『前回は学生さんが関連資料を案内してくれて助かった。今年は誰に聞けばいいか分かりにくかった』


『講演は良かったが、大学のゼミや授業とどうつながっているのか知りたかった』


『学生の質問があると、一般参加者も聞きやすいと思う』


『受付は丁寧だったが、大学の人という感じはあまりしなかった』


 篠原は、画面をスクロールした。

 どのコメントも、強い苦情ではない。星を一つにするような不満ではない。むしろ、講演会全体には満足している人が多い。


 だから、言い訳ができなかった。

 大失敗ではない。

 ただ、前にあったものが、なくなっている。


 研究室のドアが軽く叩かれた。

 佐伯だった。


「アンケート、見た?」


「はい」


「悪くはないね」


「ええ」


 篠原は画面を閉じた。


「悪くはありません」


 佐伯は椅子に座らず、棚の横に立ったまま言った。


「業者さんはよくやってくれた」


「はい。かなり助けられました」


「だからこそ、分かりやすかったんじゃないかな」


「何がですか」


「業者で代わる部分と、代わらない部分」


 篠原は何も言わなかった。


「学生がいないと、外へ向けた催しとしては成立しても、大学の中に戻ってこないんだね」


「大学の中に」


「前回は、学生が質問していた。資料も案内していた。自分の卒論や授業とつなげていた。あれがあったから、講演会が篠原ゼミの学びにもなっていたんだと思う」


 佐伯は、机の上の進行表を見た。


「受付と案内だけなら、確かに誰でもできるかもしれない。でも、あの学生たちは、それだけをしていたわけじゃない」


 篠原は、ゆっくりとうなずいた。

 アンケートの自由記述と、森下のメモが頭の中で重なった。


「六名いれば回ると思っていました」


 言葉にすると、思ったより重かった。


「来年のゼミ生に任せればいい。そういう数え方しかしていませんでした」


「数えること自体は必要だよ」


 佐伯は穏やかに言った。


「でも、数えたあとで、その一人ひとりが何を引き受けているかも見ないといけない」


 篠原は、森下の共有フォルダを開いた。

 受付用メモ。よくある質問。登壇者対応。

 どれも、もう何度も見たファイルだった。


「来年の募集要項を、書き直します」


「どう書く?」


「イベントがあります、だけではなく、何を学ぶ活動なのかを書きます。土日参加や準備時間も、最初から明示します。参加できない学生に不利益が出ない形にします。受付や案内をさせるなら、それを雑務ではなく、授業内容とつなげた演習として扱います」


「いいと思う」


「それと」


 篠原は少し迷ってから、続けた。


「必要な運営費は、最初から予算に入れます。学生がやるから無料、という組み方はやめます」


 佐伯は、そこで初めて少し表情を緩めた。


「そこまで書ければ、学生も選べるね」



 その日の夕方、篠原は森下にメールを書いた。

 長く書きすぎないように、何度か削った。


『講演会は無事に終わりました。整理してくれたメモに何度も助けられました。これまで、イベント運営を軽く見ていた部分があったと思います。負担をきちんと見ないまま頼んでいたこともありました。遅くなりましたが、ありがとう』


 送信してから、篠原はしばらく画面を見ていた。

 返事を期待するためのメールではなかった。

 謝罪として十分かどうかも分からない。

 ただ、書かずに次へ進むことはできなかった。


 夜になって、短い返信が来た。


『お疲れさまでした。メモが役に立ったならよかったです。後輩が入る年があれば、最初にちゃんと説明してあげてください。イベントは大変でしたけど、学べたこともあったので』


 篠原は、その最後の一文を何度も読んだ。


 大変でしたけど、学べたこともあった。


 自分が見落としていたのは、負担だけではない。

 学びにするための手順も、評価も、言葉も足りていなかった。


 篠原は、新しいゼミ紹介文を開いた。


『学外イベントへの参加があります』


 そう書いて、そこで止まる。

 以前なら、そのあとに「実践的な経験ができます」と続けていた。

 今は、その言葉だけでは足りないと分かる。


 篠原は一行消し、書き直した。


『学外イベントでは、来場者に研究内容を分かりやすく伝える役割を扱います。準備時間、当日の担当、評価との関係は事前に明示します』


 少し硬い。

 だが、曖昧にしない方がいい。


 窓の外では、四月のキャンパスに新入生の声が残っていた。

 今年の篠原ゼミには、学生がいない。

 その空白は、すぐには埋まらない。


 それでも、空白のまま見つめることはできる。

 誰かを次に迎えるなら、そこから始めるしかなかった。

■『誰でも』更新ペース変更のお知らせ。■


いつもお読みいただきありがとうございます。

『"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】』につきまして、投稿日を下記に変更とさせていただきます。


新章スタート:月曜日

各章3話〜6話


引き続きよろしくお願いします。

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